ガブリエル 西田 忠師

 
 

不便であった陸上の交通 昭和34年

 昭和34年秋の月夜間のことである。
そのとき山田氏は桐の勢漁丸に乗っていた。月夜間になり故郷の米山に帰ろうとすると、当時勢漁丸の船頭をしていた戸川金次郎が「奈良尾まで歩いて行かなくても午前8時桐発の渡海船「藤丸」に乗ると、上五島町の道土井に行ける」と親切に教えてくれたので、言われるままにすると、藤丸は若松まで行くと、そこで止まりかなり待たされてしまった。

 若松での待ち時間に、ある人から「浜の浦から青方方面に向かう渡海船がある」と聞いたから、また、その通り道土井から浜の浦まで歩いて行くと、渡海船はすでに出港した後であった。
 
この辺は西海国立公園になっている名所であるが、
その中でも若松瀬戸は景観がすばらしい。
集落は左より桐、古里、築地

 もう一便待ってから青方へ到着しその足で青方のバス停まで行った。
 すると、そこで、ある人から「バスで似首峠まで行けば似首から立串行きの渡海船がある」と聞いた。その時にも言われるままにすると、渡海船はまたまた丁度出港した後であった。
 仕方なく、似首から大浦方面の山道を経由して徒歩で立串まで行ったが、そのとき既に夕暮れになっていた。

 ここからまだ米山まではたっぷり20キロある。でこぼこだらけの山道を夜歩いて帰るので、昼間のようには速く歩けない。そればかりか1人での夜の道であるから怖くて心細い。
 
 そこで、立串の柴田商店によって普段は飲みもしないタバコとマッチを買ってからやおら歩き始めた。
 米山までの山道の途中には大瀬良峠など幽霊が出没するという話をいくつも知っている。

 そんな話は普段あまり信じていないが、それでも真夜中を1人で歩くことになると彼も怖かった。だからこそ、怖い所を通過する時のためにタバコとマッチを準備したのである。
さすがに大瀬良峠に来ると、何となく怖くなってきたので彼は柴田商店で買っていたタバコにマッチで火をつけ口でふかしてみたりしながら、どうにか家路に着くことが出来たが、その時には午後11時を過ぎていた。

 昭和40年代になると上五島の道路状況が良くなりタクシーで帰ることが出来るようになった。1人で乗るのであれば高い料金でも、たいていは3人、4人と乗り合わせ、割り勘で乗車していたので料金はそんなに気にならなかった。道路状況が悪いために立串からタクシーが行かない時があったが、そんなときにも白タク(闇のタクシー)で行ってもらっていた。しかし、道が悪いものだから大雨が降ると脱輪して溝に落下したりしてお客も運転手も困ることがあった。
 

事例 II 山添照雄氏

 略歴
 昭和6年7月4日北魚目村仲知生まれ
 昭和6年7月7日仲知教会で受洗
 昭和19年3月26日仲知教会で堅信
 昭和31年10月8日結婚

 山添照雄氏の勢漁丸での思い出は山田常喜氏の思い出と重複する部分が多いので彼から聞いたことの大部分は割愛することにする。ご了解をいただきたい。
 
2000年6月、福見教会へ巡礼した時の山添照雄氏
前列左

勢漁丸の創業の頃

 山添照雄氏が仲知尋常高等小学校科2年を卒業した昭和21年3月頃の社会は、戦後の混乱した状況で就職なども簡単に見つけることが出来なかったので、彼はしばらく家業の農業を手伝っていた。

 他方、中五島の奈良尾、岩瀬浦で沿岸漁業のいわし網船が盛んになり始めていた。仲知の若者の多くが就職することになる桐では、桐小島で「田崎五島水産業」が奈良尾のイワシ船から原料のいわしを直接仕入れて、煮干し・削り節・肥料などにする製造加工業が盛んであった。
 
写真中央の島が桐小島

 
いわしの煮干し加工風景

 さらに、昭和22年になると 昭和10年代に長崎から進出していた「川南缶詰会社」の跡地を再利用して白浜仁吉代議士の実兄・白浜由蔵氏がイワシ網事業として「勢漁丸」の操業準備を始めていた。仲知出身の崎谷(旧姓・山下)氏は社長の親戚筋にあたるということで勢漁丸の事務員として雇われていて、昭和22年に出身地の仲知に乗組員の募集に来た。
 

 このときに雇われたのが久志の山添照雄氏と真浦の真浦岩男氏の2人である。山添照雄氏はそのとき若干16歳でコック見習として雇われ、給料は1ヵ月で3 000円の契約であった。

 創業してからの勢漁丸のイワシ網漁は順調で中五島地区でのイワシ網船団の中でもトップを争う水揚げを記録していた。
 昭和27年頃には本船は当時としては珍しい鉄船で、エンジンも最新のディーゼルエンジンであった。

奴隷の仕事コールタール染め

 山田氏だけでなく、勢漁丸に乗っていた山添照雄氏にとっても勢漁丸時代に一番苦労し、辛かった作業はやはり昭和27年頃、網の腐食を防ぐため行われていたコールタール染めであった。
彼はその当時のことを懐古しながらこう話した。

 「コールタール染めは奴隷の仕事で人間にふさわしい仕事ではなかった。コールタール染め作業の時には大方の船乗りが顔におしろいをつけズボン河童を着用して慎重に作業していたが、裸になって作業をするという無鉄砲な船乗りもいた。

 鮮魚船や火船に乗っていた船乗りはそうでもなかったが、コールタールを染めていた網舟の本船に乗船していた私達はコールタール網に直接触れる機会が多く非常に大変であった。
からだに染み込んでいるコールタールで真夏などはからだが焼け、ひりひりし寝ることも出来ない状態が何日も続いていた。生活のための仕事とはいえ金には変えられない苦労であった。」

シャー(小遣い銭)

 漁をして帰港すると、捕れたいわしの一部はそれぞれ本船、火船、母船の船乗りのためにとっておき、個人の製造業者に販売する。シャーの係りになっていた船乗りが月夜間になると製造業者から金を受け取り、それを船乗りの1人1人に配当する。

 会社には内緒であったこの配当金は船乗りの小遣い銭になっていた。仲知の信者はたいてい基本給の5、000円は家に持ち帰りこのシャーを酒代に充てていたというが、さらに真面目な人はこのシャーの金も家に仕送りしていたという???

 桐の港には社長が住んでいたので、この闇金の配当はあまりなかったが、鹿児島沖に出漁した時にはこのシャーでよく酒を飲んでいた。

事例 III 

 竹谷キセ氏

略歴
昭和6年5月7日北魚目村仲知生まれ
昭和6年5月12日仲知教会で受洗
昭和19年3月26日仲知教会で堅信
昭和30年5月3日仲知教会で結婚
 
後列の女性が竹谷キセさん

 長崎教区長・島本要大司教とは同級生の竹谷キセさんは今年5月7日の誕生日が来れば70歳の喜寿を迎える。現在のキセさんはたいした病気もせず、長男勝(まさる)の孫に囲まれながら散歩したり仲知のデイサービスに通ったりして、明るい老後を幸せに過ごしておられる。この年代の誰でもがそうであるように、これまで歩んできた彼女の70年の生涯は決して平坦ではなかった。
平成13年3月12日午後、彼女の大好きな相撲番組が済んだ頃を見計らって私は彼女の隠居宅を訪れてこれまでの思い出をお聞きした。

 彼女は竹谷啓作・ヤエの長女であるが、父啓作は彼女が仲知尋常小学校高等科2年生の時(昭和20年11月)腎臓炎のために40歳の若さで死亡。しかもそのとき妻は9人目の子を宿していた。

 体内の子は父の死後2ヵ月後に無事生まれて名は○○と名づけられたが、問題は女一人身でどうして9人の子供たちを養っていくことが出来るのかという心配であった。

 夫がまだ元気であった時分から既に食糧難で、知人の紹介で野首に麦を買い行ったついでに、小さなジャガイモやフンネ芋をいただいて来てなんとか命をつなげていた。

 そのような家計が苦しい時の、しかも、戦後社会も混乱していた矢先の夫の死であった。
子供もみな幼く働ける年齢に達している子供は一人もいなかった。

奈良尾村福見で子の守(昭和21年)

 このような家庭事情で長女として育った竹谷キセは、父の死後4ヵ月して(昭和21年3月)仲知尋常小学校高等科2年を卒業すると同時に、まだ若干15歳であったが、家族の経済の担い手として、先ず奈良尾村福見のある信者の家庭で子の守として働くことにした。給料は日給50円の約束である。
 
福見教会

 その家庭のご主人は第2次世界大戦で左手を失っていたが、健康な右手で百姓をして細々と家族を養っていた。奥さんは幼い子供たちを養育しながら夫が作ったキャベツ、大根、白菜、玉ねぎなどを伝馬船で奈良尾まで運びイワシと交換する仕事をしていた。この奥さんにはまだ「一二三」とか言う名の乳飲み子がいたので、そのお世話をしていた若い竹谷キセは彼女に連れられて奈良尾まで行った。キセはそれまで伝馬船の魯を漕ぐことは出来なかったが、このとき奥さんに習って魯を自分で漕ぐことが出来るようになった。

 

西田師(その22)へ

 
ホームへ戻る                    
邦人司祭のページへ
inserted by FC2 system