ガブリエル 西田 忠師

(4)、下口 照 享年69歳

 略歴
 昭和7年4月25日、南松浦郡若松村桐古里生まれ。
 昭和36年2月14日、田口幸子と結婚。
 平成13年2月14日、フランシスコ病院で逝去
 
昭和36年2月、雲仙へ新婚旅行したときのスナップ写真。

 編者は平成13年2月6日から2月15日までの10日間に4人の方を相次いで天国へ送るという不幸な出来事を経験したが、その内3人は仲知小教区の信徒で、あと1人は長崎市中町教会に所属している私の実兄であった。

 葬式はどの方の場合も遺族の方だけでなく、それに深くかかわる葬儀司式者の司祭にも大変な緊張と疲れをもたらす。私も今年2月、尊敬する信徒や肉親の死を4回連続して体験したので、これまでにない悲しい思いを体験しました。

 特に兄弟であった下口照は私が高校1年生の時から亡き父・下口勢四郎に代わって経済面でも精神面でも文字通り父親のように私の生活の面倒をみてくれたかけがえのない存在であったので、その死は大きな打撃であった。

 ここで亡くなった兄のことを思い、いつまでも悲しみに留まっているつもりはないが、故人のたくさんの良い行いに感謝し、死後の永遠の安息と救いの恵みを祈るつもりで、葬儀ミサの説教と会葬御礼とを載せてもらうことにしましたので、ご了解をお願いしたい。

 なお、兄は結婚するまで仲知の真浦岩男氏や真浦榊氏らと一緒に若松村桐の勢漁丸で働いていたので、仲知の信者が信仰熱心であることをよく知っていた。それで、弟の私が平成6年4月15日、仲知小教区に赴任することになったときには誰よりも喜んでくれた一人である。

 そして、平成9年6月19日、仲知教会で行われた私の司祭叙階25周年の感謝ミサの時にはまだ元気であったので、肉親の代表者として長崎から愛用の釣り舟でお祝いに駆けつけ喜びを分かち合ってくれた。

葬儀ミサ説教 
     中町教会、2月15日午前11時
 
 まず、最初に会葬者のみなさんに御礼申し上げます。
今日は兄・ペトロ下口照の葬式に5人の神父様を初め修道女、信徒、それに生前の兄にかかわりのあった方々が大勢ご会葬していただきまして心より御礼申し上げます。

 ペトロ下口照は2月14日午前9時14分、聖フランシスコ病院で成人T細胞白血病のため家族に囲まれながら静かに御父のもとへ旅発ちました。享年69歳でした。

 約3年前に発病して以来、生前の兄の関心の一つは父よりも長生き出来るかどうかでしたが、くしくも父と同じ年齢で死亡しました。

 しかも、死亡した2月14日は丁度結婚40周年記念日でした。しかも、死亡した時間9時14分をひっくり返した数字419は、長崎市青果市場で野菜や果物を落札する時に必要な下口青果店の番号でありました。私は学生の時から3年前に現役を引退するまでの37年間いつもこの番号のついた愛用の帽子を被って市場から仕入れた果物や野菜をお客に売りさばく兄の姿をすぐ側で見て来ました。
 
下口商店、長崎市銭座町

 今年(平成13年)1月30日、3年前に発病した病気が再発し長崎市市民病院に入院、検査の途中から死を予感し、もはや助かる見込みはほとんどないのではないかと自己診断していました。

 そして、もう自分の命が迫っているのであれば市民病院の共同部屋でなく、個室で誰はばかることなく祈りに集中し、ご聖体をさずかり、いつ神の前に立たされてもよいように心を整えたい。そのために出来れば聖フランシスコ病院に転院したいという強い望みを持っていました。
この兄の望みは病院の先生方のご協力とご理解によりかなえられ本人はとても喜び、感謝していました。

 2月2日、希望がかなって聖フランシスコ病院に転院してから2、3日はがんの抗生剤が効き出し、いくらか快復に向かい始め、主治医も本人も家族もひょっとすると助かるかもしれないという一抹の希望を持つほどになりました。

 しかし、間もなく吐血、発熱、そして激しい呼吸困難と病状はどんどん悪くなり、そのたびに病気の苦しみにじっと我慢して耐えていました。しかし、2月14日早朝、臨終が近いことを悟った兄は自分の強い希望で聖フランシスコ病院で病人のお世話をいている冷水神父様に来ていただいてゆるしの秘跡を授けて頂きましたが、その直後、安心したのか静かに天国へ過ぎ越して行きました。

 カトリック信者としてこのような心境で神のもとに旅発つことが出来たのはまさに神様からのお恵みであり、さらに、神父様や信徒の皆様の祈りと励ましによるものであります。故人に代わって深く感謝申し上げます。

追悼

 次に少し時間を頂いて弟の立場から兄の生き様を追悼したいと思います。

 兄下口照は昭和37年、縁あって長崎市飽ノ浦教会信徒田口幸子と結婚。爾来約37年間ずーと元気で家内の幸子と一緒に長崎市の銭座町の銭座町マーケット内の店を借りて主に野菜と青果業を営んで来ました。

 37年間の青果業は後年落ち込みがありましたが、同業者に比べると、おおむね順調な業績をあげることが出来ました。これは本人の商売に対する意欲、情熱、工夫、知恵を生かした成果でありますが、それにもましてお得意さんや同業者の方々のご指導のお陰でありました。この場をお借りして感謝申し上げます。

 私は高校2年生のとき父下口勢四郎を肺ガンで亡くして以来、兄は父親代わりになって経済面だけでなく、精神的にも大きな支柱となってくれていました。

 28年前の3月19日、26歳で念願の神父になってからは経済面の援助は不必要となりましたが、精神的には死ぬまで私の人生の伴侶となり、支えとなっていました。
 

1972年3月21日、中町教会で行なわれた初ミサ後の記念写真。
右端が親代わりの大役を果たした兄・下口照

 ところが、3年前、一万人の成人T細胞ウイルス患者の内、実際に発病するのは3人とか4人に過ぎないと言われている難病に襲われました。多分過労が原因であったのでしょう。しかし、奇跡的に助かり、その後約2年間は仕事を止め夫婦水入らずの余生を送ることが出来ました。

 病気快復後の兄の生活態度を側で眺め続けて来たことを要約するなら、これまで神から与えられた69年の人生を総括し、集大成する恵みの期間であった、ということがいえると思います。つまり、仕事や生活のためでなく、神への信仰と人への愛に生きようとするキリスト信者にふさわしい生活態度でありまいた。

以下の話は私が最近兄から直接聞いた話のあらましであります。

―病人見舞い

 同病相憐れむということからの実践だったのでしょう。
兄夫婦は去年クリスマスに亡くなられた親せきの濱口道子さんを何回もねんごろに見舞ってがんに効果があるとされている民間治療を施していましたが、この見舞いを兼ねた治療はご夫婦からとても喜ばれて嬉しかったことを具体的に話していました。
 

昭和47年3月21日、濱口卓蔵・道子夫妻
下口神父の司祭叙階会場で

―鮮魚で愛の奉仕

 弟の私は発病後いつも兄のことを気遣い上五島仲知の特産である鮮魚を送って兄夫婦を励まし、喜んでもらっていましたが、今年1月上旬には仲知の定置網で捕れた黒鯛を一箱宅急便で送りました。いつもは子供とか、すぐ近くに住んでいる姉や姪に配るのに、そのときは二匹だけ自分のためにとって後はすべて侘しく暮らしている親せきのお年よりに配ってあげて喜んでもらったと意気揚揚と話していました。
その頃の兄の心は隣人と神へ向かっていたのです。

―修道院との付き合い

元気な時にはよくお告げのマリア修道院のシスター方や女子パウロ会のシスター方にただみたいに果物を提供して喜んでもらっていました。

 晩年の趣味は夫婦で釣りをすることでありましたが、発病後も体調が良くなった時を見計らってときどき釣りを楽しんでいました。

 或る日、長崎市の郊外に釣りに行った時、思いがけず1キロ近くの長ハギが35匹も釣れたときがありましたが、それはすべて聖パウロ修道院とお告げのマリア修道院のシスター方に差し上げて食べてもらったということを電話で誇らしげに話してくれました。

―奉仕活動

 退院後の夫婦は毎日所属している中町教会の早朝ミサに預かることを自分達の大切な神奉仕と考えていましたし、長崎市内とその近郊で司教ミサがあるときにも必ず夫婦で参加して司教様の説教に耳を傾け、そのすばらしい説教に心打たれていました。

 また、特に殉教者への崇敬の気持ちが強く、西坂の丘での殉教ミサや雲仙での殉教ミサに与ることを喜びとしていました。

 あるときは電話で、こんなことを話してくれました。(兄の電話は長く、大抵20分から30分はつき合わされました。話し上手で私よりも兄の方が神父になっていた方が良かったのにと、いつも思いながら兄の話を聞いていました。)

 去年のクリスマスのことでありますが、誰にも気づかれないようにと中町教会の祭壇とマリア像のところに鉢植えの花を飾っていたらパウロ会のシスターには感づかれてしまった。

 また、近くの書店に出かけて園芸の本を購入し中町教会の殉教者記念碑が設置されている周囲にバラの木を植樹することを思い立ち、どんな風に植樹したらよいか本を読みながら工夫していたら病状が悪化したため植樹しただけに留まった。
(先日、その場所を見に中町教会に行きましたら、処分されず、バラがまだ植樹された状態であったのでとてもうれしく、天国の兄も喜んでいるだろうと思いました。中町教会の主任司祭の下川神父様に深く感謝いたします。)

 以上のことは兄から聞いた話ですが、どれもこれも大した奉仕活動でありません。誰でもその気になれば実行できることばかりです。
 しかし、病気であるにもかかわらず、これらのごく小さなことに自分の置かれている生活環境で自分に出来る愛の実践を計画し、実行し、それを喜びとし、そのような小さな愛の実践に兄嫁を巻き込んでいたことに兄らしさがにじみ出ているなと思っています。

 最後に、ここには兄の子供達4人が全員揃っているので一言申し上げておきます。

 みなさんはすで親から独立しそれぞれの環境で社会人として元気に活躍しています。

 しかし、現在の日本の社会は経済優先の社会であるために、そのひずみが家庭、学校に及び人々の生活は活力を失っています。

 このような社会になっているのは人々が愛を見失ってしまっているからです。ですから、皆さんは物質的な豊かさを中心にして来た社会の価値観に染まっていないかどうか見直し、対話に基づく愛の実践を家庭で実行し、愛の価値観を育てるべきであると思います。

 さらに、私達の人生の目的は神にあります。私達は神によって造られた存在として神に向かって旅している。私達の人生の目標は神との出会いです。
 皆さんは皆さんの父の人生の目標もこの神との出会いに向かっていたことを良く知っておられるでしょう。皆さんの父は私達を救い、永遠の命へ導くのはイエス、キリストへの信頼と信仰にあるとの確信をもって69年の生涯を過ごして安らかに神のもとへ旅たったのです。

 皆さんもカトリック信者であるこのような愛と信仰の価値観を大切にしながら社会で世の光、地の塩となるように頑張って欲しいし、そうすることが、父への最高の祈りであり、供養になるのではないでしょうか。
 

会葬御礼

 主の平安

 この度、亡父ペトロ 下口 照の永眠に際しまして、ご丁寧なお悔やみの言葉と過分 な御香料を頂きまして誠にありがとうございました。また、三年前の発病以来、心温まるお見舞い、たくさんのお祈り深く感謝しておりま す。

 発 病後幸運にも退院してからは、毎日御ミサにあずかり、時間のある限り聖書を開き 、ロザリオを手に祈りをしていた父でした。時には教会前のマリア様を磨き、花壇の手入れ等を行い、体調の良い日には最も楽しみにしていた魚釣りに夫婦で出かけ、い つも皆の喜ぶ顔を楽しみに充実した日々を過ごし、何事も準備し最期の時を迎えてく れました。
 
1990年、親戚の彫刻家に依頼してマリア像を制作し自宅2階の玄関に安置した。

 
自宅3階に安置しているお気に入りの家庭祭壇で祈る夫婦

 病気の再発に死を覚悟した父の言葉は「何も思い残すことはない」、最期の言葉は「 ありがとう。ありがとう。ありがとう。」でした。ど なに苦しくても「カトリック 信者として自分から死にたいと思ってはいけない。罪になるから」と最期まであきら めず、二度目の奇跡を信じ、病気に立ち向かっていました。日頃、身を持って教える ことをしていた父は、どんな逆境にあっても気持ちの持ち方で一つで充実した日々を 過ごし悔いの無い人生を送ることができることを、遺言として私達家族に残してくれ ました。

 お蔭様をもちまして、本日、滞りなく忌明けすることができました。父の生前の意向により、霊前に 拝領しました御香料の一部を「中町カトリック教会」 及び「長崎カトリック神学院」に寄付させて頂きました。つきましては、心ばかりの 品をお届け致します。

 今後とも何かにつけ、お力添えを願うこともあるかと存じますが、何卒よろしくお願 い申し上げます。末筆ながらご家族様の発展をお祈り申し上げます。

平成13年3月
              長崎市緑町10の17番地
                     下口 幸子
                      下口 力
                     山口 由香里
                     伊藤 美智代
                     黒柳 美香
 
在りし日の下口照(右から下口幸子・照夫婦、下口静夫・美代子夫婦)雲仙にて 撮影者は弟下口勳 撮影は平成12年6月

 
写真で見る下口照の思い出

 

勇退された西田師
           平成13年3月19日

 司祭生活58年を迎え、また今年(平成13年1月14日、川棚教会創立50周年を執り行ったガブリエル西田忠神父(85)が3月19日付けで現役司祭生活から引退された。
1916年5月13日、長崎市生まれ。浦上教会出身。長崎公教神学校、海星中学校を経て、43年3月東京大神学校を卒業後司祭叙階。43年4月南田平教会助任、46年12月鯛ノ浦主任、47年12月仲知主任、53年7月教区会計(兼大山主任)、79年11月深堀主任、81年9月川棚主任。現在カトリック・センター司祭室。

 
野首小教区へ



 
 

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