ガブリエル 西田 忠師

1947(昭22)年〜1953(昭28)年


青空保育所建設工事の資金について

 「仲知修道院100年の歩み」によると、西田師は総額270万円の青空保育所新築工事にあたって「資金調達に頭を痛めた」とごく簡単な説明に留めている。編者はこの点を詳しく調査してみることにした。

 それはなぜかと言うと、昭和23年の仲知教会建設工事においては西田師も信徒も他の小教区の信徒に援助を願わなければならないほど資金難に苦しんだのに、その約2年後(昭和25年)になると、自分たちの力で、もう立派な設備の整った保育所を造っているからである。
 

元気で遊んでいる青空保育所の子供たち

 
 
青空保育所第一回卒業生と園長の西田神父様

 どうしてそういう神業に近いことが出来るようになったのだろうか。単純な疑問が残る。
そこで、編者は西田師を始め当時の仲知の社会事情に精通している信徒の方にこの点を聞いてみた。もう50年前のことなので正確なことは分からない。そのことを前提にして調査で分かったことをここでは箇条書きにして紹介したい。

1、政府からの援助金

 西田師によると、白浜仁吉代議士にお願いして国からの援助金を支給してもらった。その支給金は15万円程の額で期待したほどの額ではなかったが、それでも建設基礎資金として大いに助かったということである。

2、イワシ巻き網船好況に支えられて

 仲知教会建設が始まった昭和22年はまだ戦後の物資不足、食糧難のときであった。それに家庭の働き手である大黒柱の父親や息子が復員して来ても、日本社会は経済不況が続いていたので、仲知では現金収入が少なく、郷里の仲知でただ芋畑を耕して食べていくことが精一杯の家族が多かった。
ところが、青空保育所建設が行われた昭和25年になると、中五島の沿岸巻き網業が好景気になり、このため多くの仲知の青年たちが桐、奈良尾、濱串のイワシ船の乗組員となり月々現金収入が得られるようになって来た。
 

昭和27年ごろ浜串を母港としていた昭生丸イワシ網漁船団 
「浜串カトリック教会記念誌」より

 
 
 
平成8年、浜串の港 「浜串カトリック教会記念誌」より

 
 

3、カンコロ景気に支えられて

 それと同時に昭和25年頃は芋を加工したカンコロが国民の食糧として高値で売れるようになっていたのでどこの家庭でも寸暇を惜しんで芋畑の仕事に精を出した。畑になりそうなところの土地はどこでも芋畑にし、この頃の仲知の山という山は頂上付近まで禿山になるほど芋畑になっていた。
 

カンコロきり作業風景 平成10年

 山添照雄さんの話によると、「その頃の仲知はどこの家にも生カンコロを自然乾燥させる、いわゆる『カンコロ棚』が直ぐ家の前にあった。カンコロにする原料の芋の量が多かったので、どの家庭でも少し乾けば棚に干しているカンコロはコモに移して家の周りやその周辺の道端に干すという風景が日常的に見られた。仲知ではいつも人よりもカンコロを出荷していた久志の久志庄吉、山添重衛門らはトウセン鼻辺りまで生カンコロを干していた。」
 こうして加工したカンコロはたいてい100斤俵で40俵くらいが普通で、多い人は80俵くらい出荷する人もいた。

 このようにカンコロ景気になると、仲知小教区内の各郷の経済運営も順調に機能し、各郷とも赤字から黒字の運営となった。それを目当てにした西田師は各郷の運営資金から青空保育所の資金を借リることができるようになった。借入金は建設後、園長と職員の給料で少しづつ返済していった。勿論、カンコロ丸と同様に信徒の各家庭から現物(カンコロ)供出による援助、寄付金も保育所建設資金に充当されたことはいうまでもない。
 

 
精麦事業(昭和24年)

 西田師は赴任した時から子供の教育だけでなく、仲知の生活面の向上と改善策として精米業を計画されていた。
 というのは、その頃はすでに小値賀でも津和崎でも立串でもすでに精米事業が盛んでそれらの地区の住民はその恩恵を受けていたのに仲知だけが取り残されていたからである。 

 しかし、赴任して1年間は仲知教会建設の寄付金廻りなどで目の廻る程忙しかったし、それに精米業を起こす資金調達の目安もついていなかったので、どうすることも出来ない状況がしばらく続いていた。
 

昭和26年、中古の精米機が購入されて仲知の開発がにわかに活気づいた。

 ところが、昭和24年5月のことである。当時漁業で栄えていた奈良尾で火船の機械が中古品として売りに出されている、との耳よりな情報が入った。安く買える中古の機械ならば、資金の方は今すぐ調達できる、と考えた師は早速奈良尾までエンジンを買いに行こうと思い立った。

しかし、当時の陸上の交通はまだ未開地のままであったので、師は奈良尾までの約40キロを徒歩で歩かなければならなかった。それでも、師は体力には自信があったので丸一日かけて歩いてエンジンを購入し、仲知に精米業を起こし、その事業の収益金で修道院の経済を支えることとした。

 このため、師は修道院の牛小屋を改造し、精麦製粉機、押し麦機など各種の原動機を設置した。機械の操作、管理、修理などを会員真浦ミサノ(当時33歳)と若い真浦タシ(当時19歳)に教えながら仲知で初めて精麦事業を開始された。

 仲知小教区各集落、大水、大瀬良、津和崎から舟に麦を積み込んでやって来た。年中、仕事に追われるほど忙しかったが、特に麦の収穫時期の5月から8月までの期間は、注文が多く麦俵が積み上げられる程であった。原動機が一度かかると、すべての機械も人間も一日中フル回転し、休憩もなく食事も落ち着いて出来ない状態であった。担当の姉妹たちは村人たちの要望に応え、遠方から来る人を優先的にし、その便宜を図るため止むなく夜も仕事を続けなければならなかった。

 この精麦業は生活向上に大いに役立ち、人々に喜ばれた。これまで麦はすべて自分たちの手で挽いていた。麦つきはひき臼を引いて小麦粉にするのも非常に骨の折れる仕事であった。
 
 
昭和25年、畑仕事に精を出す
仲知修道院の姉妹たち

 しかし、この仕事は最初のうちはエンジンが中古であったためにしばしば故障し、そのたびに修理が必要でせっかくの精麦業も中断することがあった。そのたびに西田師は修理に時間を費やし、無駄な労力と時間を費やさなければならなかったばかりか、修理のために手も足も作業服も油まみれとなり、さらには、精麦の時発生する麦ぬかで体全体は小麦色に汚れていた。さらに機械修理が手間取ると、いらいらし、機転の利かない若い姉妹たちを怒ることもしばしばであった。

 「安物買いの銭失い」と言う諺通りであった。最初から新機械を購入して精米業を起こしておけば何のトラブルもなく、また、姉妹たちをやたらに怒ることもなく済んだでしょうけど、それも人生経験の一つだったのでしょう。

 時に若松町大平出身の熱心なカトリック信者・浜口澄江はその頃長崎で機械屋をしていて結構繁盛していた。機械修理に明け暮れていた西田師はこの浜口氏に相談してみた。するとこの人は大変太っ腹な人で新機械を保証書なしに貸してくれた。昭和26年頃のことである。
こうして、その後の精麦業は何のトラブルもなく順調に行くようになった。

脱穀機で奉仕作業

 編者は昭和20年の生まれであっても実家の家業がイワシの製造業であったことから殆ど麦の収穫の苦労を知らない。その苦労をよく知っている、私よりも先輩の人は「人間の手による麦の収穫は重労働であった」と異口同音に言われる。

 西田師が精麦業を始める前の仲知では畑で収穫した麦はセンバー、麦擂り機、トウミで麦を収穫していたが、これはすべて手作業であった。つまり、畑で収穫した麦は現場でセンバーで麦の穂を摘み取り、麦摺リ機で摺った麦をさらにトウミに入れてハシカ(麦の殻)と麦とにより分けていた。
この人間の手による手間を省くために西田師が始めたのが脱穀機による麦の収穫であり、この恩恵を受けたのは久志、一本松、赤波江、江袋各集落の信徒たちである。

 西田師は希望者には脱穀機を無料で貸し出し、時間の都合がつく時にはご自分も現場の畑に出向いて機械の点検や使い道を教えて廻った。これも精麦業に勝るとも劣らない盛況で信徒から大いに感謝された。

小瀬良教会建設と教育委員

  小瀬良留三氏の思い出

  略歴
  昭和2年3月30日小瀬良生まれ。
  昭和2年4月7日永田師より仲知教会で受洗
  昭和14年8月25日浦川司教総代理より仲知教会で堅信
  昭和25年1月4日 奈摩内(青砂ヶ浦)教会で結婚。職業は浜串の昭生丸の乗組員をしていた。
  1男7女の子供を授かり去年(平成12年)金婚式を迎え新魚目町より表彰される。
  現在、曽根小教区経済評議員として活躍。
 

 平成13年3月23日午後3時、私は小瀬良と大瀬良地区の隠れキリシタンについての情報を得るために小瀬良教会の経済評議員・小瀬良留三さん(73)宅を訪問させてもらった。自宅は大水へ向かう道路に入ってから直ぐ左側にあった。隠れキリシタンについては浜崎師のページか、田中師のページで紹介することにして、ここでは西田師が関わった小瀬良教会建設と教育委員の話を中心にして私なりにまとめてみた。なお、編集作業のさいには直接西田師に電話をして足りない個所を補ったが、最初に訪問時の印象を簡単に記しておくことにする。

訪問の印象

 訪問の印象はとても謙虚で素朴な信仰を持ちながら明るい老後を過ごしておられる、ということであった。昔のことを懐かしむ感じでいつもにこやかに話してくださった。このためこちらまで楽しい気分で話を伺うことが出来た。隠れキリシタンの3つの地区での現地訪問ではにはわざわざ懇切丁寧な案内をして下さった。感謝。

 

西田師(その4)へ

ホームへ戻る                    

邦人司祭のページへ
inserted by FC2 system