ガブリエル 西田 忠師

1947(昭22)年〜1953(昭28)年


 (1)北魚目村教育委員(昭和24年)
 
小瀬良留蔵氏
小瀬良留蔵氏宅

 戦後、教育改革も民主化の重要な柱の一つであった。
昭和22年、教育の機会均等や男女共学の原則をうたった教育基本法が制定され義務教育が6年から9年に延長された。同時に制定された学校教育法により、4月から六・三・三・四の新学制が発足した。大学も大幅に増設されてより大衆化し、女子大学生も増加した。また、昭和23年、都道府県・市町村に公選による教育委員会がもうけられた。

 北魚目村の町長・中本文平氏は国の教育改革に応えて昭和24年に第一回北魚目村教育委員会委員の公選を行うことにした。既に村会議員をしていた仲知の前田修一郎は、信者集落からの立候補者としては信者に抜群の信頼と人気のある主任司祭の西田師が最適であると考え、師に立候補するように強く要請した。師は思わぬ立候補の願いに躊躇したが、先ず司教様に神父が教育委員に立候補してもよいのかどうか確認することの方が先であると考えて許可を願った。すると、全く異存はないとの返事である。

 そこで、どうしようかとしばらく考えたが、最終的には「教育委員となり村の行政当局者と交わった方が保育事業と健全な子供たちの信仰教育のためになるのではないか」と考えた。さらに、地域振興と生活改善のためにも貢献できるのではないかと、思い直して心では気が進まないまま立候補することにした。
 

西田師は昭和21年12月20日から仲知小教区に着任される昭和22年11月まで鯛ノ浦小教区の主任司祭をしていた。
この写真は鯛ノ浦修道院の姉妹達との記念写真である。

 このような心理状態のままでいると、地元の前田議員が「仲知小教区内の信者をそれぞれの6つの集落の公民館に集めるので、ぜひとも選挙演説をしてくれ」とせがんでくる。やむを得ず重い腰を上げて演説はしたもののどうもミサの説教とは異なる違和感を感じた。
 

青空保育所第一回卒園児初聖体 昭和26年

 結局、師は予想されていた通りトップ当選で北魚目村第一回教育委員の1人となった。役場のあった立串からは立串で開業していた牧山氏が当選した。こうして発足した教育委員会は、会合を各委員の持ち回りで定期的に開催し、委員としてこの地域の信徒の教育育成のために奉仕することとなった。立串での会議のさいにはしばしば帰りが遅くなることがあった。夜中に立串から仲知まで帰途につくことは人よりも頑丈な体格に恵まれていた師にも心細いことであった。 

 だから、そのような時には立串から前もって電話で修道院に連絡しておいて迎えに来てもらっていたが、同じ時間帯に出発していたのでたいてい姉妹たちとは大瀬良峠あたりで合流していた。当時のこの地区の道路状況はまだでこぼこ道であったが、懐中電灯のお陰で連れがおれば寂しくも怖くもなかった。

(西田師に聞く)
 
(2)小瀬良教会新築工事(昭和25年)
 

 現在の教会建設工事前までは小瀬良教会の信徒たちは都会へ転出して行った方の家を購入して現在地に立て替え仮聖堂として使用していた。

 ところが、昭和24年小瀬良教会で行われた大水教会との合同の大人の黙想会の最中に床がぼったする(落下する)という事故が発生した。信徒はそれまで既に教会建設に備えて少しづつ積み立てをしていたが、新築工事をするには相当額の金額が不足している。そこで、黙想会の安堵終(じま)いのお茶を飲むのもそこそこに臨時の郷の総会を開催することになった。その総会には主任司祭にも同席していただいた。

 総会では修復工事かそれとも新築工事にするかで議論が二つに分かれた。宿老、郷長などの村の主だった人が修復工事にしようとする信徒の大方の意見に賛成したため、総会での雰囲気は修復工事に傾きかけていた。そのとき、郷の三役の1人であった青年頭の小瀬良留三が「同じ金をかけるなら新築にしたほうが安心して長く使用できるし、また、将来の教会を担う子供たちに余計な負担をかけなくて済むではないか。思い切って新に造ろう、もし皆さんが無理のようであるなら私たち青年が奮発するから」と、青年らしく大胆な発言をした。(このとき彼は立串のアグり船の機関長をしていて人よりも良い給料をもらっていた)

 この意見を聞いた宿老たちは彼の勇気ある意見に賛成し、醜い争いをする事無くすんなりと新築工事が決定した。昭和24年の3月のことである。

敷地と資金調達

 新築工事が決定すると、次は敷地と資金調達をどうするかであるが、敷地の方は既に新築工事を決定する前にあらまし決まっていた。

 旧教会屋敷の地主は立串郷の小倉次吉という人で立串郵便局長をしていた。この人は小瀬良教会の信者が教会建設の意向で同郵便局に積み立てをしていたことを知っていたものだから、その積立金をしばらく貸してくれるようにと願った。
 
 というのは、立串郷は昭和22年に郷のお宮と公民館とを造って銀行から大きな借金をしていてその返済に困っていたからである。立串郷の役職についていた彼は言葉を続けてこう言った。「今は借金を返済できずに困っている。お前たちの教会を造る時は必ず返済することを強く約束する。それに、私の所有地ならどこでも希望する所にあなたがたの教会敷地を無料で提供してもよいから、あなた方が教会建設資金として積み立てている金をしばらく貸してくれないか」と懇願された。信徒は地主からのたっての願いである上、互助の精神からその懇願を受け入れることにした。
 
 その後のことであるが、信徒は彼から提供してもらった教会屋敷を名義変更しようとして地主の彼に名義変更の願いを申込んだ。すると、その点では一歩も譲歩せず「お前たちは何を考えているのか。私の名義にしておけば税金を納めなくてもよかろうが。」という考えで、今でも教会屋敷は彼の名義のままになっている。

 ところで、彼から無償で提供され、信者が希望した教会敷地は雑木林であった。そこで、信徒は業者にその整地を依頼するとかなりの金がかかることので、信徒全員の労働奉仕で敷地の整地を行うことにした。その作業には西田師も仲知から駆けつけ信者と一緒に汗を流された。ただ、石垣工事だけは職人を雇った。

 教会資金の不足分は世帯主に割り当てにしたが、宿老の親戚に当たる浜串の昭徳水産社長から多額の寄付金があった。さらに、西田師の尽力により山口司教様より30万円の寄付があったが、その報告で西田師は「何処の教会でもこんな多額の寄付をしてもらった教会はないぞ。仲知の教会建設のときには司教様からの寄付は10万円じゃったとぞ。あなたがたはその3倍の寄付をいただいたのだから司教様に感謝しなければいけないよ」と言われた。また、司教様からはこの地区は隠れキリシタンの多い布教地であるので、少なくとも教会は幅4間と長さ7間にするように指示されたが、そのためには敷地が狭くやむなく幅4間、長さ6間にした。

 設計施工は長崎の岩本組で建築総工費は160万円であった。現場の大工・平山和人は棟梁の弟子であったが、棟梁よりこの建築の出来栄え次第で弟子離れし一人前の大工として認められるという条件を付けられていた。

 さらに、彼は聖母の騎士修道会司祭・川下師の親戚に当たる熱心な信者であったので、その建築工事に対しては真剣で自分の持てる技術を生かそうと一生懸命であった。昭和25年2月に着工、同年5月竣工、献堂式は同年6月、上五島で堅信式が行われた機会に山口司教が行った。式典後、教会前の広場で婦人会による踊りが披露された。木造瓦葺の教会建設に併せて司祭館も教会隣接地に新築で造った。

 西田師は小瀬良教会新築工事後も北魚目村の教育委員をしておられたので、会議のため当時役場のあった立串に行くことが頻繁にあった。しかもその会議は土曜日の午後開催されることがよくあったので、大水教会よりも新築したばかりの小瀬良教会で日曜日のミサをすることが多くなっていた。なぜならば、立串からは小瀬良教会の方が地理的に近いからである。

 そんなときにも信仰熱心な大水の信者たちは小瀬良教会でのミサに与り日曜日の勤めを果たしていたが、さすがの大水の信者も人間である。それまで日曜日のミサは大水と小瀬良とで交互にたっていたのに小瀬良教会が新築されてからは、大水教会でのミサの回数が目に見えて少なくなり、この点で主任司祭の陰口を言う者がいた。

(3) 西田と岩永(四郎)両師の助っ人、小使い役

 小瀬良氏は巻き網船の機関長をしていたから西田師よりもはるかにエンジンに専門的な技能を身につけていた。だから、西田師は精麦の機械にトラブルが発生するたびに彼を頼りにしていた。昭和25年の6月頃、彼が漁船の「切り上げ」のために沖から1ヵ月の休暇で家に帰って来たらすぐ西田師より精麦機の修理に呼び出された。2日ばかりで修理が済んで家に帰ると、またすぐ機械の調子が悪くなったといって呼び出された。今度も1日か、2日くらいだろうと思って着替えも持たずに仲知に行くと西田師は「家に帰らないでここにおれ」と言う。止む無く神父様の作業服を借りて作業をすることになったが、どの菜っ葉服(作業服)も油でしみて汚れていた。

 その後、彼は3年間ばかり機関長の技術が評価されて奈良尾の野村丸の機関長をしていたが、その頃の野村丸の事務所と網棚は浜串にあったことから浜串教会の主任司祭の岩永師と知り合い、かわいがってもらうようになった。そして、しばしば師が所有していた「ミカエル丸」の操船をさせられていた。
 

岩永氏のミカエル丸
「浜串小教区記念誌」より

 ある月夜間のこと。西田師が浜串の岩永師の所に来ておられたので3人が話をする機会があった。

 西田師が岩永師にこう言った。「留(とめ)はかか(妻)を好かんとじゃなかとじゃろ、休暇で仲知に来れば家に帰る道ば知らん」
たまりかねた彼は「神父様もそがん嘘を言ってよかとかな。家に帰りとおして帰ろうとしても帰らせなかったのに」と言った。

 

西田師(その5)へ

 
ホームへ戻る                    
邦人司祭のページへ
inserted by FC2 system