ガブリエル 西田 忠師

1947(昭22)年〜1953(昭28)年


(4)、お酒の付き合い
 
小瀬良留蔵氏

 西田師は仲知時代ほとんどお酒は飲んでいない。しかし、気を許せる数少ない友人であった小瀬良氏とはご自分のほうから所望して一度だけ深酒している。

 立串で教育委員会の会合が済んだ帰り道のことであるが、西田師がひょっこり彼の自宅に現れて「留(とめ)今日は2人で酒ば思いっきり飲もうか」「いいですね飲みましょう」
「父が酒ノンペーで家の財産をみな飲み倒してしまったから親の真似は出来んから普段は飲まないようにしている。しかし、今日だけは飲んでみる。本当はお前より私のほうが強いかもよ」
おっしゃる通りその日の西田師はけっこう深酒し、その日2人は1時間もしないうちに一升瓶のお酒を空にした。

(5)、カンコロ飯泥棒

 彼の家は立串から大水への道の直ぐ脇にあった。ある日のこと、立串での用件を済ませた西田師が彼の家の裏の入り口から勝手に侵入して、土間のかまどに炊いていた釜からカンコロ飯を手に握って食べながら大水へと向かった。というのは、翌日が大水でのミサになっていたので仲知には帰らないで、彼の家がある大水へ近道をして行ったからである。そのとき西田師は腹が減っていたのでしょう。

 このことを後日、師自ら留さんに告白した。すると留は「丁度その日はカンコロ飯だったけど、ちゃんと前もって教えてくだされば半麦飯くらいは準備しておくのに」と反論した。

 (6)、「請負師、職人」と呼ばれていた西田師

 仲知小教区に着任した時から西田師は仲知教会建設、精麦所事業、水道工事、小瀬良教会建設、青空保育所建設など次から次にハードな仕事の連続であった。師は職人ではなかったが、職人にも負けない建設の技能を身につけていたのでご自分に出来るような仕事は業者には依頼しないで自分でなさっている。知恵と恵まれた体力とをフルに活用してのこのような活躍はたとえば青空保育所建設によく示されている。

 師は保育室の備品、保育器具などは工夫をこらして自分で製作した。西の浜付近に打ち寄せられた難破した塩船の木材、木片、ロープ等をもらい、これを利用して保育所屋外遊具としての鉄製ブランコ、遊動ブランコ、砂場はみな師自ら製作した物である。

 圧巻なのが水道工事である。教会と保育所の飲料水、風呂水、使い水のため西田師は自ら設計、工事し現場で働き自家用の浄化水道を引いた。その水道用のタンクは保育所の上方部の湧き水を溜めるもので、コンクリートのかなり大きなものであった。保育所の父兄と修道院の会員はこの仕事に駆り出され材料の砂、バラスなどを毎日のように真浦の浜から運んだ。

 湧き水を飲料水にするには役場の検疫で合格しないと使用出来ないので師はバラス、砂、炭を上手に組み合わせてろ過させて何とか検疫にも合格した。合格すると、師は保育所の園児が毎日入浴できるように配慮し、これも苦心して独特のお風呂場を造ることを計画し実行された。修道院の物置小屋を改造し、一度にたくさんの子供が入浴出来るように大きな浴槽を完成させた。

(お告げのマリア修道院100年の歩み」参照)
 
 このように毎日の忙しいハードな仕事に明け暮れたにもかかわらず、信者の中には師の信徒への思いやりを理解できず師のことを「しょたれ、やりっぱなし」と酷評する人もいたが、それはあきらかに誤解に基づくものである。西田師から信頼されていた小瀬良留三氏等師と親しく付き合い師のことを良く知っている信徒は師のことを「請負師、または職人」と呼ぶことがあったと言う。これはすべての信徒が認めるだけでなく、本人も「そうだったな」と納得していただける呼称であるのではないか、と編者も思う。

(7)、電燈工事(昭和24年)

 西田師は手先が器用で機械いじりも好きで職人肌の技能を身につけていたことを話したついでに電燈工事のことを追加記事としてここで記すことにしてみよう。

 昭和24年、仲知に精麦所を起こしてどうにかその事業が軌道に乗ると、西田師はバッテリー配線による電灯を灯すことを計画された。勿論、バッテリー充電は精麦所にある原動機を起して発電機によりバッテリーに充電させるのであるが、充電させた電力を教会や司祭館、そして、修道院に配電させる工事は自分ではしていない。漏電の危険があるし、この工事だけは師が汽船に乗船している時に偶然知り合った佐世保の電気屋にお願いしている。

 こうして、教会、司祭館、修道院に電燈が灯されたが、仲知に本格的に配電工事が行われ、電燈が仲知の各家庭につくようになったのは、9年後の昭和33年4月のことである。

 この電燈工事で特筆すべきは教会での毎日の早朝ミサなどの典礼行事が一変したことである。それまでの典礼は燈油によるランプで執行されていたために教会内は薄暗かったが、電燈により明るくなり信徒も司祭も以前より行動的にミサ典礼に与ることが出来るようになった。

 例えば、当時クリスマスミサは深夜の12時に仲知教会か江袋教会で行われていたが、昭和24年のクリスマスミサからは仲知教会で行うようになった。この時は夕暮れ時から教会内だけでなく、外にも電燈をつけてクリスマスの雰囲気をつくっていた。夜の11時頃になると、米山、大水、小瀬良、赤波江の信徒は三々五々真夜中に家族連れで続々と仲知に集まって来る。すると、遠い所から闇夜の中に仲知教会の電燈がこうこうと輝いて見える。この輝きは遠い所から歩いて来る信徒に早くもクリスマスの喜びを肌で感じさせる演出効果があったと言う。
 

(8)、隠れキリシタンへの司牧

 小瀬良地区は信者よりもまだ隠れキリシタンが多い。西田師のときもそうであった。昭和25年小瀬良教会建設で山口司教より寄付をもらった時にここは「布教地である」と言われていたことを信徒も師も決して忘れていなかった。
ある日、西田師は単独で宇野地区のある隠れキリシタンの自宅を訪問しお互いに信仰について話し合った。

 その訪問で西田師が強く印象づけられた点は隠れキリシタンたちがカトリックの信徒以上に先祖から伝承されているオラショ、規則、お祝い日を伝承されている通り忠実に実行していたことであった。相手を説き伏せて出来れば改宗させ
ようとしての下心あっての訪問であったが、実際に訪問し話し合ってみると彼らの信仰態度からむしろ学ぶことが多かった。

 そこで、西田師は信頼している小瀬良留三氏に繰り返して「かなわんぞ、かなわんぞ、信仰ばせんば(しなければ)」 と言うのであった。

 師が訪問した宇野の隠れキリシタンはやがてガンで病死した。そのことを師は後で知らされた。すると、亡くなる前にあと一回会っとけばよかった。そうすると、「臨終の洗礼を授けることが出来たかもしれないし、さらに、カトリックの葬式で天国へみ送り出来たかも知れないのに」と何度も何度も悔やむのであった。

(9)、再会

 仲知では愛称で「留(とめ)、留(とめ)」と慕われ続けていた小瀬良留三氏は師と別れて約10年後のことである。アジ、サバなどの鮮魚を積んで長崎の魚市場に入港した。早速彼は司教館の西田師を電話で呼び出して「魚を取りに来るように」とお願いした。すると、師はトラックでやって来たが、しばらく時間があったので師の勧めに従い司教館でお茶を飲むことにした。
 

司教館時代の西田神父様

 
大司教館
子供たちと面会している山口大司教様

 司教館の入り口から西田師のお部屋の方へ行こうとすると、外人らしい高貴な人とすれ違いになった。簡単な会釈ですませていると西田師より「その方は山口司教様ぞ、10年前に小瀬良教会の祝別式をしてくださったときの司教様たい」との説明があった。帰りには西田師の取り計らいによりその外人さんのお部屋に通されて挨拶し、指輪にも接吻させてもらうという幸運に恵まれて司教館を後にすることが出来た。

(10)、浜串小教区主任司祭岩永四郎師のこと
 

浜串時代の岩永師。子供たちと一緒に記念写真

 小瀬良氏は西田師からだけ信頼されたのではなく、浜串では岩永師からも信頼されて、小使いをさせられている。
 つまり、岩永師が福見に巡回する時、所用で野首の浜田師の所へ出かける時、また、教区司祭の黙想会の時には長崎までもミカエル丸を操船させられて連れて行かされている。
 

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