ガブリエル 西田 忠師

1947(昭22)年〜1953(昭28)年


(11)、小値賀幼稚園開設と講演会

 
 
野首小教区主任司祭の浜田朝松師

 年代は昭和25年前後のことであるが、野首小教区の主任司祭の浜田朝松師のご尽力と山口司教の英断によって布教の地、北松浦郡小値賀村に長崎教区の経営する保育園が竣工。村の中央部に造られた園舎の祝福式とミサが山口司教の手によって盛大に挙行され、その式典には上・下五島の司祭たちが大勢参列した。また、園舎の祝福式の前日の晩には小値賀の公民館で山口司教による講演会が行われた。
 

現在も保存されている小値賀保育所。
  小瀬良氏は浜串の主任をしていた岩永師に依頼されて岩永師所有の「ミカエル丸」で式典に参列する司祭たちを式典会場であった小値賀まで連れて行った思い出を今も忘れない。

 最初、浜串港を岩永師だけを乗せて出発してから青砂ヶ浦まで行き、そこで8人の司祭を乗船させ、さらに野首へと行き、そこで浜田師を乗せて小値賀に向かった。

 ところが、小値賀港に接岸する時になると、それまで船内に座っていた司祭たちが一斉に立ち上がったので、視界をさえぎられて一瞬操船出来なくなった。彼はあわててブリッジの中から叫んだ。「なんばしよっとか、前方がどうなっているのか分からないから座れ」。不謹慎にも司祭たちに命令口調で注意してしまった。そのとき彼の直ぐ側にいた岩永師が「もっと品のよかものが言えんとか」と逆に注意された。

 このとき西田師所有の仲知のカンコロ丸も信者と神父様方を乗せて何回も小値賀に往復しておられる。
 また、昭和24年米山教会での青年の黙想会が3日間の予定で行われていたが、そのとき浜田師が陣頭指揮をとって小値賀保育所の敷地の整地が行われていたので黙想の指導をしていた西田師は三日目の黙想はキャンセルして整地の手伝いに米山の青年15・6人を小値賀へ派遣している。
このとき西田師より派遣された青年の1人は山田常喜氏でその時の模様を次のように語った。
 「米山の青年たちは村の人が持っていた2隻の漁船に乗り合わせて行き、整地の作業をして奉仕した。」

 他方、小瀬良氏の記憶によると、前日の晩に行われた山口司教の講演は非常に好評であった。小瀬良氏自身は会場が満席であったので講演そのものは聞いていないが、講演後、神父と坊さんとの間で次のようなやり取りがあった事を覚えている。

 講演に来ていた小値賀の坊さんが「話の内容は見事であったが、急所をつけば司教といえども返事にたじたじして困ることだろう」と皮肉った。するとその話を側で聞いいていた神父たちの1人が後で、仲間達にそのことを伝えながら「糞坊主め、対談して論争でもするなら足元にも及ばんくせに」とこき下ろした。このお坊さんは間もなくカトリックの幼稚園と対抗するため、別の場所に幼稚園を設立したとか。諸宗教との対話の進んでいる今日においては、こんな対立は慎むべきであろうに。

 講演後、講演を聴いて心を打たれ、キリスト教の教えを習いたいと名乗る仏教徒が多数現れ、その中から信仰の恵みを受けた人が3人ほどいた、という。
山口司教はその晩は小値賀に宿泊し、翌日午前中に小値賀保育所の祝福式をミサの中で荘厳に挙行された。

(12)、小瀬良留三氏の信仰  
―仕事より信仰を優先―

 小瀬良留三氏の話の締めくくりに彼の信仰について少し触れておくことにしたい。

 彼は終戦を福岡の今福の兵器製造会社で迎えた。終戦とともに従業員の殆どは実家に帰されているのに彼は課長から残された。その頃、下五島の玉之浦がアメリカ軍より艦砲射撃を受けていたが、「五島は全滅だ」というデマが飛んでいた。そこで、デマとは分かっていてもそれを口実にして「両親や兄弟たちが元気にしているかの安否を確かめたい、また、生存を確かめた暁には戻ってくるからとにかく一度故郷に帰らせてくれ」と頼んだ。

 帰郷して家族の者が無事であることを確認すると、彼は行く末に迷った。今福に帰ることも良いが、あそこには近くに教会がないから信仰がおろそかになる。しかし、課長との約束がある。どうしようか。このように迷っていると北魚目村小串のいわし巻き網船に乗っていた兄たちが仕事の相談にやって来て「今機関長がいないから加勢に来てくれんか」とのこと。「おれは約束しているから今福にいかんばよ」「どこさへ行くとか、船に乗れ」との強い言葉。

 この兄弟たちの強い説得が結局船乗りになるきっかけとなった。福岡の今福の会社が長崎ならいくらでも教会があるので多分船乗りにはならなかったであろう。しかし、今福は会社の待遇が良くても、救いのために大切な教会がどっちもつかずである。つまり、教会の所在する唐津も福岡も今福からははるかに遠い所にあるので、信仰生活が疎かになることが目に見えている。

中部漁業組合(昭和25年)

 平成12年12月の日曜日、ミサの説教のお知らせで信徒の皆さんに「歴代主任司祭について調査を始めているので知っていることは何でもいいから教えてください」と、ご協力を願っていたら米山の信徒白濱増雄さんより、西田師について少し情報を提供できるということを本人から聞いた。

 そこで、私は平成13年2月6日夕方、彼の自宅を訪問し畑田師と西田師についていろんな思い出をお聴きした。西田師についての思い出では主に病人訪問と漁業共同組合の件についての思い出が興味深かった。

 しかし、何分、50年も前のことなのではっきりとしないことも多かった。そこで、漁業組合の思い出については彼の指示に従い、米山の山田常喜氏、仲知の久志半助氏、それに西田師本人にも電話でお聴きして足りない部分を補った。以下は4人の話をまとめたものであるが、正確なことは分からないところが多い。それでも、分かっている範囲内でここに記録として収録しておくことは無駄ではない、と思うので記しておくことにする。

 仲知の地先権は仲知小教区初代司祭であった中田藤吉師の尽力によって明治の後半から認められるようになっていた。仲知の漁民は近くの磯に生息するオゴ、ヒジキなどの海藻類、サザエ、アワビ、ミナなどの磯物を採取していたが、米山、瀬戸脇、野首の漁民は、戦後民主化が進み昭和25年海区漁業調整法という法律で地先権が制定された後も目の前の海岸に生息している海藻類や磯物を採る権利はいっさい与えられていなかった。

 ここでは事例として米山の場合を考えてみることにする。
米山の信徒は人口の勢力こそお隣の津和崎村の人口とほぼ同じであったが、利権が絡む村の経済的な運営においては津和崎の住民にいつも押さえ込まれていた。だから、地先に生息する磯物と海藻類の採取に際しては津和崎の住民は頑なままで少しも譲歩しようとはしなかった。そこで、米山の住民は仲知の信徒の許可のもと仲知の海岸まで出かけて行って海草・オゴを採取させてもらっていた。

 オゴの採取時期になると、米山の人は一軒から必ず2人出て採取し、採取したオゴは海上が凪であれば伝馬船で運搬し、時化であればそれぞれエーで担って米山まで運搬していた。この運搬作業は重労働であったが、当時オゴは高値で売れていて、良い現金収入となっていたのでみんな頑張って運んでいた。

 このような状況の中で昭和25年海区漁業調整法が制定された。この法律は地先権を保護する法律で米山の信徒にとっては朗報であった。しかし、黙っていては何も現状は打破しない。

 そこで、村会議員をしていた仲知の前田修一郎、西田主任司祭、米山の信徒代表山田忠太郎氏らが津和崎の漁業組合組合長ら幹部と米山の地先権について話し合うことにした。

 この結果、米山海岸の磯の権利は津和崎小中学校から竹谷の鼻までどうにか認められたが、前島の地先権になると交渉は難航した。前島は地理的に米山に近いから地先権は米山にある。従って、そこでの海藻類と磯物の採取は津和崎が独占しないで米山の住民にも採取させてしかるべきである。これが仲知と米山の漁業者の言い分であった。
 

海上から眺めた津和崎集落。正面中央より右側が津和崎、
左側が米山集落
米山集落側
米山漁港

 ところが、前島は当時、ワカメ、ヒジキ、特に高値のつくオゴが繁殖していた宝の島であって、津和崎の住民は毎年そこからかなりの収益を独占していたので、津和崎郷民を代表する津和崎漁業共同組合の組合長はなかなか話し合いに応じようとはしなかった。組合長は最後に妥協案を提出してこう言った。「こうしたらお互いのために良いのではないか。オゴだけは譲れん。
 

前島

 しかし、ヒジキは津和崎と米山で合同で採取し山分けしよう。」こちらの方は組合長のこの提案には不服であったが、なかなか応じようとしないので止む無くこの提案を飲む事にし、昼過ぎまで続けられた交渉は相手から押し切られた状況で終わった。

 前島は国の所有地であるが、昭和29年に津和崎の漁民は米山の漁民からの圧力を恐れたのか、津和崎郷の所有地として登記したとかのうわさも伝わっているが、真偽については分からない。
 
 

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