ガブリエル 西田 忠師

1947(昭22)年〜1953(昭28)年


中部漁業組合結成(昭和25年)

 昭和25年海区漁業調整法制定後のことであるが、仲知の村会議員前田修一郎、西田主任神父様が中心となり、津和崎漁業組合から独立して仲知、米山漁業者だけの漁業組合である「中部漁業組合」を発足させている。組合長は前田修一郎、参事は西田主任神父様であったことは分かっているが、その他の組合の会則、活動、役員、売上げ高、設立の目的などについては不明な点が多い。ここには分かっている分だけでも記しておくことにしたい。

(1)、主な事業

 一本松と仲知の大敷き網漁、一本松の黒鯛の追い込み漁、キビナの地引網漁、サシアミ漁、その他1本釣りで釣れたイカ、鯛、ブリなど。それに、磯で採れた海藻類と磯物である。
 

(2)、佐世保の魚市場への運搬

 最初は北魚目村長の持ち船の順潮丸(トロ箱ならば約600箱から700箱)に有料で運んでもらっていた。後で組合長の前田修一郎が運搬専用の鮮魚船を造った。
 
 

順調丸

(3)、海上が時化たりした場合に備えて一本松の納屋の直ぐ近くに冷蔵庫を造った。その冷蔵庫は今でも残っている。

 この中部漁業組合は組合員も少ない文字通りの弱小組合で何年もしないうちに経営難に陥りつぶれた。

キビナゴの地引網漁と黒鯛追い込み漁

 ここで少し息抜きとして昭和15年代からこの地区で盛んであったキビナの地引網漁と黒鯛追い込み漁についてふれてみたい。 

 というのはキビナ地引網漁は当時の漁業には直接携わっていない少年少女に大きな夢を与えているし、黒鯛追い込み漁の風景を観察することは西田師の趣味であったからである。

(1)、キビナの地引網漁

 地引網漁は仲知の真浦の浜、一本松、米山、野首の浜が漁場となっていた。

―  一本松
 新魚目村一本松出身山添キヌエの少女時代(昭和12年から昭和20年頃まで)の思い出
 

長崎公教神学校時代の真浦キヌエシスター

 昭和14年頃彼女の母・山添エツさんは一本松で大敷き網漁を経営していた加藤さん(有川村友住出身)が毎年10月頃に地引網漁を始めると、たいてい臨時のアルバイトとして地引網でとれたキビナの製造に雇われていた。当時妹たちの子守りをさせられていた彼女は時々母の働いていたオビランの浜まで妹を背中におぶって乳飲ませに連れて行っていたので、その時の地引網の漁労と製造風景が今も忘れられない。

 「毎年10月頃行われていた地引網漁があるときは人手がいるので、大敷き網の従業員の他に地元の一本松、竹谷、仲知の新開きからそれぞれ1軒に1人割り当てられて就労していた。この地引網漁はこの地区の子供たちにとって楽しみの一つで頼まれなくても一本松の砂浜に集まり、大人に混じって大綱を力一杯にそびいていた(引っ張っていた)。二組に分かれて大綱を引っ張る時には力が入るように大人も子供たちもお互いに声を掛け合っていた。
まず、一方の組のグループが「はるわいさーの ほい」と呼びかけると相手の組がそれに応えて「もういっちょも よーい よーい」と一心に喚(おめ)きよった。

 最後に魚で溢れている網の袋が引き揚げられるときになると、それまで綱を引っ張っていた子供たちが寄ってたかってキビナに混じっているミズイカ、アジ、カワハギなどの鮮魚をわしづかみに捕まえていたが、従業員の人からよく怒られていた。

 地引網漁を手伝った人にはそれぞれ平等にざるいっぱいづつ、しゃー(おかず)として配分されていた。この配分を任されていた人は新開きの山添美智子さんであった。

 捕れた魚はキビナと鮮魚とに選別した後、キビナは製造場になっていたオビランに運び釜でゆで直ぐ近くの竹製の干し場に網を下敷きにして天日で干し、干しあがると紙袋に納入して出荷していた。キビナを製造したときの汁は芋畑の肥料にもらっていた。その汁を畠までエーで担うのを手伝うのは子供たちの仕事であったが、これは重労働で大変きつく嫌であった。
 

一本松漁港

 昭和15年頃のことである。その頃一本松と竹谷の子供たちはキビランの製造場近くにある公民館まで朝の稽古に通っていた。そのような時に経営者の加藤さんが彼自身が造っていた簡単な仮祭壇に大敷き網や地引網で捕れた鮮魚を奉納した後、東に昇る朝日に向かって柏手を打って太陽を拝み大漁を祈願していた。
 

一本松から眺めた夕日

 他方、加藤さんの大敷き網漁でシビなどの魚が大漁した時には船に大漁旗をなびかせて帰港していた。そのような時、子供たちが家で作った大根や白菜などをメカゴに入れて納屋まで持っていくと、納屋で食事の準備をしていた人が鮮魚と交換してくれていた。

 (2)、米山での地引網

 米山の山田常喜さんの少年時代(昭和14年頃)には9月の末から10月にかけて米山の浜で一本松の信徒紙村藤松、紙村金雄兄弟たちが地引網漁をしていた。

 10月はロザリオの月でということで毎日夕刻、米山の信徒は子供たちも大人もみんな教会でロザリオ信心業をしていた。そのようなときに地引網が始まるとの情報が入ると、子供たちはにわかに落ち着きを失い教会を出て地引網の手伝いに行っていた。そして、帰りには「テゴ」と呼ばれていた入れ物にそれぞれそのとき捕れたキビナをもらっていた。もらったキビナは家族の食用にしたり、スボシやイリコにして使っていた。

 後の時代になると、地引網の綱を引っ張るために「カグラ」を利用するようになったが、米山の高等科の子供たちは乗組員に混じってカグラを廻す手伝いをして喜ばれていた。

黒鯛追い込み漁(昭和25年頃)
 
 
 


 

 一本松での黒鯛追い込み漁は昭和10年代から有川町友住の加藤さんによって既に盛んにおこなわれていたが、ここでは西田師の頃(昭和25年ごろ)の黒鯛追い込み漁についてふれておきたい。

 西田氏の頃には加藤さんから引き継いで地元の中部漁業組合がしていた。その時の組合の幹部は組合長が前田修一郎、会計が水元栄次郎であった。西田師は幹部ではないが、漁労風景を見るのが何よりの楽しみでよく漁労の現場に顔を出していたし、漁があったときには納屋で漁師と一緒に食事をして豊漁を祝ってた。また、魚をもらって帰り、伝道生や修道院の姉妹たちにお土産としてお裾分けしていた。さらに、時には組合の会計をしていた水元栄次郎宅で大漁の酒盛りをすることがあったが、そのような時にも顔を出して信徒との触れ合いに務めておられた。

漁期  11月〜2月
場所  一本松の沿岸
漁労の方法 

 丘から黒鯛の群れを見つけるのに一番適している場所であるオビランと一本松の鼻に山見小屋を2箇所設置し、それぞれに山見人を置いて肉眼で黒鯛の群れを見つけていた。山見人が黒鯛の大群を発見すると、前もって魚場に待機してじっと合図を待っていた2艘のだんべ船の乗組員たちに白い旗を掲げて合図する。すると、2艘の乗組員は急いで前もって準備していた網をてきぱきと入れる。

 次に2人が乗り込んでいる小さな船の出番である。1人は魯を押し役で、もう1人は魚を網に追い込む役である。魚を追い込むための道具は竹の竿であるが、その竹竿の先端には竿で海上を思い切り叩いた時に魚がびっくりして慌てて仕込んだ網の方に逃げ込むように重い石が取り付けられていた。

 しかし、山見人の指示通りに機敏に反応して竹竿で海上を叩いて魚を網の方に追い込まなければならない。黒鯛の群れは少ない時でも1000匹位、多い時には3000匹を超える時がある。この黒鯛の群を一網打尽に漁労する所に追い込み漁の醍醐味とスリルとがあるし、この漁労にこの地区の漁師の生活がかかっている。
首尾よく黒鯛の群を一網打尽にするには山見人に選抜された人と2艘の船の乗組員とのア、ウンの呼吸が完全に一致しなければならない。
ちょっとでも波長があわないと獲物は一匹も捕れないこともある。

 失敗は決して許されないから山見人には経験豊かで声量のある人が選抜されていた。昭和25年頃の山見人は竹谷富太郎、竹谷住太郎兄弟である。山添キヌエの家族が芋の収穫作業で畑作業をしていると、にわかに「押さえ、控え、」を大声で叫ぶ竹谷富太郎の声がはっきりと聞こえてくる。「また、富太郎おんじがおらびよるぞ、さあ、今夜の夕食は黒鯛の刺身と味噌汁ぞ」

 その頃大漁した時には乗組員の家族だけでなく、そうでない一本松の住民にも3匹くらいづつ、夕食のおかずとして配られていた。それを当時の人は「煮出し」と呼んでいた。
平成13年3月13日声量に恵まれていた竹谷富太郎の娘山田テルノさんは父のことについてこう語った。「父はオビランの山見であったが、よく昼頃になると母に言いつけられてオビランで山見をしている父のところに昼食を届けていたが、そのときに西田神父様が見えていて父となにやら楽しそうに話していた。」

運動会 

 西田師の頃に仲知小中学校で運動会があったときには江袋の納屋、仲知の納屋、一本松の納屋の漁民の徒歩競争が盛んであった。一本松の納屋の人で徒歩競争の選手に選ばれていた紙村藤松、白浜武満、白浜清は一本松の浜が潮の引いたときに練習を良くしていた。当時の一本松の砂浜は今よりも広く潮が引くと運動場のようになっていて徒歩競争の練習場として最適であった。
 

西田師(その8)へ
 
ホームへ戻る                    
邦人司祭のページへ
inserted by FC2 system