ガブリエル 西田 忠師

1947(昭22)年〜1953(昭28)年


第二次農地改革(自作農創設特別措置法による)
    昭和22年〜昭和25年

 昭和22年5月に日本国憲法が施行され主権在民・平和主義・基本的人権の尊重の3原則が明文化されると、教育基本法、海区漁業調整法など憲法の精神が次つぎに具体化されていった。
 この憲法の精神の流れは農地改革にも及ぶに至った。それが、自作農創設特別措置法による農地改革である。
 

昭和53年頃の仲知の段々畑

 不在地主の全貸付地、在村地主の貸し付け地のうち一定面積都府県平均一町歩を超える分は、国家が強制的に買い上げて、小作人に優先的に安く売り渡した。その結果全農地の半分近くを占めていた小作農が1割程度までに減少し、大地主たちは従来の大きな経済力と社会的威信を一挙に失った。

 仲知地区のキリシタンはその殆どが小作農で地主から土地を借りて開墾していたからいろいろと地主から便宜を図ってもらうこともあったが、他方、不利益をこうむり続けていたこともあった。
ここでは簡単に米山の農民の小作と地主とのかかわりを考えてみることにしよう。

 事例 山田忠太郎氏(山田常喜氏の義父)の場合
 

 山教会信徒の山田忠太郎氏の先祖は「五島崩れ」と言われている明治初年のキリシタン迫害を逃れるために曽根から米山の山奥にひそかに暮らしていた。彼が住み着いた所在地はもともと津和崎の村からさらに山奥に進んだ原野であった。人が住めるような所ではない原野を開墾して芋畑にしても、土地そのものは津和崎村の郵便局長をしていた橋本忠吉の親の財産を借りたものであったので、畑での収穫物の一部は地主に年貢米として納め続けていた。彼の場合は米の代わりにカンコロ300斤、芋500斤から800斤を納めたが、これを米山では「コク」と呼んでいた。

 和22年、山田忠太郎は地主である橋本忠吉氏より借りた土地を法律の定めた価格3、000円で購入することにしお互いに売渡証を交換した。その証書は山田忠次郎氏が生涯大切に家に保存していたが、死亡する(死亡年月日は昭和46年6月29日)前の昭和45年頃に後継ぎの山田常喜氏に「これはあなたにやるから大事に保管しておくれ」と、遺言みたいに渡した。
息子の常喜はこの証書を今も大切に保管しているが、その証書には次のように記されている。

 売渡証
         山田忠太郎殿

売り渡し物件
津和崎郷字下山橋本久吉名義地全部右物件を貴殿に永代売渡す  代金 3、200円也
正に領収仕り候(そうろう)也
さりて、後日証しとして本書一冊如し件

 昭和21年2月4日

北魚目村津和崎郷
売渡人   橋本久吉
立会人   中村宗八
       山口吉美

 こで注目すべきは昭和21年農地調整法による第一次農地改革の勧告を受けて、つまり、第二次農地改革を待つまでもなく、既に地主と小作との農地の売買が辺境の地米山で実施されていることである。

 法律で決められた土地価格は山田忠太郎の場合当時の船乗りの1ヶ月分の給料でそほど高くない。
しかし、土地改革が施行された昭和20年代はまだ貧しい信徒が多く簡単に名義変更できない信徒も多くいた。そのような人はつまり、従来のように地主から借りて畑を耕す場合は小作料が役場で決められていた。
役場には届けないで地主とただの口約束だけをして小作料は払わないまま自分の所有地として使っている信徒もいる。

 また、地主が寛大で「コクはいらんから永代に貸してあげる」と口約束しておきながら現在になってから「俺の土地だから返せ」と迫る地主もいるとか。

スワノ丸(昭和25年)

 信徒の話によると、西田師は仲知真浦ノ浜を母として2〜3トンくらいの「スワノ丸」と名づけた動力船を所有していた。
 例えば、米山の山田常喜氏は現在の妻・エス子と昭和27年5月23日米山教会で結婚式をしているが、その稽古も結婚式の司式をされたのも西田師である。ある日のこと、西田師より指示された日時に仲知の司祭館に米山より歩いて来てみると、あいにく師は留守である。どうしたものかと思案したが、ひょっとしたらスワノ丸か精麦所周辺におられるのではないかと思って先ず、真浦ノ浜に行ってみると、案の定、師はスワノ丸の機械の修理に夢中になっていて私たちの稽古のことはすっかり忘れていた。

 「またの機会にやり直すことにしたらどうか」と言う西田師に山田さんも言い返して「せっかく米山から教え方の白浜増雄氏と一緒に歩いて来たのであるからちょっと教えてください。」と言った。

 すると、師はものすごく汚れた作業服のまま司祭館の縁側(廻り縁)に座って公教要理の中から幾つかをテストしてから少しだけ結婚についての言い聞かせをして下さった。

 スワノ丸についての信徒の話はまちまちなので先日(平成13年3月5日)、編者は川棚教会におられる本人に電話取材してみた。

 「先ず日本26聖人殉教者の一人であるスワノ殉教者のご加護を願って『スワノ丸』と命名した。昭和25年ごろは仲知の信徒の生活も落ち着き、カンコロが結構高値で売れていたので修道院を始め信徒から少しづつカンコロを供出してもらって動力船を造る事が出来た。
 

26聖人殉教図

 このような経済的な事情があったことから信徒は「カンコロ丸」とも呼んでいた。船体は漁どころで司牧していた奈留島の中田藤太郎師にお願いして師が取引のある奈留島の造船所で造っていただいた。

 目的はもちろん信徒の司牧に役立てるためであった。
 具体的なこととしては江袋と大水巡回ミサに使った。また、信徒から依頼されると油賃として「10円」をいただいて小値賀に買い物とか病院にも連れて行っていた。衣料品、食品などの買い物はお祝い日のための買い物であり、そのときにはたいてい一人ではなく、5人から10人乗船させていた。

 その頃には仲知の信徒も何人か動力船を持っていたが仕事が忙しくなかなか信徒の要望に応えることは出来ない状況であった。司祭の方も信徒のカンコロ供出で造った舟であったから出来るだけ信徒の便宜を図り時間が取れれば信徒の要望に応えるよう努力した。また、この船は主に買い物の奉仕で利用したが、急を要する病人訪問やエンジンの故障の折も小値賀まで行かないと修理が出来なかったのでそのような機械修理が緊急に必要となった時にも直ぐ対応できて役立った。
 
 仲知は地形的に険しく、陸地の交通の便はでこぼこだらけの山道で不便であったから船便を利用していた。病院、衣料、日用品の購入、精麦、製粉もすべて小値賀まで舟を出して行く有様で一日がかりの仕事であった。小値賀は博多との経済、貿易の交流が深い商業の町で衣食住の必需品はどんなものでも揃っていたので立串や有川の町に行くより、ずっと便利であった。
 
 

仲知から眺めた小値賀

 
 
 
現在の小値賀港

その他

(1)、小瀬良教会小瀬良留三氏(73)に聞く

 氏の結婚は昭和25年1月6日、奈摩内教会で梅木兵蔵師より授かっている。その準備の稽古を西田師から受けている時のことであるから多分昭和24年の11月か12月のことなのだろう。

 西田師は彼に言った。「小値賀に出かけるのにモーター(動力船)を造ろうと思うが、その資金調達のためにあなたも手伝って寄付金を募ってくれんか」「いや、神父様、私も巻き網船の機関長をしていて月夜間になってもいろいろしなければならないことがあり忙しいから寄付金廻りは出来そうにないですよ。しかし、寄付金は5千円致しますからこれで勘弁してくれ。」

 当時、5千円は巻き網船従業員の一か月分の給料よりも多い額で彼としては精一杯の寄付金であった。当然、西田師は彼の好意に喜んだことは間違いない。

(2)、米山教会信徒宇野金太郎さんに聞く
 

写真中央が宇野金太郎氏、昭和52年

 昭和25年ごろの小値賀は特に漁業が盛んな街として栄えていた。というのはその頃には小値賀沖はイワシだけでなく、いい値のするアジ、サバなどの青物の鮮魚の好漁場となっていたので、奈良尾、岩瀬浦、浜串、桐、畔瀬津、青方などの巻き網船団が捕れた鮮魚を小値賀漁港で荷揚げしていたからである。

 だから、その頃の小値賀港は巻き網船で満杯状態でしばしばあぶれた漁船が港の外にもやむなく停泊するというほどの活況であった。

 その頃、西田師は信者の買い物につきあったり、時には病人が発生し頼まれるとよく小値賀に来ていた。時にはミサ後のお知らせでご自分のほうから小値賀行きを伝えることもあった。また、このようにして小値賀に行くと、時にはイワシを船の人に願ってもらうこともしていた。あるときは作業服のままでイワシをもらっていたら、神父であることがばれてしまった。というのは仲知の多くの信者が桐の勢漁丸や浜串の昭生丸などの乗組員として乗船していたからである。そのようなときにはイワシを「スワノ丸」のダンブルにいっぱいいただいて帰り、仲知で大声で信者を呼び出して欲しいだけ無料で配ることを喜びとしていた。

(3)、江袋教会尾上勇氏に聞く(平成13年4月15日)
 

―スイカ

 西田師はよくスワノ丸で信徒を小値賀まで買い物などに連れて行くという奉仕をしていたが、その時のエピソードである。師は信徒が買い物をしている間にご自分もついでに小値賀特産のスイカを買い帰りにブリッジでそのスイカを割りみんなに食べてもらうことを喜んでいた。
 

司祭のバカンスでのスナップ写真

―結婚の稽古

 彼は西田師の指導を受け昭和27年5月、赤波江教会の教え方をしていた大瀬良フサと結婚しているが、そのときの稽古の状況を覚えている。
 
 結婚する頃の彼は長崎市の川波造船所が経営する遠洋底引き網船「宝洋丸」の乗組員であった。休暇で帰っていると許婚の大瀬良フサが江袋まで歩いて来て「神父様が稽古ばさせるけん、『はよう来い』と言っておられますよ。」と、玄関をあけもしないでおめいた。

 西田師は短気な性格であることを良く知っていた彼は大急ぎで仲知に行って見ると、師はニワトリ小屋を造る作業で忙しくしていた。挨拶すると「公教要理は覚えて来たか」とのこと。実際はいっちょも覚えてはいなかったが、素直にそういえば怒られることに決まっているから曖昧に「はい」と応える。そしたら「そんならよかけん。またのときにちゃんと質すけん」と、その日は稽古なしで儲かった。その後、4回ばかりはちゃんと準備ばさせられて結婚した。

―赦しの秘跡(告解)

 西田師の頃はお祝い日前になると赦しの秘跡を受ける信徒が多く、行列して自分の番を待っていた。信徒の告白を聞く西田師の方も赦しの秘跡の終わり頃になると、次ぎの信徒と交代する時に暇取らないように告白の板を軽く叩いて合図をし早く来るようにとせかしていた。


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