ガブリエル 西田 忠師

1947(昭22)年〜1953(昭28)年


 II、司牧活動

(1)、説教

 歴代主任司祭についてよく知っている人は司祭の近くにいて直接指導を受けた教え方、宿老、仲知修道院シスター、それに司祭の生活のお世話をした賄たちである。仲知修道院のシスターは転任するのでどの司祭でも知っているわけでないが、真浦タシシスターは例外である。彼女は修道生活の殆どを仲知で過ごしている。それだけでなく、特に西田師と田中師には直接奉仕し、永田師、佐藤師の時には仲知修道院の院長として両師と深く関わっている。これに加えて昭和59年3月25日発行された「仲知修道院100年の歩み」で出身司祭の前田朴師が彼女のことを「生き字引のように仲知の歴史に詳しい」と述べているように記憶力が旺盛である。
 
 

昭和25年3月
仲知修道院姉妹たち

 
西田師時代の仲知修道院姉妹達

 ここでは彼女の助けを借りて西田師が信徒をどのように導いたのか、このために普段の日曜日の説教などで何を教えていたのか少し触れることにする。もちろん彼女もテープレコーダーではない。彼女が記憶している西田師の教えも、その時の彼女の年齢、境遇、生活信条などで脚色されているので正確な西田師の教えではないだろう。それでも彼女が影響を受けた西田師の教えをここに記しておくことには意義があると思われる。
 

旧仲知教会で説教する司祭 説教師は西田師ではないかと見られる。 

―人祖(アダムとエワ)の罪

 西田師は日曜日の説教でよく人祖の罪をテーマにすることがあった。この人祖の罪の話は創世記3章にある。ここには人祖がどのように神により禁じられた生命の木の実を食べたかを語り、その罪の結果、人間が苦しみにまみれた、死ぬべき運命を受けるようになったことを語ります。

西田師は繰り返しこう話された。

 「ここで重要なのは人間が木の実を食べた理由、動機である。その動機は「神のようになることの憧れ」「賢くなること」であります。つまり、人間の心の中に、神のようになりたい、そして、美味しいものを食べたい、賢くなりたいという欲求があったこと、そしてその欲求に引きずられてしまったことを意味します。

 蛇は、ただ人間のそうした欲求に誘いをかけたに過ぎない。人間が、神の命令を忘れて、自分の欲求を満たそうとして行動してしまった。あくまでも人間の責任である。
神の望みに背を向けて、自分の欲求や欲望に引きずられてしまう弱い人間。

 このように欲望に引きずられて自分でも嫌だと思っている罪深い行為に引きずられていくことをどうすることも出来ない、それほどの弱さが人間の内部に潜んでいる。

 さらに悪いことにはその罪を素直に認めることさえも出来ない人間の弱さ。男アダムは罪をエワのせいにしてなかなか自分の罪を認めようとはしなかった。」

 このような師の説教で彼女は人間には二面性があることを知った。人間はみな、神の似姿として造られているので、それ自体すばらしいものであるが、同時に悪魔のような、醜い面がある。この醜い面が人祖から引き継いでいる人間がどうすることも出来ない罪への傾向なのだと。

 他方、人祖の罪に神の愛の計画が準備されていた。
つまり、人祖が神に背いて神との親しい交わりを失ってからも、死の国に見捨てることなく、すべての人が神を求めて見出すことが出来るように、慈しみの手をさし伸べられました。また、たびたび人と契約を結び、預言者を通して、救いを待ち望むように励まして下さいました。さらに、時が満ちて、一人子イエス・キリストを救い主として遣わして下さいました。神はこれほどに人間を愛して下さっている。

 このように西田師は大まかに救いの歴史の流れを説明しながらその中で常に神が人間を愛しつづけておられることを強調されていた。
人間の弱さとその中にはたらいている神の愛、この話に18歳の彼女は非常に心を打たれたので未だに忘れないという。

―聖性への道

 人間はいかに罪に汚れ罪の誘惑にさらされていようとも常に完全になるように召されている。キリストは「心を尽くして神を愛しなさい。同じ心であなたの隣人を愛しなさい」と言われている。だから、キリスト信者はみな罪人で醜いものであろうとも決して落胆しても、失望してもならない。常に自分ではなく、神に信頼してキリストの模範に倣って生きるという高い理想に目を向けることが重要である。

 私達は罪びとで弱くすぐに目の欲、肉の欲、生活のおごりに負けてしまう傾きがあるので、常にそのような傾向と戦い、自分の弱さを救って下さるキリストにいつも信頼していなければならない。

―兵役

 真浦タシシスターはミサの説教の時だけでなく、ミサ後の要理とか自宅で行われていた通夜の帰り道の時などにも師から教えられたことを覚えている。このような彼女の思い出は西田師の個人の戦争体験の話であったり、家族の話であったりしている。
ここでは川棚教会でなお元気で司牧しておられる本人に電話でお聞きしたことを簡単にまとめてみた。

 西田忠師は大正5年5月23日浦上生まれ。
女の子3人、男の子5人の8人兄弟姉妹の長男で男の子5人は全員神学校へ入学しているが、司祭になったのは彼一人だけである。母は師が中学生の時に死亡、そのとき既に師は長崎教区の神学生であった。

 昭和18年3月17日、大浦天主堂で同じ長崎教区司祭であった渡辺聖師と大分教区司祭川口清師と一緒に司祭叙階。叙階後の最初の任地は田平教会の助任司祭。その後、鯛ノ浦教会の主任司祭になるが、間もなく兵役に招集され中国の信揚で野戦重砲隊隊員となる。

 しかし、半年後、食糧不足と絶え間なく続いた厳しい軍事訓練で72キロあった体重が47キロに落ちこみ、それと共に体調も悪くなり近くにあった軍人病院に入院する羽目になる。結局2年滞在した信揚(南京と北京の中間にある都市)で1年と3ヵ月の入院生活であった。

 信揚の病院の直ぐ近くにカトリック教会があったが、病室から眺めるだけで一度もその教会を訪れて聖体訪問をしたり、ミサを執行するすることは出来なかった。真浦タシシスターは戦争体験談を師が仲知の主任司祭をしていた通夜の帰り道に聞いている。それは師が病院に入院する前で厳しい軍事訓練を受けていた頃のことである。軍隊では全く宗教は無視される。厳しい軍事訓練が昭和19年12月24日の晩も続いた。このとき師はわれにかえり「今夜はクリスマスの夜である」ことを思い一人青空に輝いている星を眺めてイエスのご降誕を喜びつつ祈り祝った。」

―西田師が受けた家庭教育

 西田師は浦上出身であるが、山口大司教様は近いご親戚になり、また、昭和20年8月9日浦上教会で原爆死した浦上教会主任司祭西田三郎師は西田師の父西田四郎氏の直ぐ上の実兄に当たる。西田師自身西田三郎神父様がまだ三井楽の主任司祭をしていた時からとてもお世話になっていた恩人であった。
 
浦上教会主任司祭西田三郎師

 父西田四郎は鹿児島に流配されていた浦上の信徒の信仰面のお世話をする伝道師であった父親西田貞一氏に強い影響を受けて育った。そのことから自分も浦上教会の篤志伝道師となった。篤志伝道師となった父西田四郎氏は浦上教会でのミサ後、自分の担当する地区の信徒を集めて要理を指導していた。この父と母の感化があったからこそ5人の子供たちはみな司祭を志したのである。

叱り方の上手な母

 師は浦上人として厳格に人格面でも信仰面でも躾られている。
ある真冬の夜、忠少年は悪さをして父から罰として家から追い出された。母は忠少年に「ちょっと、ここに来い」と言って息子を捕まえ寒さで凍えないように着物をもう一枚厚着させてから「はい、出て行け」と父の躾に従った。
こうして師は父の鞭の愛と母の許す愛で育った。
 

誉め方の上手な母

 叱り方はホメ上手だとも言われます。
どんなときにどんな風に叱り、また誉めたらよいか。子供をかわいい、かわいいと撫でたり抱いたりするだけが子供への愛ではありません。愛には技術がいるのです。何よりも子供を知り、子どもの心を汲み取ってください。子供がお父さんお母さんに対して愛と尊敬と信頼を持つために、親としてどうあらねばならないか。

 この点を良くわきまえて育てたのが西田師の母であるような気がする。ある日、良く悪戯していた腕白の忠少年は留守をしている母を少しでも助けようと思い家族の夕食の芋飯を炊いた。思いもかけていなかった母は帰宅するととても喜びこのことを誰にも彼にも言い広めた。
いつ叱るべきか、いつ誉めるべきかのタイミングを図ることの出来る見事な躾である。

 親と子との間に今日ほど胸を痛めるような事件が頻発する時代が、かつてあったでしょうか。父親や母親を殴る子は、エスカレートしていつか両親を殺す子になって行きました。このまま見過ごしていたらどうなるのでしょうか。過保護で子供を甘やかしているといわれています。忠少年の母のように子供を上手に叱り、上手に誉めてあげて人間らしく育てることが親の義務ではないでしょうか。

 長崎教区長島本要大司教が平成13年4月号の教区報「よきおとずれ」の復活教書で述べておられるように「子供が健全に育つには親の献身的な愛」がとても大事であるように思う。

―青砂ヶ浦教会主任司祭梅木兵蔵師について
 
梅木兵蔵師

 昭和16年から昭和21年まで鯛ノ浦教会の主任司祭、続いて昭和28年まで青砂ヶ浦教会の主任司祭であった梅木兵蔵師と仲知小教区とのかかわりは深かったらしく信徒の話によく師のことが伝わっている。

 師は温厚な司祭で、桐小教区で司牧していた松下師が厳しい父親であれば、彼は優しさに満ちたお父さんのように信徒を導いて来られた。戦時中山口司教様が兵役のために教区を留守なされた時には司教代理もなさるほどの人格者であった。しかし、青砂ヶ浦教会主任司祭であった当時の彼は高齢かつ病弱であり、時には日曜日のミサなどの手伝いを近くの若い司祭に頼んでいた。
西田師が仲知で司牧した時には一度仲知の修道院の黙想の指導を頼まれている。

 この時の師のお話はとてもすばらしくこの黙想に参加した真浦タシシスターも師のこの時の素晴らしい説教を覚えている。それは豆腐の話である。
 

上五島合同黙想会 中央左が梅木師
 豆腐の話

 「女部屋の会員のみなさん、皆さんが属している女部屋はまだ教会法上の正式な修道院ではない。しかし、皆さんは小教区の主任司祭を助けるために共同体の生活をしながら神と教会に奉仕している。その業は奉献生活に勤しむ修道者の生活に少しも劣るものではない。すでに主任司祭と院長への従順、清貧、貞潔を実践して福音的な勧告を生きているのであるから、その強い自覚をもって奉献生活を生きるように勤めなさい。なぜならば、従順、清貧、貞潔の遵守によってこそイエスの「完全な者になりなさい」との招きに応えることになるからである。

 世俗の中で信徒と共に生きながらかつ自由を放棄し、財産を捨て、自分の身も心もイエスに捧げる。この生き方こそ、福音書の中に見られるイエスの招きに応えるための最も徹底した生き方であるし、在俗の中に生きている女部屋の皆さんの特徴である。
このような皆さんの特性をもっともっと生かすために皆さんは「豆腐でありなさい」。

 豆腐は栄養価のある最も優れた栄養食品であるが、材料である豆のように豆まめしく自分を捨て人々に奉仕しなさい。また、豆腐は美味しいだけでなく、柔らかく子供にも歯が欠けて固い食べ物を食することが出来ないお年寄りにも適した滋養のある食品である。そのようにどんな人に対しても常にやさしくかつ柔和であるように勤めなさい。また、豆腐の色は白である。そのように貞潔の徳を実践しいつも清く正しく生きるように勤めなさい。

 このように毎日豆腐の精神を生かして皆さんの共同生活を送るならば、そのとき皆さんの共同生活は地域に輝き神の心にかなうすばらしい福音的な完徳の生活になるでありましょう。」

 

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