野首小教区時代

       昭和22年〜昭和41年

 初代主任司祭 イグナチオ・浜田 朝松師

  1947(昭和22)年〜1962(昭和37)年
 
船越小教区主任司祭であった時の写真。昭和37年以降

野首教会巡りについて
 
正面に小さく見えるのが野首教会

 平成13年1月14日、今年最初の仲知小教区役員会を仲知司祭館で開催。
主任司祭は仲知小教区での司牧の総仕上げとして、仲知の歴代主任司祭の活躍と、かつての信徒の信仰生活の状況を知るための編集作業を始めているので、議長の山田常喜氏を介して役員の皆様に今年の仲知小教区の年間行事として野崎島の野首教会巡りか、瀬戸脇教会跡巡りを提案した。役員の皆さんはこの提案に異存はなかったが、時期尚早ということで決定にはいたらなかった。

転任の照会

 平成13年2月3日、長崎教区長島本大司教様より転任の内示が来る。ある程度覚悟はしていたが、「仲知小教区史」改訂版の仕事が順調に進んでいた時であったので、転任によって中途半端になってしまうことを恐れ、転任の延期を1年間願うことを考えた。そのための文書も作成し、たちまち投函する所であった。しかし、素直に従順の心から大司教様のご意向に従うことが神のみ心であると考え直し、気持ちを切り替えた。
 
 
 
 
 

野首で復活祭ミサ
 

 毎年、仲知小教区での復活祭当日の日中ミサは、これまで6年間江袋教会と米山教会でして来たが、3月の定例役員会で平成13年4月15日の復活祭日中ミサは、今年の仲知小教区の年間行事として野首教会ですることを提案してみた。
この提案には次のような主任司祭の考えがあった。

(1)、野首教会は近くにあるのに、信徒の中には野首教会があることは知っていても、実際に訪問してみたことのある信者は意外と少ない現実がある。

(2)、現在の野首教会は小値賀町にその管理を委ねてはいるが、財政難ということでその管理は十分でない。3年前のことであるが、仲知の信者20人ほどを連れて教会内外の掃除に一本松の漁船をチャーターして出かけた時には、特に教会の室内が汚れていたので掃除には相当の時間がかかった。

 去年5月に行われた小値賀町制60周年記念行事の時に大掃除が行われていたので、私達が今年の3月10日に野首教会を訪問した時には、前のときのように汚れていなかった。しかし、その時からもう一年が経過している。100人程の信者を集めてミサを行うためには、もう一度ミサの前に信徒席になる床板などの掃除が必要である。掃除は4月15日の当日ではなく、海上が凪の時を見計らって米山のお父さんたちにして頂くことに決めたが、日程については山田議長に一任する。
 

(3)、編者は3月15日楠本敬三郎宅を訪問し楠本スミ子さんと楠本キヨ子さんに、仲知小教区の主任司祭をしていた田中師、入口師、永田師、佐藤師たちが司牧活動していた頃のことをお聞きしていた。2人からはいろんなことを教えてもらったが、特に印象に残ったのが楠本キヨ子さんの野首時代の思い出話であった。
 
前が楠本キヨ子さん、後ろが楠本スミ子さん

 彼女の思い出を聞きながら、野首教会信徒の信仰生活の立派さに心打たれるものがあった。それで、彼女が結婚するまで過ごした野首に関心を抱くようになった。そして、3月10日彼女に案内を頼んで野首を訪問した。その時の印象もさらに良かったので、私の仲知小教区在任中の最後の仕事として野首で復活祭のミサを捧げ、かつての野首の信徒と心を合わせて思いっきり父なる神に賛美の歌を歌いたいという思いに駆られた。

(4)、編者は平成12年6月、野首出身で現在北九州にお住まいの白浜清太郎氏より手紙を貰った。
 その文面は同年5月4日小値賀町施行60周年記念「自然との共生―世紀末を祈る―」を主題にした行われた記念イベントに参加したことと、野首の墓地に眠っていた先祖の墓地へ墓参りした時の感想文であった。
 

2000年5月、野首教会が見える自然学塾村で行なわれた野店茶会
写真は西風の会会報「SEIFU]より引用。
2000年5月、野首旧墓地を訪問した地元出身者たち

 その文面の中で、白濱氏は野崎島の自然の美しさを思うあまりイベントを開催して下さった小値賀町と五島出身の洋画家増田常徳さんに深く感謝しながらも、せっかくカトリック信徒として10何年ぶりかで帰郷し教会にも巡礼しているのに、かつてのように思いっきり祈りも礼拝も出来なかったことの無念さがしたためられていた。

 この思いはカトリック司祭である私にもよく手にとるように理解できることであったので、せめて本人の代わりに地理的に近くに住んでいる私たち仲知小教区の信徒が教会いっぱいに集まって、盛大に復活ミサを挙行し天地万物の造り主である神に賛美と感謝を捧げてみたい。この思いがあったので野首教会でのミサを計画し、定例役員会でのテーマの一つにさせてもらった。

白濱清太郎さんからの手紙

主の平安

 早6月梅雨の季節、本来ならこの頃はもう麦刈りの季節、ご昇天の祝日も終え下口主任神父様を始め、仲知の信徒の皆様方にはお変わりありませんか。

 いつも古里野首天主堂のことを心にかけていただき有難うございます。
先だって仲知小教区記念誌発行には関係者の皆様には大変なご苦労だったことと心より感謝申し上げます。
さて、五月の連休には私の所属している黒崎教会の一行が上五島巡礼の旅にて江袋、仲知教会を訪問した様で素晴らしいステンドグラスにみなさん興奮なさっていたようです。
 私も散々迷いましたが、たまたま同じ時期に野首天主堂を舞台に五島出身の有名画家による「2000年、自然と共生―世紀末を祈る―」「もう一つの最後の晩餐」展があり東京、大阪、福岡、長崎、下五島福江など総勢200人が来島し2日間にわたって有川、宇久、小値賀の3ヵ町の有志による和太鼓の共演、吟詠、創作舞踊、茶会など小値賀、野首に分宿賑やかなイベントでした。

 先祖の墓参りも出来ましたが、長年にわたって開墾したであろうすばらしかった段々畑は無残にも掘り起こされもう昔の面影は二度と偲ぶよすがもありません。
ただ天主堂東側の方がわずかに昔を偲ぶことが出来ました。
 天主堂内に土足で踏み込むのではないかと案じていましたが、掃除も行き届き上履きも十分準備されていました。教会内でも創作舞踊を行っていましたが、私には見るに偲びず外でただかつてよく眺めていた向かいの山や畑に眼をそらしていました。捨てた教会とはいえ、こんな催しをする場ではないと思ったからです。

 上五島巡礼には参加できませんでしたが、いずれその内に訪問の予定です。
なおイベント終了後、チャーター便にて東京、大阪の一行と共に平戸に渡り1泊、カトリック信徒で野首出身の白浜市長もホテルを訪れ夕食を共にし、翌日キリシタン資料館および野首天主堂を造った中田師の汗の結晶である田平天主堂を訪問しましたが、くしくも司祭館にてお母さんは野首出身と言われる仲知の女性にお合いすることが出来ました。
 

 それよりキリシタンルーツと言われる外海地方にまわり黒崎教会など見学、資料館では農機具がほとんど野首で使われていた物と一緒だったのに感激したことでした。
さらにド・ロ神父像に手をかけ「あなたの蒔いた種は五島の僻地にしっかり根づいていますよ」と語りかけたことでした。
いずれみなさんにはお会いする日が来ることでしょう。
いつまでもお元気で小教区の皆さんの上に神の豊かな恵みがありますように。

2000年6月
下口神父様
信徒の皆様
白濱清太郎
 
 

聖フランシスコ教会野首
 
 
野首教会

 野首教会は聖フランシスコに奉献された教会であるから4月15日の野首教会でのミサの締めくくりにカトリック聖歌集412番、聖フランシスコを称える聖歌を歌うことにし今はその練習をしている。ここでは歌詞を紹介したい。

 1、わが日本に はるばる来て
   世の迫害を耐えしのびぬ
   聖フランシスコ 我らの信仰
   強めたまえ

 2、遠き船路をはるばる超え
   主のみ教えをひろめましぬ
   聖フランシスコ 我らのために
   祈りたまえ
 

 現在野首教会にはかつて安置していたはずの聖フランシスコのご像はない。ある信徒の方は小値賀教会にある聖フランシスコ像が野首の聖フランシスコ像であると言っているが、まだ確かめてはいない。

 野首教会清掃 平成13年4月14日

 計画していた通り仲知小教区信徒会長の山田常喜さんがまとめ役となって米山の信徒4人、仲知の宿老2人の6人で野首教会の床板の掃除を行う。主任司祭の私も一緒に行きたかったが、転任前で忙しく参加は取りやめた。

 当日の海上はあいにく強風波浪注意報が出ているほどの荒れた天候であったから行けたかどうか心配していたが、6人とも船外機の操作に熟練しているうえ、野首付近の海上の状況についてもよく知っているので何とか目的を達成できた、との報告あり。

 しかし、帰りに2人が島に取り残されてしまうというハプニングがあったが、午後からはいくらか海上が凪になり先に帰ったグループの人がまた迎えに来てくれたということで安心した。

 6人の奉仕のお陰で明日予定されているミサでは参加者全員が土足でなく、素足で神の前に立ち共に神を礼拝出来るようになった。感謝、感謝。気がかりなのは明日の天候のことであるが、予報では快晴、波の高さ2メートルである。
天気予報通りの天候であるならば全く心配はいらない。

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