イグナチオ・浜田 朝松師


瀬戸脇探検

 平成13年3月13日、久しぶりに海上が凪になったので、編者は米山の山田常喜氏を誘って彼の小さな二人乗りの遊漁船で、昭和45年から既に廃村になっている瀬戸脇集落跡を探検した。山田氏は実姉が瀬戸脇に住んでいた関係でかつてはよく訪問していた集落であったが、それでも15年ぶりの訪問であり、私のほうはもちろん初めての訪問であった。
 

 
瀬戸脇集落跡

 訪問しての印象は山田氏にとっては「思っていたより荒廃していない」ということであり、編者にとっては「7年間も毎日のように近くから眺め続けて来た印象と違って、実に段々畑が頂上近くまで保存されていて、かつては人が住むのに適していた集落であったことを確認出来た」という印象である。 では少しだけ山田氏の話を聞きながら感じたことをごく簡単にまとめておくことにする。

―瀬戸脇の港

 米山漁港を出発して10分位でかつての瀬戸脇港に着く。昭和25年頃には浜田師の働きかけによって瀬戸脇・野首漁業共同組合が結成されたこともあり、この港は以前の港よりさらに整備され昭和45年瀬戸脇の集落が小値賀に集団移転するまで使用されていた。その後、秋の台風の大波と夏の集中豪雨によってことごとく破壊され、現在はかつての整備されていた港の面影はほとんんどない。ただ、昭和25年頃漁業組合が結成された頃に造られたという小さな冷蔵庫が港の端にそのまま残っていて、かつての港の風景を忍ばせてくれたが、このコンクリートで造られている冷蔵庫の真砂石は米山産であるという。私たちの遊漁船はこのかつての冷蔵庫跡の地点に係留させ、ここから瀬戸脇探検を始めることにした。
 
 
跡形もなく破壊されている瀬戸脇港。
海岸に係留している船は編者所有のプラスチック船であるが、この船で7年間仲知の海岸でミズイカ、イッサキ、イトヨリ、エソ釣りを腹いっぱい楽しんだ。
写真中央の小さな鉄筋で造られた倉庫みたいなものがかつての野首・瀬戸脇漁協の冷蔵庫である。

 同行者で案内役の山田氏によると、瀬戸脇の港は南側に位置しているので、冬場に強風が吹き付ける北西と北東の風があたらない。この点で良い漁港であったが、南風の吹き荒れる台風が来そうなときには、瀬戸脇の船乗りは小値賀港に持ち舟を避難させていた。

 瀬戸脇の信徒の生活は漁業が中心であったので全家族伝馬船を所有していたが、その持ち舟は港の中央部に引き揚げ、モーター船を所有している信徒は港の右側の直ぐ目の前に碇をいれて流していた。港の上方部は所狭しとばかりカシアミの干し場として使用されていた。当時はこの風景が漁業の集落瀬戸脇を象徴していたが、側を通ると磯の匂いがしていた。

―段々畑

 瀬戸脇集落は地理的には津和崎海峡を挟んで米山と津和崎の集落の目の前に位置しているが、距離にするとわずか400メートル程度しか離れていない。しかし、現代の仲知の信徒の中には、28年前までちゃんとした集落が存在していたことさえも知らない大人達がおられる。それほどこの瀬戸脇は近くて遠い場所となっている。
 
 この瀬戸脇集落は米山や津和崎より、赤波江から眺めたほうがその全体の集落の様子が伺える。赤波江から瀬戸脇集落を見ると、瀬戸脇は中央部に信徒の住居、教会、学校が集中し生活に欠かせない芋の段々畑がその両端に拡がっている様子がよく分かる。
 
 
瀬戸脇集落、段々畑
米山から見る瀬戸脇は小さく、急傾斜の山のようにみえていたが実際に現場に立ってみると、写真のように広々としている。
上部の中央は瀬戸脇小学校跡地となっているが、残念ながら写真では少し石垣が見えてる程度である。

―教会跡と司祭館跡

 瀬戸脇の港はその集落の中央部に位置しているが、その港から野首へ通じる細い石畳の多い坂道は今も昔のままに残っていて、この道が野首に至る生活道であったことはすぐわかった。港からかつての生活道を歩き始めると、直ぐ右側に教会屋敷跡と司祭館屋敷跡が見つかった。教会屋敷跡も司祭館屋敷跡も畑と同じように雑草も木も茂っていない。昔のまま保存されているのにはびっくりした。これは畑と同じように人間の手によって保存されたものではなく、鹿が放し飼いにされ繁殖しているために下草を食べてしまっているからであろう。その証拠に畑だけでなく、教会屋敷の隅々に鹿の糞が散らばっていた。

 教会屋敷の入り口には、表面に真鋳を張った木製の十字架が置いてあったが、これは多分教会屋敷跡の目印にしようと、かつての信徒の方が教会を解体後に置いたものであるのではないかと思われた。司祭館の前には椿の木と棕櫚の木がそれぞれ3、4本ずつあったが、椿の木には花が咲き誇り、その花に小鳥がとまって鳴いている様子は何となく、かつて、瀬戸脇で司牧された神父様方と信者達のことが偲ばれて淋しかった。
 
 
 
教会跡(手前)と司祭館跡(後ろ)

―住居跡

 住居跡も教会屋敷跡と同じように鹿のおかげでほぼ昔のままに保存されているが、その住居群は生活道の入口から直ぐ左側に、道に沿って集中していた。どの屋敷跡にもかつて芋とジャガイモとを保存していた大きな芋ガマ跡が見つかった。
 
住居跡。台風対策と夏に涼をとるためにどこの住居にもアコウの木が植えられていた。

 この集落の信徒達はどの家庭でも芋畑が少なく、主食であった芋の収穫も限られていて芋だけでは食糧が不足していたので、夏場になると、芋の代わりにジャガイモを主食とし、その保存に芋ガマを利用していた。この点が他の集落と異なる点である。この住民で少女時代(大正年間から昭和の初期)をここで過ごした江袋在住の田端(旧姓瀬戸)ツイさんは「夏場の瀬戸脇の信徒の主食はジャガイモで、芋釜で蒸かしてジャガイモに塩をまぶせて食べていた。そのジャガイモも不足する家庭があり、そのような時には隣りの野首や小値賀まで芋やジャガイモを買いに出かけていたが、彼女の家は小家族であったのでどうにかこうにか芋とジャガイモで命をつなぐことが出来た。

 そして、このように瀬戸脇の食糧事情が悪かったのは芋畑が少なかったということもあるが、一家のお父さんの仕事が荒仕事であったので、漁に出かけるときには必ず蒸かした芋をざる一杯弁当として持って行っていたからである。つまり、瀬戸脇の信徒は他の集落の人よりも(食い込んでいた)1日に食べる芋の量が多かったからであるかもしれない」と彼女は考えている。

 住居跡を見て特に印象付けられたことは、どこの住居跡にもアコウの大木があったことと、トイレ跡がものすごく大きく造られていたということであった。

 アコウの大木は瀬戸脇の集落を彩る特徴であるが、それは防風林であっただけでなく、夏場にはアコウの木の下で涼をとったり、家族で一緒に夕食をしたりして生活の一部となっていた。

 トイレが大きく設計されていたのは、どの集落でもそうであったように人間の糞尿が芋畑の下肥として使われていたからであろう。

 瀬戸脇の芋畑は集落の東側と西側とに広がっているのが特徴であるが、このように芋畑が拡大されたのは戦中戦後の食糧事情の悪い時であった。田端ツイさん(85)によると、「特に西側に芋畑が広がっているのはそこの土地が肥沃で、かつ、しなやかで、芋を植え付けると必ず大きなポケ芋が鈴なりに収穫されていた。だから、どの家庭の人も競うように西側に芋畑を造った。しかし、造るのはよかったが、木の茂っている山を畑に開墾する時の石垣接ぎは大変きつい仕事であった。特に収穫した芋やジャガイモを家までエーで担っていく作業はたいていが女の仕事で、とてもしんどい重労働であった。」

―教会墓地跡

 教会墓地と集落の集会所とは時間の都合上1回目の探検では見つけることが出来ないままであった。2回目の探検の時には前もって西側の中央付近にあるということを調べていたので、まず最初に教会墓地を見つけに行った。教会墓地は人から聞いていた通り、ほぼ西側の芋畑の中央部にあった。個人の墓石は皆掘り起こされあちらこちらに転がっていたが、墓地のやや左中央部にあった大きな墓石はそのまま保存された状態で残っていた。それに「福者なるかな 復活された主イエスと共に死スルものは」と、はっきり読み取れる文字が刻まれていたのが印象的であった。
 

 集落の公民館跡はそれだとはっきり確信できる物が見当たらなかったが、多分墓地から集落へと向かう帰り道の上にあるのが公民館跡であろうと思われた。というのは、その公民館跡とみられる所には明らかに一般信徒の住居とは異なる敷石が並んでいたし、また、一般信徒の住居跡には芋釜の跡や牛の小屋などがあるのにここだけは何もなかったからである。

―生活用水

 港から直ぐ近いところからはじまる瀬戸脇の生活道の直ぐ横は谷川になっているが、その道を約70メートルばかり上ったところに1回目の探検の時も2回目の探検の時にも流れ水が溜まっていた。ここは、かつて集落の生活用水を貯水した井戸であったと思われるが、今ではその井戸は大部分土砂で埋まっていた。その他の場所においてはかつての井戸の場所の確認は出来なかったが、集落右側の畑の隅の方にコンクリート製の水槽が残っていた。これは多分飲料水としてではなく、農耕用として使用したのではないかと思われた。

 昭和10年代をここで過ごした江袋の田端さんや浜口ナセさんの話によると、生活用水は3、4軒ごとに共同水として使っていたが、長期間に渡って雨が降らない時には東の方へ水汲みに出かけていたそうである。
 
 

 
瀬戸脇探検特集

 
 

野首初代主任司祭 浜田朝松師帰天
 

浜田師の思い出の写真

 船越教会主任イグナチオ浜田朝松師は、昭和44年9月1日心不全のため危篤になり、田川栄一師から病油の秘跡を授けられ、同日午前10時05分帰天された。享年70歳
司祭叙階にあること41年であった。

 師は明治32年下神崎に出生、昭和3年司祭叙階。宝亀、水の浦、紐差、野首の諸教会を歴任、昭和37年から船越教会主任として今日に至った。
葬儀ミサは9月3日浦上天主堂で行われ、赤城の聖職者墓地に埋葬された。

 
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