2代目主任司祭





ヨゼフ・紙崎 忠男師

 1962(昭和37)年〜1970(昭和45)年
 
 予定では紙崎師のページについても少し聞き取り調査をして私なりに編集してみる計画であったが、これも者の転任で出来なくなったことは極めて残念である。けれども、紙崎師については仲知在任中に小値賀教会の信徒土川幸子さんに依頼して取り寄せていた資料があるので、その資料をもとにして紙崎師の活躍を紹介したい。

 紙崎師は歴史に造詣が深いだけでなく、実際にキリシタン史の著作を著したり、小値賀町の史談会の会長を務めたり、キリシタン史の講座を主宰したりして特に文化の面で大きな貢献をしておられる。そのことの一部はすでに拙書の「仲知小教区史」で紹介済みであるが、ここでも師の著作の中から引用して師の活躍を紹介することにするが、紙面の都合上ごく断片的な紹介になることを承知していただきたい。
 師の著作を読んでの感想は歴史に詳しいだけでなく、論理的ありながら文章が平易で読みやすい。しかも、論文を読むようであるが、物語を読むように感動的であるということにつきる。
このことは師の著作物の一部を紹介することである程度分かっていただけると思う。
 
 ここでは「切支丹の系譜」(昭和63年発行)から序文と1章を、「隠れからカトリックへ」(平成元年1月発行)からは最終章のみを引用してみることにする。

1、「切支丹の系譜」
  ―野首・瀬戸脇の場合―

はじめに

 野崎島はご存知の通り、小値賀町に属し小値賀本島から東14・20キロ隔たったところにあります。
周囲15・6キロ、総面積7・36平方キロの小さな島です。
 この島は、沖神神社があり、島の中央部東方には野崎集落があって神主(岩壷姓)を中心に集落全体がその氏子になっています。

 島の中央部に南西に面して野首という集落があり、今も赤煉瓦造りの小さな天主堂が残っています。
島の南端には、船森と言う集落がありました。瀬戸を隔てて中通島と対していますが、切支丹たちは「瀬戸脇」と呼びならしカトリック教会では、今もその名を踏襲しています。
 
 
 

野首・瀬戸脇の両集落は移住者の集落でしたが、また移住してしまって今は誰も残っていません。

 しばらくヨーロッパからカトリック隠修士が数名渡来して庵を組み観想修道生活をしていましたが、この方々も五島の方へ移ってしまいました。
 
昭和51年9月、仲知のお告げのマリア修道女、船森(瀬戸脇)隠遁者訪問

追跡調査をすれば、今なら何時、何処に移住して行ったかは、まだ判るでしょうが、どうして移住して来たのか?ご存知の方は小値賀町でも殆どありません。

 私も8年間(昭和34年4月から昭和42年3月まで)小値賀町にカトリック司祭として在任して、信者の方々の司牧に当たっていました。昭和34年4月から「カトリック小値賀幼稚園」―今は「町立小値賀幼稚園」―の園長として、また昭和36年からは、町の教育委員として町の皆様方に大変お世話になっていましたので、今、私が知っているだけでも記録として残さなければと焦りを感じます。

 参考資料は少なく完全な解明は至難な業ですが、まだ公開されていない資料が若干私の手元にありますので、それを手掛かりに、話しておきたいと思います。

 前述の通り、私が辞令を受けて小値賀に赴任したのは昭和34年。
以前から切支丹史には多少興味があったのでその道の泰斗故片岡弥吉先生のご教示をいただきながら、シオン・パジェスの「切支丹宗門史」や浦川和三郎司教様著「五島キリシタン史」を改めて読み始めました。
小値賀が平戸松浦藩に属していたことも考えて、古文書はないかと探しに平戸の松浦資料館にも足を運び若干のものを発見しました。「三光譜録」は畏兄吉井一信氏(当時前方駐在在中)から拝借したものです。

 郷土史に詳しい方のお話を伺うたびに史談会にも入会させていただきましたが、結局、史談会をお世話する破目になりました。その機関紙「龍灯」を昭和44年6月から私が鉄筆を握ってがり版刷りで残すことになりました。その機関紙の創刊号に「おぢかのキリシタン」について発表し、それが昭和53年3月に出版した「小値賀町郷土史」第2章第4節第1項の1、キリシタン、第7章第5節カトリック教などの底本になったようです。その年(昭和40年)の秋、カトリック長崎大司教区所属の中堅司祭のグループで出した「きずな」誌に「小値賀のキリシタン」を紹介しました。
前回(昭和61年度)お話したときのプリントはそれを基にしたものです。
 
 

神の旅人

 森本哲郎先生は、異邦人の使徒聖パウロの伝記「あけぼの」誌に―1986年1月から連載―のタイトルを「神の旅人」とされていますが、野首、瀬戸脇に居たカトリック信徒たちも同じように「神の旅人」と呼べるのではないでしょうか。
彼らは今も旅の空で祈り続けます。
  
      聖母賛歌

 元后、あわれみの母
 われらの いのち、喜び、希望
 旅路から、あなたに呼ぶ、エバの子
 なげきながら なきながらも
 涙の谷に、 あなたを慕う。
 われらのために とりなすかた。
 あわれみの目を われらに注ぎ、
 とうとい あなたのおん子 イエズスを、
 旅路の果てに 示してください、
 喜びの おとめマリア
   (カトリック長崎大司教区発行「公教会祈祷書」)

 邪教呼ばわりされ、禁教の厳しい状況下にありながらも、唯一の神を信じるが故に逃れて、彼らがここに生きていた証しに、僅かばかりの文献を提示してみます。

 その前にご承知願いたいのは、小値賀の三村合併前は、野崎島は前方村に属していたこと、そして藩政時代には、五島列島の中でも、小値賀町に属する島々と中通島のうちの一部は、平戸松浦藩に属していたと言うことです。
その上、その藩主は小値賀から居を平戸に移し、五島侯は宇久から福江に出た、ということも念頭に置いて下さい。

(1)、野崎島キリシタンの経路

 大正7年にまとめられた「前方村郷土誌」によれば
「野崎島の野首・船森住民は、右大村藩より移住せる者にして、左の2族より開けしと。
一族は三助と言い妻をエスと言う。子、平太郎、妻はワノにして次第に繁栄せりと。他の一族は始め長吉とヨネ、この間に松太郎を生む。松太郎4代目白濱長吉(大正6年調では存命)。松太郎は始め久島に落ちしが貧困のため忠造と条造の2子を連れ、天草長島に往しが、これまた食すること能はずして遂に野崎島の南端船森と野首の中間なるハエドマリと言う処に畑を開いて住す。然るに猪のため作物荒らされ、永住の見込みなく、後、野首に移り、代々ここに居住す。他は何れも神ノ浦、大野、牧野地方より出ず。故に平戸藩なれども言語、風俗等南松の信者と相似たる点多し。」

(2)、野首のキリシタンの先祖

 昭和26年12月発行された浦川和三郎著著「五島キリシタン史」には「野首のキリシタンは直接外海から渡来したのではなく、下五島の三井楽や久賀島から移住したものだと言う。・・・・中略・・・・・この松太郎と別に三井楽から移住した一族とが、野首キリシタンの祖先なのである。」とあり、中略の部分は殆ど同じ内容なので「前方村郷土誌」から引用されたと思われます。

 野首に居た白浜作太郎が大正5年11月1日にまとめ、以後昭和36年まで順次加えて行った「野首血系一覧」を整理してみると、次のようになります。―略―
 後は「仲知小教区史」を参照のこと。
 

2、紙崎忠男著 「隠れからカトリックへ」

 目次
はじめに
(1)、日本キリシタン発見
(2)、野首・船森のキリシタンの信仰表白・受洗
(3)、信仰の自由を求めて―竹島探検―
(4)、明治の迫害―平戸での迫害
(5)、裸一貫より再起

(6)、自分たちの手で聖堂を

 野首の信者たちが小値賀町の主導で僻地集落解消の行政に応じて野首を去るに当たって、私に残してくれた記録の中に「聖堂建築取り立て帳」というのがあります。明治40年から積立金を初めて、落成後清算が終わるまでの収支を記録したものです。

 その中に特に大切な資料がありますのでそれをコピーしたものを下に掲げました。献堂式が明治41年(1908年)10月25日なされたということの最も確実な証拠文書です。そして、それは前述の「司祭巡回記録」の前に閉じられている「五島地区聖堂祝別表」にある野首天主堂祝別式と符号します。(堂崎天主堂の長崎県文化財の指定を受ける際、県の文化財審議委員をしていた片岡弥吉先生からの電話でこの「祝別表」を資料としてお送りして認められました)
この「聖堂建築取立表」を一覧しただけでも、まだその日暮しの生活も満足に出来かねない信徒たちが、血のにじむような思いをして資材調達に駆けずり回った様子が彷彿と浮かび上がってきます。

 自分たちはあばら家でいい、何としても神様の家にふさわしいものを心がけた彼らの信仰のほどが伺えます。
野首だけでなくて「五島地区聖堂祝別表」を見ると、当時の五島キリシタンたちが自分の信仰を表にあらわすことの喜びに浸りながら、この世の苦しみを乗り越えて行った様子が今も私たちの胸を打つ。
 
 


                                 
明治41年野首教会建設時に記された貴重な書類である。
 

註1、大工 鉄川与助
彼の業績はNHKのテレビでも放送されましたのでご存知の方も多いと思います。
註2、司教様
長崎教区第2代ユリオ・アルフォンソ・クーザン司教様のこと。在位は1884年から1912年まで。
註3、ベル様
アルベルト・ペルー神父様
この当時五島列島の主管者をしておられた。(下口)
註4、マタラ様
平戸地区の主管者であった。(下口)
註5、中田
イグナチオ中田藤吉神父様、仲知小教区の主任司祭。鯛ノ浦教会出身 1956年1月7日帰天。
註6、嶋田様
トマス嶋田喜蔵神父様 江袋教会出身 1948年3月29日帰天
註7、ヒューゼ様 
桐小教区主任司祭
註8、大崎
ヨゼフ大崎八重神父様、青砂ヶ浦小教区主任司祭。
天草出身 1931年10月6日飽の浦で帰天
註9、白浜長吉
アントニオ長吉 1848年生まれ。前出。
註10、白浜金三郎
松の助の子。「教籍簿」には見当たらない。
註11、白浜松次郎
トマス松次郎 1865年生まれ 1913年没。

 「前方村郷土誌」によれば当地の信者の司牧に当たった神父は「クーザン師始めの頃長崎より来たり鯛ノ浦を中心として布教セリ。ブレル師野首より中五島を担当して宣教セリ。 後担任区を野首・瀬戸脇と定め牧することになり、フレノ師、ヅラン師、ベルトラン師、マタラ師、本田保師、ドラキス師、クレンペーター師、青木師、大崎師、道田師、萩原師、中田師を経て現今永田師にて宣教中なり」と記されている。

 しかし、野首小教区(小値賀町、宇久町)が仲知小教区から分離独立したのは、イグナチオ浜田朝松師からで(任期中カトリック小値賀幼稚園開設)1962年(昭和37年)4月から1970年(昭和45年)3月までヨゼフ紙崎忠男師(任期中船森集落移住)、その後マチア川上忠秋師(任期中野首集落移住)、次いでパウロ・ミキ浜崎靖彦師が着任(任期中カトリック小値賀幼稚園を小値賀町に譲渡)、それから小値賀(野首)小教区は再び仲知小教区に併合された。
 
 
 
 
紙崎忠男師が司牧されていた時代の野首の写真
中間の建物は司祭館である。
晴れ着を着用しうれしそうな野首の子供たち
みんなで10人。
野首小学校での運動会風景
教会は左上にあるが、写真の状態が悪くて見えない。

 船森(瀬戸脇)教会の聖堂は「昭和15年設立」と言われていたが、船森にも何時建設されたのか知るものはいなかった。ただ、五島のある網元旦那の家を改造したということで、その後浜田朝松師在任中増築されていたが、船森集落移住の折に小値賀町大島郷の某氏に売却解体移築されて家畜小屋になったという。キリストもベトレヘムの厨でご誕生になったので奇跡を感じる。

 なお、司祭館はカトリック小値賀幼稚園の方に移築され、今は仲知から主任司祭が巡回してこられた時ミサ聖祭を捧げるため使用されている。

 信徒数は一時野首30数戸、船森42戸まで増加、大正7年発行の「前方村郷土誌」には野首173人、船森162人とあるが、今はわずかに小値賀島に10戸内外があるだけである。

 
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