イグナチオ・浜田 朝松師


野首教会の思い出
 

楠本(旧姓・白浜)キヨ子

略歴
昭和17年5月20日、野首生まれ
昭和17年5月25日、仲知教会で畑中師より受洗
昭和33年野崎中学校卒業後、鯛ノ浦伝道学校で半年間教え方としての教育を受ける。
昭和33年の10月から昭和37年10月までの4年間野首の教え方を勤める。
昭和40年4月27日結婚16女の子供に恵まれる。
娘の2人は宮崎カリタス会修道女で末娘もお告げのマリア修道会の志願者
 

 仲知小教区の信徒の中には信仰熱心な信徒が多い。残念ながら編者が仲知小教区の主任司祭になった平成6年から今年(平成13年)までの約7年間に素晴らしい信仰熱心な信徒が次ぎ次と他界している。非常に残念である。

 他界した信徒の方はどなたも懐かしい方ばかりであるが、この中には仲知小教区の経済評議員として直接に主任司祭の私に尽くしてくれた方、長年歴代の仲知小教区の主任司祭の補佐をして、教え方としてその生涯を教会のために捧げた方、直接教会奉仕はしなかったが、自分の生活費のすべてを献金して、イエスさまから賞賛された未亡人のように、司祭を助けるために生活費のほとんどをごミサ料に捧げた方など、例をあげるときりがない位である。

 現在の仲知小教区にはまだまだ信仰深い信徒が数多く元気で信仰生活を送っておられるが、その一人が江袋教会の信徒楠本キヨ子さんである。

 楠本キヨ子さんには記述したように今年3月15日、江袋の自宅で出身地の野首教会の思い出を聞いた。

少女時代の夢

 直ぐ隣の家の白浜チマさんは野首の教え方終了後、北海道のトラピストに入会し修道女となっていたが、よく帰郷していた。このシスターと彼女とは相当の年齢の開きがあったが、少女の彼女にとってチマシスターは憧れの的であり、出来うるならば自分もチマシスターのように修道女になりたいと夢見ていた。

 そして、実際に小学校6年生の時に浜田師より「修道院に入会しないか」との勧誘があった。しかし、家族は大黒柱の父が死病(肝硬変)にとり付かれ、生きるか死ぬかの瀬戸際の状況であった。それにまた、家族は小値賀の横山病院に入院している父の看病で多額の借金をしていたから、修道院への支度さえ出来ない経済状況であり、とても修道院へ入会できる家庭環境でなかった。

 その父も家族の精一杯の介抱にもかかわらず、病気には勝てず、彼女が中1の時に死亡した。父の死で家族に残されたのは借金の山であった。借金返済にまだ中学生の兄・白浜富吉は毎夜、イカ釣り漁に出かけていた。当時、野首で農耕して生活していくには牛が最高の労働力であったが、その牛の子"べべん子"も借金の返済に充てられた。しかし、それだけで生活費が足りるはずがない。長男の富吉は野首中学校を卒業すると、直ちに、有川出身の「小崎」という人が野首の沿岸で経営していた定置網に就職し、ついに1年後、約10万円の借金を返済した。

親の信仰のしつけ

 眠たくなって早めに休んでいると、父が「さあ、祈りばするぞ」と起こされて無理やりにロザリオと夕の祈りをさせられていた。昼は昼で食事の前に「お告げの祈り」をさせられ、朝も眠かとに早く起こされて「朝の祈り」をさせられていた。また、教会での稽古の時間に先生から騒いで怒られると、すぐに兄弟たちが親に言いつけていた。すると罰として夕食を食べさせられなかった。

教え方時代

 中学校を卒業してから都会へ就職するというのが野首のその頃の子供たちの憧れであった。彼女もそのような夢を持って中学校を卒業しようとしていた昭和33年3月、あいにく前任者の白浜かおるの後を継いで野首の教え方候補者に村の人々の札入れにより決まってしまい、都会に就職するという夢は一変に消えてしまった。

 当時主任司祭であった浜田師や宿老をしていた義理の叔父白浜友吉らに励まされて、昭和33年5月、鯛ノ浦伝道学校に入学する。彼女は第5回女子部の入学生で半年間教え方としての指導を受け同年の11月10日卒業する。その時の同級生は上五島地区の各小教区から派遣された教え方志願者であったが、仲知からの志願者はいなかった。というより、仲知では鯛ノ浦伝道学校とは別に、仲知小教区主任司祭田中千代吉師が仲知伝道学校を再開し指導にあたっていたからである。

 彼女が入学した第5回鯛ノ浦伝道学校の生徒は全部で22人であったが、内訳は次のとおりである。
野首1、青砂3、鯛ノ浦3、真手の浦1、浜串1、曽根3、大曽3、丸尾1、桐3、土井ノ浦3である。

 伝道学校の指導司祭は鯛ノ浦教会主任司祭の川口善助師であった。師は特に主要科目であった教理(公教要理)を担当し、土井ノ浦の浜口貞一師は聖書を担当、竹山涼師、冷水師、清水佐太郎師も代わる代わる指導に当たって下さった。谷中セイ子シスターが聖歌の指導、松井ミトシスターが住み込みで生活指導をなさって下さった。

 昭和33年11月、伝道学校を卒業すると、教え方見習として半年間先輩の教え方白浜かおるさんからいろいろと教え方の実践方法を指導してもらった。その後、教え方としていろいろな失敗と経験を積みながら4年間の義務年限を勤め上げた。さらに半年間、次の教え方の加勢をした後、やっと教え方の勤めを果たし終えた。
 

教え方の主な教会奉仕

 教え方であるから子供たちに公教要理を教えることが主な任務である。教え子の子供は小学生、中学生の全員であるが、その頃の野首には戸数30戸余りで子供たちも結構多かった(約70人)。多かったから初聖体組、祈り組、堅信組の3組に分けて時間をずらしながら毎日教えていた。夕方4時位になると、ほら貝で子供たちを教会下の公民館に集めて教えていたが、野首では信者の家は教会の周りに集中していたので、ほら貝を吹くと村中の子供に良く聞こえていた。
堅信の1年前になると、堅信組みは主任司祭の指示により夕方だけでなく早朝にも厳しく教えていた。
 

手前の建物が信徒会館

 野首の教え方は子供に教えるだけでなく、その頃には主任司祭が常住し毎日みたいに野首教会でミサがたっていたので、ミサの準備、聖歌の指導、ホスチア焼きも教え方の奉仕であった。だから、野首の教え方は結構忙しかった。しかも、彼女の教え方の奉仕は主任司祭に仕えることでもあったので、この点で彼女は浜田師から厳しい信仰の躾を受けている。

ホスチア焼き 

 ホスチア焼きの仕事は、処女会の会員が家まで集めてくれていた原料の小麦をきれいに洗い、埃のしない場所できれいな紙で乾燥させることから始める。そうして、きれいになった小麦をひき臼で製粉する。さらに、ふりを使って白い粉だけにしてから焼く。この作業はきつい仕事で慣れるまでに時間がかかったが、慣れるに従いそれほどの苦にはならなかった。

香部屋 

 野首での平日のミサは朝6時からであったが、彼女は朝5時に起床し祭服とミサの準備をするのが日課であった。浜田師が瀬戸脇教会の巡回などしていてミサがないときにも早朝、教会に行って窓を開けるのが彼女の奉仕であった。この奉仕は彼女の家が直ぐ教会の近くにあったので苦にはならなかった。また、当時教会に安置してあった聖体ランプは燃料として石油を使っていたので、油を補充するのも教え方の奉仕であった。

 聖衣の洗濯、アイロンかけも彼女の奉仕であったが、聖布を洗濯する時には浜田師が3回洗浄してからさらによく洗いなおしてアイロンをかけていた。

厳しかった浜田師のしつけ

 浜田師が野首小教区で司牧した時には結構高齢に達していた。高齢であったにもかかわらず浜田師は小値賀に保育所を設立したり、野首・瀬戸脇の共同漁業組合を結成するなどの偉大な足跡を残しておられる。そのことはうら若き16歳の教え方には十分に分かってあげるほどに人間的に成熟はしていなかったようで、何と彼女は師のことを陰では「爺(じい)神父」と呼んでいた。確かに野首小教区時代の浜田師の顔写真を見るとけっこう頭も禿げ上がっているので若い娘が「爺神父」と呼んでいたことも納得できる。

―瀬戸脇のミサ参加

 野首の巡回教会であった瀬戸脇までは山道を1時間は歩かなければならない。だから小学校だけは昭和の始めに瀬戸脇にも造られていた。浜田師は、この瀬戸脇に巡回する時にはたいてい1週間くらい滞在して信徒の信仰生活を指導しておられた。というのは、瀬戸脇にも野首とほとんど変わらないほどの信徒がいたので、公平に司牧活動するという方針をとられていたからである。

 瀬戸脇滞在時に聖ペトロ、聖ミカエル、イエスのみ心、聖テレジアなどの祝日が来ると、師は野首の教え方の彼女に野首の小中学生、処女会会員を全部連れて瀬戸脇のミサに与るように指導していた。このために彼女は早朝2時には起床して子供や処女会会員のいる家を一軒一軒起こして廻ってから懐中電燈をつけ、暗闇の山道を歩いてミサに参加させていた。

 しかし、このような祝日には瀬戸脇の教え方をしていた瀬戸芳野の家に立ち寄りお茶や食事の接待を受け楽しいひと時を過ごすことがあった。
 

瀬戸脇教会

―ゴミ焼き

 土曜日の午後のことである。浜田師はよく学校帰りの子供たちを集めて教会の周りの清掃、公民館の側溝の溝さらい、浜の道の途中にあるゴミ拾いとゴミ焼きとを奉仕作業として良くさせていた。彼女は爺神父が毎土曜日のようにこの清掃奉仕をさせていたので良く覚えている。

―信心業

 浜田師は信徒の信仰育成のためには、毎日の祈りの積み重ねが必要であるとの堅い信仰心と強い信念とを持っていたので、毎日信者を教会に集めてロザリオ信心業と夕の祈りとをさせていた。
3月の聖ヨゼフの月5月と10月の聖母月、6月のイエスのみ心の月にはさらにそれぞれの月に合った聖歌や連祷を追加して信心させていた。

そのときの指導はご自分でなさっていたが、ご自分が留守の時の指導は教え方に任せていた。このような信心に信徒が一人でもサボることを師は決して許さなかった。このため、この信心業に一人でも欠席しているか、遅れている場合には大人であろうが、子供であろうが全員が揃うまで祈りをさせなかった。教え方の彼女が時間になったと思って祈りを始めていると、師から怒られていたし、「誰々がまだ来ていないから連れに行って来い」とやかましく指導していた。
日曜日のミサも同じように指導し最後の信者が揃うまでミサはしなかった。
 

野首教会室内

―礼儀作法

 師は用件があって本土に出かける時には礼儀として「行っておいでください」と、また、帰りも「お帰りなさい」と言いなさいと指導していたが、この実践は若い彼女にとって、とても難しかった。頭ではよく分かってはいても恥ずかしくてなかなか実行できなかったのである。

―その他の思い出

 浜田師が野首小教区初代主任司祭として昭和22年11月に着任した時、彼女はまだ5歳児であったが、少しだけ着任の様子を覚えている。それは、子供が好きなウサギやニワトリを連れて来たという思い出であり、いかにも幼い子供らしい記憶である。

 浜田師は平戸市下神崎出身で時々帰郷していたが、そのような時には交通不便であったので、海上が凪の時に下神崎でいりこ製造をしていた甥が送り迎えしていた。

 師の賄いは瀬戸脇の瀬戸ソマという60歳くらいの叔母さんであったが、魚好きの師に魚を食べさせようとしてよく近くの海岸に出かけてクサビやアラカブを釣っていた。この賄いが留守をする時には教え方の彼女が賄い奉仕をしたが、調理がうまくいかず困ることが多かった。しかし、その時ばかりは感謝していただいて下さったのでほっとしていた。

 彼女が教え方をして教会に奉仕していた5年間の教会の行事については2つのことを覚えている。

1つは小値賀カトリック幼稚園の祝別式である。
 
小値賀幼稚園

 昭和34年9月1日、長崎教区は浜田師とカトリック信徒の小西和男小値賀町長の要請に応えて小値賀でカトリック幼稚園の経営と教育とを引き受けることになり、祝別のミサがその年の5月に大司教に昇格された山口大司教によって盛大に挙行された。その敷地の整備のために野首の信徒たちは村船で浜田師から頼まれて各自弁当持参で奉仕させられた。

 さらに、祝別式の直前には瀬戸脇の瀬戸芳野と2人で3日間泊り込みで祝別式の準備をさせられた。幼稚園の椅子は教区会計をしていた西田師が空の貨物船で送ってくれた。幼稚園の先生は聖碑姉妹会(現・お告げのマリア修道会)の姉妹3人が教区より任命されて行い、幼児教育を通して宣教地である小値賀の福音化に尽力するようになった。
小値賀幼稚園設立以来、野首の浜田師は瀬戸脇の信徒の漁船を借りて1ヵ月に2回程度巡回するようになった。

堅信式

昭和36年7月30日に野首で行なわれた時の記念写真だと思われる。
前列中央は山口大司教様、その右が浜田主任司祭でその左が彼の導きで信者になった小西小値賀町長である。
 もう一つの出来事は、昭和36年7月30日、野首教会で瀬戸脇と野首の子供たち約40人が山口大司教の手によって堅信式が盛大に行われたことである。司教様にとっては前日、仲知教会で堅信式を済ませておられたで、二日間、連続しての堅信式であった。ミサ後、司祭館で盛大な歓迎会があったが、教え方の彼女にとっては堅信ミサの準備で忙しく接待の方は婦人部に任せていたので歓迎会がどんな様子であったかは知らないという。
 
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