イグナチオ・浜田 朝松師

 

―鹿

 現在、野崎島を訪れると鹿がどこでも5、6頭群をなして生息している姿が直ぐ目にとまる。記念に写真を撮ろうとすると直ぐに山奥に逃げてしまうし、鹿の色は土の色によく似ているので、うまく撮ることが出来ない。
キヨ子さんの少女時代にももちろん鹿が生息していた。芋畑を荒らされるという被害を食い止めるために畑の周囲に垣を張り巡らしていたが、それでも鹿はその垣を乗り越えてよく芋を食っていた。この鹿をわなで採って食するということもしていたが、鹿の肉はばさばさしていて豚肉や牛肉のように美味しくはないとか。
鹿の角は拾って来て水を担うオコの鍵として使用していた。
 

野首の鹿
かつてより鹿は繁殖している。

 

 

 現在の野首はダム工事でかつての風景がすっかり変わり果ててはいるが、キヨ子さんのかつての思い出までも取り消すことは出来ない。
大自然と共生しての農業中心の自給自足の生活であったが、村人は何よりも先祖から伝えられていたカトリックの信仰を大切にして、のどかで平和な信仰共同体を形成していた。

 キヨ子さんもこのような共同体の一員としてこの野首で22年の思い出深い半生を過ごしている。この野首での22年の信仰生活が今江袋の信仰共同体で花開いてるのである。
 
 
教会より右側の景観はダム建設で破壊されている。

 

―信仰の躾

 現在キヨ子さんは1人の男の子と6人の女の子の母である。
これまで自分の親から躾られたように7人の子供たちにも厳格に信仰の躾を行って来た。彼女にとっても信仰の躾が子供の教育の基本原理である。だから、学校の勉強より信仰の躾を最優先させて子供の教育を行って来た。これをキヨ子さんは今でも間違っていないと思う。それどころか、これこそがカトリック信徒の親の勤めであり、喜びであると考えている。だから、これまで祈りとか、ミサとか子供がすねて行かない時はご飯は食べさせないという毅然とした態度をとり続けてきた。それで子供たちはどの子も、こと教会のことになると普段やさしいかあさんが「怖い」と思って育って来た。
 

楠本昇・キヨ子さんの家族

 現在4女の楠本雅巳は宮崎カリタス会のシスター、5女の楠本千恵子はお告げのマリア修道会シスター、 そして7女の楠本美千代はお告げのマリア修道会の志願者で今年純心短大生になる。

3人の娘との対話

 母キヨ子は4女の雅巳に「家は女の子の多いけん 一人ぐらいは誰か修道院に行かんか」と勧めていた。
雅巳は小学5年生くらいまでは「行かん、行かん」の一点張りであった。ところが、小学6年生になると、心境が一変して「行くよ」となった。これにはわけがある。その頃は佐藤師の時代で神学生と志願者の数が一番多い時であった。特に江袋からは宮崎カリタス会へ入会者が続出していたのでその影響がある。

 5女の千代子はもう仲知の保育所に通園していた時から将来の夢はシスターになることであった。この彼女の夢は一度だけ短大生の頃に途切れかけたが、そのときだけで後はずーとシスターへの道は順調で平成10年に憧れの夢がかないシスターとして現在活躍中。

6女の美千代

 美千代も小さい時からシスターになることが夢であった。
ある日のこと、西ドイツに宮崎カリタス修道会によって派遣されている妹の白浜チエノシスターから家族に西ドイツ特産のチョコレートが送って来た。そのときまだ美千代は幼児であったが、片言で「チチター(シスターのこと)になって外国へ行き、お母さんに自分がチョコレートを送ってあげるね」と言っていた。この思いは成長しても変わらず、むしろ大きくなり、シスターになるという決意が彼女の生きる力となっていく。

 その硬い意志は、中学と高校生の時の節目節目にぐらつくことがあったが、もう大丈夫だと思われる。これは彼女の主任司祭である編者の考えであるが、多分彼女はよほどのことがない限りこれからは道に迷うことなく順調に憧れのシスターになるものと信じている。

 なぜなら 客観的に判断して今の美千代さんはしっかりとした足取りでシスターへの道を歩んでいると思えるし、なによりも祈りで支えつづけている母のキヨ子さんの信仰がしっかりと根をおろしているからである。この母の祈りがある限り、きっと美千代さんは夢がかない良いシスターとして成長するに違いない。
 

頂いたお恵みに感謝して

宮崎カリタス会シスター 楠本雅美
楠本守・キヨ子夫妻の3女 

宮崎カリタス会修道女
楠本雅巳さん
お告げのマリア修道女
楠本千恵子さん
お告げのマリア修道会志願者楠本美千代さん
 私がこうして今日まで修道生活という道のりを歩んで来られたのは、神の導きと幼い頃から近くで沢山の祈る姿を見、また、先祖を通して受け継がれて来た素晴らしい信仰の環境の中で生活出来たことだと感謝の気持ちで一杯です。

 江袋教会では、5月と10月の聖母月だけでなく、6月の御心の月にも毎日ロザリオ信心業をする伝統があり、今でもその伝統は続けられているが、私たちの子供の頃も江袋の子供たちは全員その信心業に当然のことのように与っていました。

 学校の帰りが遅くなり信心業の時間に遅れそうな時には、家には帰らずそのまま直接急ぎ足で教会に行って順番になっていた祈りの先唱を2人でしていました。先唱の時は大きな声ではりきって唱えていたことを覚えていますし、今でも聖母月や御心の月になるとあの頃のことを懐かしく思い出しています。

 それから江袋教会の伝統である毎週金曜日の十字架の道行きの信心業も稽古のことも思い出しています。
 

楠本雅巳さんが修道院へ入会された頃の江袋教会での十字架の道行き信心業の風景。当時、江袋の子供たちは多かったが、毎週金曜日には全員学校帰りに十字架の道行きの信心をしていた。
特に堅信前の稽古は「公教要理ば覚えんか」と言う母や教え方さんの声に、稽古前に慌てて近くの木の上に登って大きな声を出して懸命に覚えていたこと、稽古の時、親が後に来て公教要理の応答を聞きに来ることがあり、ドキドキしながら答えていたこと等を思い出します。そして、堅信前の何ヵ月か前、毎日のように朝5時過ぎに起き、近くの友達を誘い合わせてからみんなと一緒に眠たい目をこすりながら、まだ暗い山道をゆっくりゆっくりと歩きながら仲知まで平日の早朝ミサに行っていたこともありました。ミサが終わった後は家には帰らず、仲知の久志商店に行ってお湯をもらい朝食にカップラーメンを食べてそのまま登校していました。今考えるとそれが一つの楽しみとなり、苦にもならずごミサにも続けて参加することが出来たのかもしれません。

 堅信も江袋教会百周年という恵まれた記念すべき年に里脇枢機卿様によって授けていただきました。
 

堅信。記念写真は受堅者が多くて男女に分けて撮影されている。女子でも数が多くて楠本雅巳さんの顔の判別ができない。

長い長い説教の間板張りにじーと正座していたため、説教後立とうとしても足がしびれてしまいフラフラと倒れそうになるのを必死にこらえていたことを覚えています。

 入会する年のクリスマスには教会に飾られた馬小屋の前に跪いて「シスターになれますように」と祈っていたこともあります。

 小さい頃から祈る習慣を家庭でも教会でもしっかりと植え付けられてきました。この恵まれた環境はきっと現代の子供たちには味わうことの出来ないものだと思います。それは、仲知(江袋)を離れてみて強く感じていることで皆さまに深く感謝しています。

私を修道女への召命に呼んでくださったのは何よりも神様ですが、親を始め先祖から受け継がれて来た仲知小教区の皆さまの強い堅固な信仰のお陰だと思います。
志願者の頃は毎年帰省するたびに、当時主任司祭だった佐藤神父様のご配慮で神学生、志願者のためいろいろな催しものをして下さって励ましてくださいました。

 修道女になってからも仲知教会で第1土曜日の早朝ミサで行われていた召命のためのミサや神父様の励ましの言葉は本当に身にしみて、この難しい社会を修道女として生きる力となっています。
仲知(江袋)に生まれ育ったことによって受けた信仰の恵みは、私にとって計り知れないほど貴重な神様からの贈り物です。

 入会の前日は不安と寂しさとで家のコタツの中で涙が止まらず泣いていて、なかなかコタツから出て行くことが出来なかったことを今でもよく覚えています。

 入会してからもいろいろなことにぶっつかり、そのたびに故郷のことを思い出していました。修道女になって休暇で帰郷するたびに江袋教会で祈る信徒の後姿を見ることで、信仰の素晴らしさを実感すると共に自分のこれまでの召命の柱になっていたことを感じます。

 幼い頃から見てきた母や今は亡き祖母、そして、仲知小教区の皆様、沢山の方々の祈る後姿を自分の信仰の土台としてこれからもっともっと堅固なものにして行きたいと思います。そして、仲知(江袋)で育ったからこそ育まれて来た信仰のお恵みに深く深く感謝しています。
 

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