イグナチオ・浜田 朝松師


思い出(1) 古里野首の思い出

    野首出身 白浜清太郎氏 

 野首出身白浜清太郎氏(72)が古里の思い出を「仲知小教区史」に綴っていますので原文のまま使わせていただきます。
 
左:白浜清太郎氏、右:平戸市長白濱信氏
写真は西風の会会報「SEIFU]より引用

―教会建立

 明治41年。其の頃戸数も17戸。信仰的には300年の迫害から解放されて、誰はばかることなく大きな声で聖歌を歌い祈りを捧げて益々熱くなっていった。ただ、彼らにとって足りないものがあった。それは教会であった。既に近隣の江袋や青砂ヶ浦には立派な教会が建ち神父様を迎えてミサに与り、お祝日は盛大な祭儀が行われていた。何としてでも自分たちの教会を持ちたいものと先ず、敷地の造成から始めた。これは信者総会の労力奉仕で出来た。
 

 しかし、建築だけは資金が必要であったが、その日暮らしの貧しい彼らにそんな金はない。衆議の結果、村の主だった頭たちが羽織袴で小値賀の有力者を訪ね資金借用を申し入れた。快諾をえたものの資金の使途を聴かれて教会建設です、と正直に答えると、邪宗の汚名がまだ残るそのころである、一瞥もなく断られた。

 それではと、信者一致団結、あらゆる困難、苦労を覚悟で自分たちの力で資金作りを始めた。まず、集落全家族が共同生活をする事によって無駄をはぶく事から始めた。そればかりではなく、大人は原則として1日2食とし、一方、キビナゴ網を購入してキビナゴ漁を興して資金として蓄える計画をたてた。そして、やっとその念願かなって資金のめどがついたのは明治も終わりに近かった。

 建築を請け合ったのは、魚目村出身の鉄川与助だった。
 
鉄川与助氏

当時彼は五島周辺の教会建設を数多くてがけてきた。しかし、野首のように煉瓦造りは彼にとって初めての建設であった。建設費総額は750円であった。完成したのは明治41年。献堂式は同年10月25日である。当時、主任座教会仲知は第6代中田藤吉神父であった。
 
晩年になって故島田喜蔵師を墓参りしたときの写真。

その時野首の信者戸数わずか17戸であったことを思えばその捧げた犠牲はまさに驚異である。当時の人々の目にも奇怪に感じたに違いない。
 

 完成間近かにせまると、工事に関わった人夫たちの間に不安がつのった。それでなくても禁教の高札がとれたと言っても得体の知れないキリシタンたちである。こんな小さな集落でこんな立派な教会を建てるなんて狂気の沙汰ではないか。まず人夫たちが考えたのは果たして工事代金は貰えるだろうか、それが心配であった。そればかりか工事が済んだらこの得体の知れないキリシタンたちによって皆殺しにされるのではないか、不安は募っても島から逃げ出す術がない。いよいよ落成の日が来た。工事関係者はその祝賀会に案内されて、帰りには現金で耳を揃えて支払われた。
人夫たちは命どころか金まで貰ったと互いに抱き合って喜んだという。祖父から聞いた白濱清太郎氏の話である。

―信仰生活の歩み

 洗礼、初聖体、堅信

 まず、子供が生まれると2、3日後には伝馬船を漕いで、抱き親と共に仲知教会へ洗礼を授けてもらいに行った。役場の戸籍届はその後だった。初聖体、堅信などの準備は「教え方」と呼ばれていた方が指導してくれていた。初聖体はともかく、夏休みの堅信の準備となるとその指導が徹底していて、公教要理を暗記して来ないときは罰として夕食を抜かなければならなかった。それと翌日は海に入って泳いではならないとされていた。夕食は皆守ったが泳ぎとなると誰もが我慢できず、大人達の目の届かない一山超えた砂浜で隠れて泳いでいた。時にはそれを見つけられてよく叱られたものである。

 いよいよ堅信の日が近づくと、仲知の松おんじ教え方の家に寝泊りして、米山、一本松、赤波江、仲知西、江袋、大水などそれぞれの集落から集まった子供たちは教会単位で公教要理のテストがあり、見事合格すると鬼より怖かった松おんじに誉められた。その時ばかりは松おんじの顔がヨゼフ様のようにやさしい笑い顔になった。
 
 
島本松衛・ハル夫婦
現在は松衛氏は他界し、奥さんのハルさんが江袋で元気で過ごしておられる。

 
島本松衛氏の家族が住んでいた島の首(仲知)集落

堅信の日は長崎から司教様がお出でになって授けてくださった。無事堅信式が終わると仲知修道院の姉さんたちがラシャ地で出来たハタ「スカプラリオ」を肩から掛けてくださった。

―ミサおがみ

 村ではミサに与ることをミサ拝みと言っていた。教会は建てたが肝心の神父様が足りないので野首は巡回教会としてミサがあるのは月に一度か二度程度だった。その他の日曜日は以前と同じように江袋や仲知教会まで舟に乗って拝みに行っていた。しかし、天候が悪く海が時化ているときは行けなかった。それを決めるのは宿老の役目で、宿老は前日からそれを決めなければならなかった。行くと決めたその前日、宿老は教会の高台から大きな声で「明日はミサ拝みに行くぞ!」と叫んでいた。

 野首には適当な港がなかったので村船は使わない時は陸に上げられていた。その上げ下ろしは青年たちの仕事であった。村船はミサの時だけでなく、病人が発生した時や臨終の時神父様や医者を迎えに行く時などにも使われた。村ではこの船が唯一の交通機関であった。

 時化のためにミサに与れないときは教会に集まってお祈りをしていた。

―黙想会

 野首は信徒が少なく巡回教会だったので、神父様は常住することがなく、年に数回巡回してミサを奉げていた。その時は村の信者一同告解(赦しの秘跡)をしていた。年に一度の黙想会は大変だった。信者は皆板張りの上に正座して長いながい説教を聞いていたが、足がしびれて早く終わればいいのにと説教を聞くどころではなかった。いま考えると椅子か、せめてござでも許されていたらいい説教が聞けたのにと悔やまれてならない。

―お祝い日

  お祝い日になると野首でミサがない時は船を仕立てて仲知教会まで行っていた。何年かに一回当番で野首教会でもミサが奉げられることになっていた。御誕生ともなると村人総出で教会の飾り付けをしていたものだった。その時は村の青年男女が教会に集まり、男は山に杉の枝を採りに行き、女子は色付けした紙花作りに忙しかった。杉の枝は長い縄に捲きつけて女子の作った紙花を所々にくくりつけそれを天井一杯に吊るして飾った。祭壇の両側には椿の木を立てかけて赤い花で飾った。教会の門には大きな杉の支柱を立て、十字架を刺繍した大きな旗を掲げてなびかせた。

 参加する信者は主任教会の仲知は勿論、米山、江袋、赤波江から船を仕立てて波を切ってミサ拝みにやって来た。それを目当てに津和崎あたりから駄菓子など積んで出店を広げる者もいた。これも、数年に一度であったが聖体行列も盛んであった。この時ばかりは近隣の島々から異教徒の人たちも見物に集まった。

―結婚と自立

 結婚適齢期になると男は先ず相手の女性の意志を確かめた上で、親戚代表に許しを乞い、仲人を決めてもらう。仲人を通して相手方両親に嫁貰いの話をすすめてもらう。両親はその縁談を受けるとしても、承諾するには親戚代表の了解を得なければならなかった。それらの手順を済ませて話がまとまると、教会に届けを出す。教会は3週間にわたって説教台からそれぞれの名前を披露して、かれらの結婚に支障あるや、なしやを信徒に問うために広告を出す。その間、結婚のために公教要理を学び初めて結婚が許された。

 結婚して独立すると「世別れ」といってここでも親戚代表立会いのもとに畠の分筆が行われていた。しかし、何しろ小さな島の僅かな畠で分筆するほどの畠もない家庭では共倒れを防ぐために若い夫婦は出稼ぎに出るようになった。

―風紀

 男女の風紀は殊更に厳しく、夏場の暑い盛りでも、男女一緒に海水浴することは許されなかった。昼間泳ぐのは男性だけで、女性が泳ぐのを許されるのは夜だけであった。その時は男性たちは海岸に近づくことすら許されなかった。

 夏の泳ぎだけでなく、若い人だけで例え昼間であっても2人だけで立ち話さえ許されなかった。常に男性と女性は分断されて公の仕事でも男女の役割があって、青年たちは自分の家の仕事以外に村船の管理を課せられ、また、海岸の石垣つくりなどの力仕事も彼らの役割であったが、女性が手伝うことは許されなかった。女子が日曜日に働くことの出来るのは宿老の許しを得た麦搗きのときだけであった。
 
 
 
 
 

思い出(2)、野首で過ごした少年時代

    野首出身 白濱清太郎
 
 

2000年5月3日、20年ぶり帰郷した白濱清太郎氏
野崎島の港から教会までは徒歩で約20分程度であるが、山越えしなければならない。この写真は丁度山越えて野首が見え始める地点である。
写真は深堀在住の岩崎スミさんより提供

 
 

 かつて野首は戸数30戸位の集落で、半農半漁といっても畠は石ころだらけの痩せ地で耕作地も狭く、イモを掘った後に麦を植え、刈り取った後にイモを植える有様でした。漁業といっても防波堤もなく伝馬船はその都度丘に引き上げ引き下ろし、イカ漁だけが唯一の収入源で貧しさを絵に書いたような暮らし。昼食後お告げの祈り、子供たちは学校から帰ると教会周辺のマサキの枝に腰掛け、蝉の鳴き声に負けないように公教要理の復習に声を張り上げていました。

 公教要理の宿題を覚えていないと正座している膝の上に竹の鞭が振り下ろされ、罰として夕ご飯を抜くように言われそれは忠実に守っていた。

 当時1番怖かったのは伝道士さん、それから学校の先生、次が父親だった。村は一日中あちこちより牛の鳴き声、人々の笑い声、声高の話し声など静寂な環境の中でも本当に賑やかな毎日であった。

 巡回教会だったため2ヵ月に1回くらい仲知より神父さんが賄いさんを同伴させて3、4日滞在していたが、神父様が聖書を用いて教会の周りをぐるぐる回りながら黙想されているため、神父様滞在中は村の中はひっそりとなりをひそめ静かな日だった。その折は村人全部が告解を済ませていた。

 いくら農繁期でも日曜日は休みで、特別雨が少なく芋植など急がなければならない時などは、宿老さんが後日神父様の了解をとるということで休日にでも教会でロザリオ、十字架の道行きなど済ませた後芋植えなどすることもあった。
 ロザリオの月など仕事を早めに切り上げ、ほら貝を合図に村人は教会に集まりロザリオの後夕の祈りなど唱え家路についたものです。

 堅信式の時には仲知の家に合宿し司教様を迎え堅信の式後、仲知修道院のシスターがラシャの布に刺繍したハタを頂きなんか急に大人になった気持ちで嬉しかった。
 

1971年7月に野首教会で行なわれた堅信記念写真
 

あれからどれくらい経っただろうか。都会に出て72歳を迎え、教会へは日曜ごとごミサに参加しているもののただ漠然とご聖体を拝領するだけで、キリスト者としての道を歩いているだろうか。

 現在、都会にあって何の不自由もない贅沢な暮らしに溺れかかって先祖が貧しさに耐え、命を賭けて守り抜いた宗教を余りにも疎かにしていないだろうか。この当たり前の暮らしさえ出来ず電話、電気、水道すらない、急病人が発生しても海が時化るとお医者さんさえ迎えること出来ず、もし迎えても健康保険すらなく即借金となって貧しさに耐えねばならなかった。

 そんな中にあっても自給自足で耐え、神を賛美し来世の幸福を信じながら経済成長の波に押し流され、心の証しであった天主堂や先祖の眠る墓地すら残して150年の村の歴史を閉じあれから30年になろうとしている。
無人の里に残された天主堂も修復され県文化財として残ったものの、堂内は清掃されることもなく吹き込んだ砂埃を仲知小教区の方々が見るに見かねて清掃掃除をされたと聞く。

 もう二度とこの天主堂に賛美歌の流れることもなく、ロザリオを唱えることすらないだろうと思っていた矢先今年の復活祭には仲知小教区の百数十名の信者さんが訪れ清掃してごミサを捧げて頂いた由、30年ぶりにご復活のミサが無人の里にて荘厳な歌声が響き渡ったことでしょう。この話を聞いた時に嬉しさと感動でその情景に涙が溢れる思いでした。

 この天主堂も2008年、いまから7年後に築後百周年を迎えようとしている。果たして、誰が百周年のお祝いをしてくれるだろうか。もし、足腰が立ったら一人でも無人の里に足を運び先祖の偉業を称えたい。

 人去って30年にして天主堂内に賛美歌が流れ、ごミサの祭典をあげて頂いた下口神父様をはじめ小教区の信者さんに心よりお礼の言葉を申し上げたいと思います。
どうぞ、仲知小教区の皆さんの上に神の豊かなお恵みがありますよう心よりお祈りしてペンをおきます。

北九州市カトリック黒崎教会所属
白濱清太郎
 

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