イグナチオ・浜田 朝松師


思い出(3) 上中五島地区連合青年運動会の思い出
        野首教会出身 岩崎スミ(旧姓白濱)  
 
20年ぶりに帰郷した野首出身者達。
左より二人目が岩崎スミさん、三人目が楠本キヨ子さんのお姉さん。写真は岩崎スミさんより提供していただきました。

 編者は5月20日、長崎県小浜町雲仙のメモリアルホールで行われた第18回雲仙殉教祭に初めて参加したが、その時たまたま一緒にマイクロバスに同乗しておられた野首教会出身の岩崎スミ(67)さんから、昭和26年頃鯛ノ浦で開催された上中五島地区連合青年運動会で、野首教会の応援歌として歌われたという野首数え歌と野首小唄とを教えていただきました。彼女とはそのときが最初の出会いでしたが、その頃はまだ「仲知小教区史 姉妹編」の編集作業をしていたので早速野首のページに載せて頂くことにしました。

 この応援歌は野首で当時学校の先生をしていた未信徒の浦道義・千鶴子夫妻が作詞、作曲したものである。その頃の岩崎スミさんは野首の教え方をし始めたばかりの時で、自らも野首の青年として運動会に参加しこの応援歌を大声で歌った。浦先生のお陰でこのときの野首青年団は応援合戦の部で優秀な成績を納めたそうです。
 
聖ヨハネ五島殉教記念運動会 1997年5月
大漁節を披露する米山教会の子供たち

 現在の野首はダム工事でかつての豊かな自然の風景が失われているが、少なくともこの歌が作詞された頃の野首は海は青く、山は緑に包まれている豊かな自然環境であった。そのような恵まれた自然環境の中で、村人は煉瓦造りの美しい天主堂をいつも見上げながら神を賛美しつつ芋畑を耕し、イカを捕り平和な暮らしをするという信仰共同体を形成していた。
 

野首数え歌

作詞・作曲 浦道義・千鶴子

一つとせ 人も知るしる野首村・・・・・・ 野首村
       緑の松原 白い浜・・・・・・・ 白い浜
二つとせ 二つの灘に挟まれて・・・・・ 挟まれて
       東平戸に西小値賀・・・・・・ 西小値賀
三つとせ 南船森 北野崎・・・・・・・・・・ 北野崎
       真中占める野首村・・・・・・・・野首村
四つとせ よそには見られぬ味がする・・味がする
       ツワの味噌づけジャガ煮物・・ジャガ煮物
五つとせ 今も昔も変わりなく・・・・・・・・・変わりなく
       二半岳には椿咲く・・・・・・・・・・椿咲く
六つとせ 向こうの小山は春がすみ・・・・・春がすみ
      うぐいす来て鳴く天主堂・・・・・・天主堂
七つとせ 灘は荒波高くとも・・・・・・・・・・・高くとも
       若者何時もイカ引きに・・・・・・イカ引きに
八つとせ 山は錦の衣を着て・・・・・・・・・・衣着て
       鹿が出て鳴く野首村・・・・・・・野首村
九つとせ 今夜は十五夜よい月夜・・・・・・よい月夜
      芋切る乙女の手が冴える・・・・・手が冴える
十とせ  永久に栄える野首村・・・・・・・・野首村
      サンタ・マリアのお恵みで・・・・・お恵みで

20年ぶりに帰郷した野首出身者たち
野首の数え歌を作詞作曲いた浦千鶴子先生は前列左より二人目。
写真は岩崎スミさんより提供していただきました。
 
野首小唄

作詞・作曲 浦道義・千鶴子

1、ハァー松の緑に照り映える聖堂
      神の御旨に抱かれてそれ抱かれて
      野首よいとこ住みよい村よ
      ヤンデ ヤレソレセッコラセ ソオイナ―
2、ハァー夜はしじきの沖合い遠く 
      漁どる若人腕が鳴るそれ腕がなる
      野首よいとこ住みよい村よ
      ヤンデ ヤレソレセッコラセ ソオイナー
3、ハァー旅は道ずれこの世は情け
      持ちつ持たれつつ暮らそうよそれ暮らそうよ
      野首よいとこ住みよい村よ
      ヤンデ ヤレソレセッコラセ ソオイナー

 現在は野首出身者であってもこれらの歌を全部歌える人は数える人しかいないというのが現状である。だからここに記録として保存することに意義があるといえるが、機会があるならばこの歌を岩崎さんに動作をつけながら歌ってもらい当時の野首信仰共同体の素晴らしさを今一度再現してみたいものです。それは無理なことでしょうか。

思い出(4) 平戸市長 白浜信氏
 
白濱真現平戸市長

 仲知地区にキリスト教が発芽して成長し、200年を迎えられたことは誠におめでたく、心からお祝い申し上げます。

 聖フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、初めて日本にキリスト教が伝来されてから、450年を迎えようとしています。上五島の歴史は、厳しい弾圧と迫害に遭遇し、信仰を守るため長崎、外海地区から安住の地を求めて移住したことに始まり、今日まで信仰が脈々と息づいております。

 上五島地区には教会が多く青砂ヶ浦教会付近から津和崎に至る道路は、尾根を通っており、大変見晴らしがよく、移動するたびの光景は、青い海、緑の山々そして色彩豊かな教会が調和し、旅する人に安らぎと感動を与えてくれます。その反面、それぞれの教会はキリシタンの苦難と喜びを刻み、信仰を守り貫いた証しの象徴的な存在でもあります。
 
海上から眺めた赤波江付近の風景
海上から眺めた一本松。
海岸近くには唯一地元の産業である定置網が仕掛けられている。ここの定置網では季節の魚が捕れるが、11月末からは黒鯛のシーズンとなる。
仲知滞在の7年間この美しい海岸線に沿って散歩とミズイカ漁を楽しんだ。散歩は昼も夜もし、ミズイカは夕方から夜の8時くらいまでしていたが、よく釣れるので地元の人は「昨夜は何匹つれたのかでなく、何キロ釣れたのか」と聞くのが普通であった。
小生の場合、約2時間くらいで、5キロから10キロばかり釣っていたが、最高に漁をしたのは約4時間で30キロであった。
土地の人はミズイカ漁を鮮魚で漁協に売って副収入にしている。
ああ、今では想い出でしかない。残念である。
海上から眺めた米山と津和崎集落
赤波江から眺めた野崎島
山が白く見えるのは瀬戸脇の集落跡でかつての畑がそのまま保存されているためである。
一本松からの夕日

 私が一時所属していた野首へのキリシタンの来島は、大村藩と五島三井楽から移り住んだ2家族が先祖と聞き及んでおります。野首の住民も同様に信仰に支えられ、懸命に働いたと言われておりますが、この島は田んぼができないばかりか、土地も痩せており、浜に打ち寄せるホンダラを拾いそれを肥料とし、麦、馬鈴薯、人参などを耕作して生計を立てていたと言われております。

 一番栄えた時期では、32戸だったと言われており、このような状況の中で、明治41年には離島の小集落としては、贅沢なレンガ造りの教会が鉄川与助氏を棟梁として建てられました。この赤いレンガの教会は、祈り、喜び、悲しみ、そして出会いの場として機能を果たしてきましたが、社会構造、産業構造などの変化により、離村を余儀なくされ、最後まで残ったのが赤いレンガの教会だけでした。この教会も管理不十分なため、崩壊寸前となっていましたが、鉄川与助氏の末裔の三代目社長のご尽力により、見事改修されたのであります。修復された教会は、鮮やかなステンドグラスに彩られ、野崎島を訪れる人々の目を楽しませ、遠いキリシタン信者の生活に思いを馳せる貴重な文化財となっております。

 私は、父が野首出身だったので、終戦後の昭和23年3月台湾台北市から引き揚げてきました。その当時、野首教会には浜田朝松神父様がおられ、敗戦で意気消沈している私たち家族を温かく迎え入れてくれたものでした。野首は日本ではじめて暮らしたところであり、大変思いで深いところであります。

 日本に帰って非常に感動的であったのは、雪が降り、雪の美しさ、不思議さに接した時でありました。台湾では高い山でしか降ることがなく、また、その当時はテレビもない時代でしたので雪というものを全く知らなかったのです。私が母に「雪ってどんなもの」と聞くと、母は「砂糖みたいな白いものが空から降ってくるものよ」と言ったが、今、思うと私を理解させるためには的確な表現であったと思っております。

 野首での生活はわずか2年でしたが、主食としての「コメ」が「サツマイモ」へ「電気」が「カンテラ」に「水道」が「井戸水」に「靴」が「藁草履」への変化は、私にとって大変なカルチャーショックでした。その反面、魚釣り、艪こぎ、泳ぎ、木登りなど自然の中で生活の知恵を学んだことは、私の財産となったのであります。

 また、先祖が厳しい弾圧を受けたにも拘らず耐え忍び信仰を守り貫いたことを直に親戚の老人から聞き、信仰を守る厳しさと人間の強さを子供ながら感じたものであります。先祖がキリシタンということで、封建時代に受けた迫害や殉教という苦しみは、離村を余儀なくされました。その末裔は、時代においても信仰を遺産として受け継ぎ、今も守り貫いております。

 私は2年前から平戸市長に就任しておりますが、平戸市内約3000人の信者の皆様から温かいご支援をいただきながら、信者の1人として犠牲を惜しまず、驕ることなく、職責を全うしているところであります。

 終わりに、仲知小教区がこの200年を契機に更に大きく発展されますことを祈念し、併せて皆様のご健勝とご多幸をお祈り申し上げお祝いのことばといたします。

「仲知小教区史」より引用
 
 
 

 

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