ペトロ・佐藤 哲夫師
 

1979(昭和54)年〜1988(昭和63)年


 第13代主任司祭ペトロ永田静一師は、特に、教会建築の点で大きな業績を残されたが、昭和54年8月、不幸にも病に倒れ、教会司牧の第一線を退き、長崎市三ツ山町の老人ホームで療養されるようになった。同年12月永田師の親友であられたペトロ佐藤哲夫師が第14代の主任司祭として着任された。

 師が着任された昭和54年頃は、いわゆる高度成長による人口都市集中化と地方過疎化現象により、仲知小教区の教勢は目に見えて減少し、昭和46年に1138人いた信者が、昭和54年には864人になっている。毎年春、中学を卒業した若者が、県外へ集団で就職するだけでなく、働く場所を求めて都市へと移住する家族も続出した。過疎現象は、幼児の出生数にも影響し、仲知青空保育園は、定員数60名を昭和52年から45名に変更している。

 このような状況の中でも、師は、信者の信仰生活を、自ら手本を示しながら教え導かれた。また、信者に度々、司祭、修道者への召命を呼びかけ、師の導きにより、教区司祭への召命は言うまでもなく、男子修道会では、神言会や聖母の騎士修道会などに入会を希望する者、また女子修道会では、お告げのマリア修道会、宮崎カリタス修道会、扶助者聖母修道会などへの志願者が続出し、長い休暇で帰郷すると、神学生、志願者全部合わせると20人を越える状況が続いた。
 

宮崎カリタス会での誓願式

 その頃は、どこの小教区でも召命の減少で悩んでいただけに仲知小教区の召命の豊かさは、長崎地区でも話題となった。

 また、正月ともなると、休暇で里帰りのシスター方が持参した手みやげで、司祭館の食堂は、いっぱいになり、司祭召使の促進に役立てばという思いでその手みやげはすべてミサ奉仕者にプレゼントされた。

 着任後の最初の行事は、上五島地区主催の行事として、地元出身島本司教祝聖祝賀会を昭和55年4月29日、仲知公民館で行った。
 

 その後、小教区の事業として、仲知教会前庭の横に鐘楼を新設した。

 当初は、入口勝師の時代に木製から鉄製に造り替えられて旧修道院前庭に設置されていた旧鐘楼を移転する計画だった。ところが、建設されてそれほど年月も経っていないのに、旧鐘楼は潮風にさらされていたためか、さびで腐蝕がひどく鐘楼も鐘も新しく造ることにした。鐘楼の建設は、上五島町青方の佐野鉄鋼所に依頼し、鐘の製作は佐藤師の従兄弟にあたる西田勳氏(長崎市)に依頼した。(建設費は150万円)
 

仲知教会鐘桜

 この行事に並行して、入口師の時代に旧教会の前庭に設置していた聖ヨハネ五島像を教会入口に移転した。この移転工事においては、師は御像前を通行する人の目につきやすいように工夫されて、台座を高くすると共に、その周囲は長崎の庭師に依頼し、米山産の自然石で造園されている。聖ヨハネ五島像は、右手に十字架を、左手に聖書を持つ和服姿で、顔は天国を見つめる姿を表現し、台座中央の大理石に「この世は一瞬にして過ぎ去るもの、天国の永久の幸いを願いましょう」と聖ヨハネ五島の最後の言葉が刻まれている。
 

聖ヨハネ五島像

 翌年(昭和56年)から昭和58までの2年間に師が仲知小教区内で果たされた仕事を調査してみると、仲知教会にファチマの聖母と羊飼いの像を、江袋教会、米山教会、赤波江教会には、それぞれ聖像を建立し、信徒と県内外からの巡礼者が聖人と聖マリア像を仰いで、その尊い生涯に倣うことができるようにしている。

 しかも、その資金の大部分は、日曜労働謝礼金を充当していて、信徒の負担を軽くしている。その頃までは、巻き網船に従事している信徒が多く、一年には相当額の収入があった。その収入を、信徒の信心高揚のために使用したところに、師の聖人や聖マリアへの信心の熱意の一端がうかがえる。
 

「ファチマの聖母と羊飼い」の建立

 昭和56年2月25日は、教皇ヨハネ・パウロ2世が長崎を来訪され、翌日、長崎松山競技場で、野外荘厳ミサが行われ仲知の信者も30人ほど参加した。師は、このご来日を記念し、仲知教会の前庭にファチマの聖母と羊飼いを建立した。
 
 

来崎されたヨハネ・パウロ二世

その由来は次の通り

 ポルトガル国ファチマ村にルチア(10才)、フランシスコ(9才)、ヤシンタ(7才)と呼ばれる3人連れの羊飼いがいた。1917年5月から10月にかけて、毎月13日正午、聖母マリアが彼らの前にご出現になり、祈りと善業と生活の改善とを勧告された。

 ポルトガル全国民は、この聖母マリアのメッセージに心を打たれ、宗教生活の高揚に励み、世界中の信者もこれに和して神への道を精進している。ここに展示されている場面は、牧場のかなたの澄み切った青空を背景として、ひいらぎの木の上に雲があらわれ、その上に聖母マリアがお立ちになっているところを表している。
 
 

聖心像の建立と江袋教会創立100周年行事

 昭和56年は、江袋教会創設100周年の記念の年であった。主任司祭の佐藤師は、百年祭推進委員会を発足し、会合を重ねる中で、記念祭は同年の11月8日、長崎から里脇大司教を招いて盛大な式典にすることを計画。その記念事業として、記念誌の出版と教会の前庭に等身大の聖心の像を建立することを決めた。

 記念誌の発刊は、委員全員の希望であったが、聖心像の建立については、師自ら、その計画を打ち明けられ、全員一致で了解された。そこで、師は早速聖心像の製作を長崎市の中田秀和氏に注文。その聖像は、白い長衣を肩からまとい、両手を広げ、仁慈と赦しと愛に満ちているイエズスの聖心を表現した傑作。費用の150万円は、師が調達している。

 ところが諸種の事情で、記念祭の期日が翌年の3月24日に変更された為、御詫状は云うまでもなく、招待状も2度出された。その間、責任者であった師の心配、苦労は並々ならぬものがあった。式典は里脇大司教の司式で、昭和57年3月24日に堅信式をかねて行われた。

 100年の歳月を経た江袋の古い教会には、出身司祭、地区司祭、修道女、受堅者とその父母、信徒が集い、感謝の賛歌に天井も壁も揺れ動いた。感謝のミサの後、聖心像の祝別式と里脇大司教と司祭団による餅まき、祝賀会が行われた。

 こうして、師は、江袋の信徒と一致団結して、記念式典を成功させた。
 
 
 

聖ヨゼフ像と聖アンドレア像の建立

 翌年3月25日からは、贖いの特別聖年の年が始まり、上五島地区では青砂ヶ浦教会と鯛ノ浦教会が、聖年巡礼指定教会となった。

 特別聖年を記念し計画された事業は、米山教会と赤波江教会に、両教会の守護の聖人である聖ヨゼフ像と聖アンドレア像を建立することであった。

 中田秀和氏に注文していた聖像が届くと(同年7月)直ちに着工。赤波江教会の聖ヨゼフ像の基礎工事は、赤波江松市氏、仕上げの工事は、上五島町奈摩の左官に依頼し、総工費115万円であった。師は、赤波江教会での日曜日のミサの中で聖ヨゼフについてふれ、「祈りと労働のかくれた生活で聖家族を支えられた聖ヨゼフの御助によって、信心深い一生を送り、天国の永遠なる福楽に至るよう努めよう」と信徒を激励し、ミサ後に祝別式がとり行われた。
 

聖ヨゼフ像

 一方、米山教会の守護の聖人、聖アンドレア像建立は基礎工事を地元の信者畑山春雄氏に、仕上げの工事を上五島町奈摩の左官に依頼。総工費130万円のうち、基礎資金の25万円は、信徒が協力している。

 この聖像の製作は、旧教会に安置されていたアンドレア像をモデルとして注文したもので、漁師であった聖アンドレアを表現。台座中央の大理石には「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」とのキリストの言葉が刻まれている。
 

聖アンドレア像

 このように師の8年間の司牧の前半の4年間は、守護の聖人や聖マリア信心への熱意がひときわ輝いている。今では守護の聖人への崇敬はなくなっているが、昔はどこの教会でも、日曜日に準じて仕事を休み、全信徒が教会に集まりミサにあずかっていた。

 米山教会でも聖アンドレアの祝日になると杉の葉などで聖アンドレア像を飾り、喜び祝うという習慣が昭和40年頃までは続いていたという。
師は被爆者の一人で、永田師と同じように健康には恵まれていなかった。しかし、若い司祭以上の活動をしている。
 


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