信徒の生活

農業

明治の末から昭和の初めにかけて仲知で働かれた中田師、永田師、中村師の3人の司祭いずれも地元の宿老、教え方に助けられて司牧を順調にすすめて来た。その司牧の前提となるものは信者の生活である。

この頃までは自給自足の時代で、多くの信者は、多くの子供を産み育てながら、半農半漁の生業に打ち込んでいた。女は乳飲み子を背負って一日中働き、夕べには少し早目に仕事を切り上げて家に帰り、急いで夕食の支度をした。男は昼は畑を耕し、夕べには海で漁をするなど、休む暇もなく夫婦共に働きながら日々の糧を得ていた。農・漁繁期には子供も含めて全員の共同作業であった。子守りなど雇えるはずはなく男女を問わず子守役は順番に子供たちの肩に回ってきた。

田は江袋と仲知の一部(島ノ首)を除けばどこもなく、畑作が主流であった。しかもどこの集落もほとんど平地などは見られない。やせこけた小さな段々畑が海岸から山の頂点近くまで並んでいる。このようなやせ地を耕作して生活しなければならなかった。江袋と島ノ首には唯一、田もあったが、ほとんどが小作地だった。それに一年がかりでやっと収穫した稲束も、どこからか地主が来てごっそりその稲束を積んでもっていく。しかし、それも地主の土地を借りての稲作だからやむを得ないことだった。農作業がまた大変だった。

動力は田畑を鋤き耕すための手以外はなかった。道具は、幾種類かの鍬と鎌、運搬具は「エ一」とよばれる木製の背負うものと「担い棒」と呼ばれる肩に担ぐ天秤棒であった。「エ一」では主に芋とジャガイモを「かがり」と呼ばれる藁(わら)で編んだザル型のものに入れて運び、「担い棒」では、下肥を長い紐付きの木製の肥桶に入れて両端にぶら下げて運んだ。こんな状態での畑と田の作業は文字通り一年がかりの作業だった。

豊富な農作物
 

農業で代表的な作物は芋と麦である。芋は麦と並んで主要作物で、この地方の最適品種として収量も多く、主食として利用された。10月は芋の収穫の時である。掘るのも運ぶのもみんな体を使う。掘った芋は、「かがり」で家に運び芋釜に収めた。五島ではこの芋が毎日の主食で必要なだけ出してきて桶でよく洗い、鎌に入れてふかして食べていた。余った芋はカンコロ用に回される。カンコロ鉋」で細かく削ったカンコロは、自家製の「カンコロ棚」に干し、乾いたら貯蔵され、現金収入にもなった。芋の収穫の後は麦を蒔き20cmばかり成長すると繁殖を促すために足で踏みつけていた。5月の下旬から8月にかけて収穫された小麦の束は家に持ち帰り自家製の麦すき機にかけた後、箕で麦ぬかを取り去っていた。その後、挽き臼で粉にし、8月15日の祝い日には、「膨れ饅頭」を作っていた。
 
 

カンコロ棚の干している湯でカンコロ カンコロ餅つくり風景

家の回りの畑には四季折々の野菜を作っていた・白菜、大根,キャベツ、人参、ごぼう、里芋、とうもろこし、キュウリ、かぼちゃなど、年中新鮮な野菜が畑から食卓にのぼった。大根は芋と同様大量に作られ、切り干し大根や漬け大根にするなど貯蔵がきく貴重な副食源であった。作物の肥料は、牛小屋から採れる堆肥、下肥、藻であった。特にこの地区では藻は畑の肥料として欠かせないものだった。仲知では冬季、西海岸に打ち寄せられた藻を競って採取した。また、西側海岸付近を遊泳する藻を小舟で取りに出かけたりしていた。米山では年に一度藻引きが解禁されると一斉に伝馬船で2本の竿を使って藻を引き、海岸に干して乾燥させ必要に応じて使用していた。大正中頃になって化学肥料が出回り販売されるようになったが、当時はかなり高価であったために仲知地区のどこの農家でも藻が肥料として使われていた。しかし、江袋では大正の末期から、田に化学肥料を使用していた。
 
 

最近では牛を見かけないが、仲知地区では早くから牛が飼われていた。それは大事な肥料の供給源だった。牛小屋の下敷きにした麦わらを牛小屋の片隅に積んでおいて堆肥にしていた。また畑の耕作の原動力だったし、1年か2年に一度生まれる子      牛は、まとまった現金収入となっていた。しかし、そのための1年中の飼料の確保は大変だった。ほとんどが天然の青草や芋ずるの干草だったが、飼料の確保に近くの雑草を刈ることは子供たちの仕事の1つだった。
 
 
 

その(2)

 
 
 
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