漁業
 

新魚目町海域は漁業資源に恵まれ、古くから捕鯨、鰯網漁が盛んに行われていた。鰯網漁はこの地区では、明治末ごろから池島の西村という方が高峰鼻(江袋)で営んでいたという。

しかし、信者は農業が主で漁業は副業としていた。ところが40年頃鰯刺網漁が曽根から小値賀にかけての西海岸の近海で盛んになり、漁獲漁も増加した。

初めは漁業者の事業であったが、農民でも資本家に頼って経営する者が多くなり、明治40年には小値賀全域では225艘にもなっている。
江袋でも3艘、仲知でも5艘ばかりあった。出漁期は1月から3月までで、胴幅7尺から8尺型の舟に6,7人が乗り組み、櫓(5丁だて)や帆を頼りに津和崎と小値賀の中間くらいの漁場に出漁し、捕れた魚は小値賀の魚市場に出荷し、網に刺さった鰯は、それぞれの港に帰ってからはずしていた。

江袋の場合は船が入港したら、ドラム缶を鳴らして入港の合図をし、留守番の女達を浜まで来させて除去作業をしていた。薄暗い石油燈の下で、寒空ながらも活気に満ちた作業風景で、はずした魚はそれぞれ分け合って家で食べていた。

仲知では捕れた魚は、主に肥料用に供されていた。真浦の浜で製造し、製造過程に出るしめ汁を、濃厚な窒素肥料として業者に販売し、そのかすは自分たちで麦類の追肥にそのまま施し、おかげで麦類はかなりの増収になった。

この鰯刺網漁は、一時は江袋や真浦の浜に居酒屋が3,4軒立ち並んでいたほど盛況であった。しかし、大正5,6年頃より不漁続きなり、ついに借金がかさみ、転出した信者もいる。いつの頃か定かでないが小値賀の大島付近で、鰯刺網漁をしていた江袋と仲知の漁船が時化にあって遭難し、多数の死者が出るという不幸な事件もあった。

いか釣り
 
 

いか釣りは、だいたい年に2回の漁期があった。それは夏いかと冬の松いか釣りである。夏いか釣りも松いか釣りも水や食糧を積み込んで対馬まで出かけ漁期が過ぎるまで2ヶ月も3ヶ月も帰らない信者がいた。

しかし、夏いかは東海岸の近海でも釣れていたので小瀬良、大瀬良,赤波江、一本松、米山、瀬戸脇、野首の信者の多くは、夕方出漁し朝帰っていた。江袋と仲知の信者は漁場が遠いので釣り舟をヒビの首と一本 松において出漁していた。

夏いかも松いかも毎朝家まで生の まま持ち帰り、家族中で腹を裂き、家の回りに幾重にも張り巡らした縄にかけて干した。天候が悪い時は、お尻を腐らせないために室内に干し、直径1米くらいの竹の輪を5,6個紐で等間隔につなぎ、「囲炉浦」の火をどんどん炊いてくすぶらせ乾かすのだった。

当時のするめは高価な商品だった。するめが干し上がるまでには2、3度、するめの形を整えなければならず、胴体を広げ、両耳をよく伸ばし、くっついている足一本ずつ分け離し、最後に何枚か重ねて、全体重をかけて踏みつけて平たくし、仕上がった製品は問屋に納めていた。

その他の漁
 
 

鰯漁といか釣り漁の他、鯛の延縄漁、鯖、エソ、クサブ、イサキ、など一本釣りも古くから行われ、農民の収入源の一つとなっていた。特に、瀬戸脇の信者は半農半漁の生活で農業のかたわら、時期に応じて、いろいろな種類の漁業をし、捕れた魚は小値賀に出荷していた。小値賀はずいぶん昔から大阪、博多と交流があって商工業が発展していた。明治の後半には小値賀、早岐間に定期航路が開設され、汽船の就航に伴い防波堤が築かれ大正時代に入ると,運搬船や漁船の入港も相次ぎ栄えていた。大正年間の中知は、現在のように道路が開けていなかったこともあって、小値賀とは経済的な交流があった。病院に行くにしても、そうめん、粉、砂糖などの食料品や日用品の買出しにしても小値賀が便利であった。
 
 

その3

邦人司祭のページに戻る
inserted by FC2 system