パウロ 田中 千代吉師

1956(昭和31)〜1961(昭和36)年


仲知伝道学校 (昭和31年7月)

 田中師の着任早々の仕事は、6つの信徒集落から選抜された仲知小教区女子部の教え方志願者6人を2年間指導することであった。毎日の指導は師自ら行い、かつて青砂ヶ浦伝道学校の卒業生である真浦キクが礼儀作法を教えたり、雑務などをして奉仕した。この頃、伝道学校の建物はなかったので、仲知集落の「稽古部屋」で授業が行われ、彼女等の食事と宿泊は仲知修道院でお世話してもらった。2年間の養成を受けた6人は、それぞれ教え方として地元の集落で教えた。
 

伝道学校謝辞
  昭和34年 卒業生代表

 私どもの敬愛、愛慕する田中主任司祭や先生、各父兄、各郷総代、そして此処にご参列の皆様今日、皆様方の晴れやかな顔をみるにつけて私どもの小さな胸は鼓動がいやが上にも高鳴るのを感ずるのでございます。

 顧みますれば今から半年前、私どもが皆様に伴われて仲知伝道学校に参りまして、学びの庭に培われるようになった時は、春も半ばでした。それから夏も過ぎ、秋も深くなりやがて冬がやって参りました。今日早くも、6ヶ月の短期間は夢の如く過ぎ去って卒業となったのでございます。

 半年前を振りかえってみますれば、私どもは何の教養もない、食前食後の祈りすら、まともにできなかった田舎娘でございました。その田舎娘が半年後の今日、皆様に向かって訥弁ではございますが、一言のご挨拶が出来るまでになりました。それも一重に神父様や先生の熱心なご指導の賜物でございます。

 それにしましても、神父様や先生方のご辛苦は私がいろいろ語るよりも、皆様のご明察に任せた方が余程わかり易くもあり、又、賢明な処置かと存ずる次第でございます。
只、私どもがこい願ってやまないところは、私どもに代わって父兄方から厚くお礼申していただきとうございます。

 本当に私どもは幸いにして立派な指導者に恵まれました。第一、私どもの神父様はいさぎよいイエズス様の使徒として卓越した見識を有し、無知蒙昧な私どもを「世の光、地の塩」となるべく温かいご指導をいただきました。

 私どもが最初天主様にお招きを受けて、この仲知伝道学校に参った時は礼儀作法一つ知らない田舎者でしたが、そんな私どもが一人前の人間となって、これから信者の人々を天主様のもとへ導き、闇から光の道へと指導する重大な任務をかせられる事になりました。

 わずか半年の間に要理を学び、修徳をつまなければなりませんでした。愚鈍な私どもがこうして卒業の栄に恵まれましたのは、神父様をはじめ今日ご列席の皆さまの温かいご支援の賜物です。

 卒業の明日から私どもは、小さく弱い者ですが
天主様のため、村人のため一身をなげうって頑張る覚悟でございます。

 次に、各郷総代、此処に御参列の皆様方、この学校に
入学しましてこの方、宿老さん方と村の人たちのお骨折りと犠牲とはいかなるものであったか、よくよく我が身に感じて、深くふかく感謝しているところでございます。

 本当にこの半年間にわたって衣食住は勿論のこと何から何まで汗を流しつくして私どもを養ってくださった結果、私どもは何も思い煩うことなく、一途に勉学と修徳に没頭できたのでございます。

 更に、昭和34年もくれんとする時、やがて布教の海に乗り出すべく、今日、首尾よくめでたく卒業を 得させて下さった宿老さんと村の人々のご恩は私どもの終生忘れえぬところで、天主様を通して深く御礼申し上げます。
各郷に帰郷の上は力の及ぶかぎり郷民のご恩に報いるために、よく働きたい一心でございます。

 しかし、なんと申しましても浅学不徳の私どもでございますれば、村の人々のご同情とご援助なくしては、到底その聖なる務めを忠実に果たすことが出来ないのは申すまでもございません。
どうぞ今までのようにお助けくださいませ。

 終わりに、慈愛深かりし田中主任神父様、先生方、賄いさん、これから暑さ寒さにご注意なさって長く現世に息永らえ何時までも私どもにご指導をお願いしまして、一同に変わり胸にみなぎる卒業の一端を述べ御礼の言葉と、お別れのご挨拶とします。
 
 
 
上五島伝道学校で養成を受けた教え方たち

 

真浦タシの賄い奉仕
 
 

 司祭も人間であるから賄いと司祭の関係もお互いにその性格、人柄、趣味、衣食住の好み、生活のスタイルなどに慣れるのに時間がかかるものである。田中師の賄いになったばかりの真浦タシと田中師とのコンビも慣れるまでに相当の時間と苦労とがあったようである。

卵焼き

 田中師の好物は魚の刺身の他に卵焼きが大好物であった。ある日、賄いのタシは神父様を喜ばせようと思って食卓を卵焼きで賑わせた。師はその卵焼きを見て素直に喜びの言葉で表せばよいのに「あぁ、今日も目玉焼きか」と心で思っていることとは反対の言葉を口にされたのである。この言葉にタシも「今日の卵焼きは格別に美味しいですよ。」と穏かな返事をすればよいものを若さのいたりでむきになり「よか、そんなら食べてもらわんでも」と食卓の卵焼きをそっくり取り上げてしまった。

家庭菜園
 

 生来、働き者のタシは賄い奉仕であってもお部屋にじっとしていることが出来ない。掃除、洗濯、食事の準備と後片付などの家事を一通り済ませると、家庭菜園の仕事に励んだ。家庭菜園には花の他にトマト、ナスビ、キュウリ、大根、ニンジンなどその時期折々の野菜を10種類くらい作り司祭館の家計を助けていた。

 昭和33年の夏のこと、その年の空豆の枝には見事な豆が鈴なりに実っていたので、それを誇らしげに眺めていると、田中師が何処からともなく現れて来て「こがんとば作ってなにになる。」と彼女をこがらかした。彼女はてっきり喜んでくれるものと思っていたのに、けなされたので怒って田中師が見ている前で収穫直前の豆の木をごっそりと根元のところから倒してしまった。

 その頃の彼女にはまだ修養が足りず、どうしても田中師の言葉に穏便に対応することが出来なかった。田中師の真意を読むことが出来ず、その言葉をストレートに受け取り怒り狂っていた。

魚釣りとナマコ、アワビ捕り

 田中師は魚を食べることが好きであるだけでなく、時には賄いのタシに伝馬船の魯を漕がせて真浦の浜近くの磯や小島付近の沿岸で魚釣りやナマコ、アワビ突きを愉しむのを趣味にしていた。この趣味を愉しむのは幾つかの条件があった。ナマコやアワビの場合、仕事を終わらせてから潮時でしかも海上がべた凪であることが条件であった。さいわいにも司祭館はすぐ海の見えるところにあったので、海上の様子は手に取るように分かっていた。しかも、真浦の浜は入り江になっているので、他の場所が少々時化ていて漁が出来なくてもここだけは漁することが出来た。
 

現在の仲知の前の海上風景 田中師の時代の仲知の浜
磯遊びを楽しんでいる仲知修道院の姉妹たち

 問題なのはナマコ、アワビ捕りの時の2人のア、ウンの呼吸が合うかどうかである。
いつもうまくいくとは限らない。艫押しは勿論タシで、箱めがねでナマコ、アワビを見つけて捕らえるのは田中師である。ナマコは砂地に生息していて見つけるのも捕るのも非常に易しい。しかし、アワビは見つけるのも簡単でないが、見つけたアワビを捕るには要領がいるばかりか、友押しであるタシの協力が欠かせない。この協力がないとせっかく見つけたアワビを捕り逃がしてしまう。

 田中師は箱めがねで見つけた獲物であるアワビを捕るために艫押しのタシに「押さえ、控えを連発する」。艫押しのタシは獲物を見ていないからどの程度「押さえ」、どの程度「控えたらよいのか」さっぱり分からない。なのに田中師はうるさく「押さえ」、「控え」を命じる。その内に、タシは例によって堪忍袋が切れて怒りだす始末。

 しかし、喧嘩をしていては獲物は捕れないことは分かっているから田中師のほうが折れて彼女にやさしく声をかけ「もう少し、魯の芯に力を入れてゆっくり漕いで下さい」としなやくものを言う。

 真浦の浜はその名の通り砂浜になっているが、砂浜と石ころの点点とする岩場のところにかなりのアワビが生息していた。だから、そんなに遠い所に行かなくても結構なアワビが良く捕れていた。捕れたナマコにしてもアワビにしても田中師はご自分が食することよりも真っ先に修道院におすそ分けしていた。

 ただ、彼の良い所は決まって修道院に隠居している姉妹を名指して「○○シスターに持って来たよ」と言って現物の大きなアワビを手のひらに乗せて誇らかに見せ年寄りのシスターを喜ばせ励ましていたことである。

 

田中師(その3)へ

 
 
ホームへ戻る                    
邦人司祭のページへ
inserted by FC2 system