パウロ 田中 千代吉師

1956(昭和31)〜1961(昭和36)年



 
 
 
 
 
 

真面目で時間を励行する田中師

 真浦タシは賄いとして田中師の一番近くにいたので、師からいろんなことを学んでいるが、その一つはミサの時間にしても稽古の時間にしても時間を励行する習慣があった。
田中師は胡椒の利いた司祭の霊的生活を確立するには、まず司祭自らが日課に従って規則正しい生活を送ることが不可欠であるとの確信を持ちそのような生活を心掛けていた。

 だから、このような時間を厳守する生活を自ら心掛けていたから「そこまでやかましく、うるさく言わなくてもよいのではないか」と思わせるくらいに、伝道学校の生徒や信徒に対しても厳しく祈りやミサの時間を守らせた。

 このように時間に厳しい方であったので、稽古やミサをずぼらする子供たちを厳しく戒めていた。

 去年(2000年3月19日)、司祭叙階25年の銀祝を迎えた仲知教会出身のある司祭は、仲知教会で行われた感謝ミサ後の祝賀会の席上で、仲知で過ごした思い出の一つとして田中師のことに触れ、あらまし次のようなことを語った。

 「彼は学校は休みでも教会学校はある日であったにもかかわらず、天候も潮時もよかったのでしょう。幼馴染の友達と2人で磯遊びをしようと伝馬船で仲知集落の目の前にある小島付近の磯に出かけた。その日は思いがけずサザエ、アワビなどの磯物が面白いように捕れたので、2人は喜びの余り大漁旗を掲げて意気揚揚と真浦の港に帰った。
 

左前の島が小島、この周辺では現在でもサザエがよく獲れる。
田中師の時代の仲知 左と同じ

 ところが、港には厳しい顔をした田中師が待っているではないか。「あなたがたは稽古があるのに何をしていたのか」と一喝されたのはやむを得ないとしても、せっかく2人が夢中になって捕った磯物はごっそり没収されてしまったとか?
 

勉強家の田中師

 田中師はつきあい上手ではなかったが、司祭の本分は「祈れかつ働け」をモットーにしていたので、歴史の勉強だけでなく、聖書、教理、霊的読書など勉強をよくしていた。生活のスタイルは極めて地味であったが、こつこつとうまずたゆまず勉強を心掛けていた。

 勉強部屋である書斎は司祭館の玄関から入ると右側の奥にあったが、賄いのタシは司祭の留守の時をねらって掃除をしていた。それで、書斎の様子もよく覚えている。書斎は書物の山であったが、これらの書物はりんご箱を本棚代わりにしてどの本がどこに置いているか直ぐ分かるように整理整頓されていた。
 
 
田中師の時代の司祭館

 一度、昭和33年の秋の11号台風で司祭館が床上浸水となり師の大切な本も水浸しになるという被害を受けたが、本の価値などにはあまり興味のないタシは本よりも畳の上に載せていた金庫が流出しないようにしっかり抱え込んでいたという。

 それでも、タシが賄い奉仕をした時は勉強家である田中師の影響と刺激とを受け、聖書とか教理について関心が芽生えていた。
年齢も23歳で人生や将来のこと、間もなく初誓願宣立するための修練のことを考えていた。

 そんなある日のこと、タシは田中師に深遠な質問をする。聖パウロの有名な言葉「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を求める。しかし、私達は十字架につけられたキリストを宣べ伝える。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かであるが、ユダヤ人であれ、ギリシア人であれ召された者にとって、キリストは神の力、神の知恵である。神の愚かさは人よりも賢い。」(1コリント1、22〜25)が新約聖書のどこにあり、どんな意味があるのかわからなかったので田中師に聞こうとしたのである。しかし、この時も田中師のしつけは厳しい。

 「日頃から聖書に親しんでいないからそんな幼稚な質問をする。私の聖書を一冊プレゼントするから大切にして毎日読み、黙想せよ。そうすると、あなたが質問した言葉は誰が、どこで、どのような状況で述べ、どのような意味があるか、少しづつ解かるようになる。聖書も、どくすっぽ読もうと努力しないで安易に答えだけを聞いても余り身につかないものである。」と
 

 歴史の研究においては資料の募集、分析、整理、年代の識別、文章にすることなど地味な毎日の研究の積み重ねなくしては何も成果を得ることは出来ない。歴史に趣味のあった田中師はこのことをよく分かっていた。聖書の勉強もこれと同じである。

 毎日の聖書読書によって私達の信仰生活は知らないうちに、み言葉によって胡椒のように味付けられていく。
この信仰の真理を田中師はタシに教えようとしたかったのではないだろうか。

質素な生活
 
 

真浦スイシスター、真浦八千代シスター
と一緒に
草刈り作業風景

 田中師は清貧の生活を愛しその通りに生きた。
イエスの言葉「幸いなるかな心の貧しい人、天の国はその人のものだから。」を有言実行した人である。

 ある日、司祭館用の庭ほうきが古くなり使いにくくなっていたので、賄いのタシは師に頼んで新調してもらおうとした。「神父様、庭ほうきを購入してください。」「どれどれ今使っているほうきを見せてみろ。」「こうなってからが強かと」と言い張ってとうとう購入してくれなかった。物は使えるまで大事にする。

 他方、祭服、祭器類など典礼で神を賛美、礼拝するためには惜しみなくお金を使っていく。これが田中師の金銭感覚であった。だから口ぐせのように「神様のために使う物には贅沢ということがないとぞ」と言っていた。
この師の清貧の思想は出身地の西彼杵郡外海町出津での生活体験があるのではないかと見られる。

 現代人は昔に比較すれば随分と生活は豊かになっている。 豊かな生活を作り出していくことは人間の権利でしょうが、人は物質的な豊かさの中では他の人の貧しさや苦しみや悲しみのわからない人間になってしまう。また、人のことばかりでなく、神のことも忘れ、無視したり無関心になったり、軽蔑したりするようになる。

 世界的に物質的に繁栄した先進国において、神への信仰心が低下している、日本の教会もその例外でない。
貪欲から解放されて自由な心で神を賛美しようと心掛けた田中師の生き様にもっと倣うことを考えるべきであろう。

思い出 米山教会信徒 山田テルノさん

 略歴
 昭和18年4月29日新魚目町津和崎郷竹谷に生まれる。
 昭和33年8月28日堅信
 昭和39年浜田缶詰会社に就職
 昭和43年5月14日結婚

―結婚の稽古が厳しかった田中師

 昭和35年11月、鯛ノ浦伝道学校卒業後、仲知西の教え方になる。教え方になった時の主任司祭は田中師であったから師のご指導を受けて教え方としての生き方を学んだ。彼女には一般的な印象として田中師は真面目で特に時間を励行することと、結婚の稽古が厳しかったという思い出がある。

 田中師の頃には結婚志願者は司祭の所で質(ただ)しを受ける前に、教え方のところで公教要理の勉強をざーと一通り学習していた。しかし、司祭の所には教え方はこれまでのように結婚志願者と一緒に行っていなかった。結婚志願者は一人で司祭館に出向き要理のテストを受けていた。

 彼女が教え方になって一番最初の結婚志願者でその準備をさせたのは実姉の竹谷ヒサ子であったが、彼女はざまに(よく)辛抱して要理を勉強し上手に覚えていたので、問題なくテストに合格し結婚できた。しかし、その後、彼女が受け持った結婚志願者の中には田中師の指導が厳しく10回くらいは司祭館に通った人も何人かおられた。

 伝道学校卒業した頃には田中師の賄いは久志の井出渕いつ子さんであったが、一度は田中師に誘われて賄いのいつ子さんと3人で仲知のすぐ目の前にある小島の周囲でクサビ釣りに連れて行ってもらったことがある。また、土曜日に仲知の教会の掃除に出かけたときなどは、いつ子さんに誘われて賄部屋で昼食をご馳走になることもあった。
また、田中師が浜脇教会へ転任になった時には仲知小教区の教え方は全員久賀島の浜脇まで見送りした思い出もある。

 

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