パウロ 田中 千代吉師

1956(昭和31)〜1961(昭和36)年



 
 
 
 
 
 
 

思い出(1)
前田家の信仰遺産
田平教会主任司祭 前田万葉
 

 少年期は、「なぜ信者にしたのか」とか、神学生の頃は「なぜ神学校にやったのか」など、親への恨みを口にしたことがあった。しかし、今は、信者であってよかった、神父になってよかった、すべては親からの最高の贈り物をいただいた、という感謝の思いが一杯です。これはひとえに先祖からいただき、代々受け継がれてきた信仰の遺産の賜物だと思っている。

 親から語り伝えられた前田家の改宗(下記参照)、紙村家の殉教(久賀島教会発行の「信仰の碑」によると、紙村ヨノの父・年松は、21歳の時、母・ヨネと4人の兄弟、4人の妹ともども久賀島の牢に入れられた。そして、3人の妹・19歳のマダリナ・ノイ、9歳のカタリナ・ソメ、5歳のナヨは牢死し、ただ今、42人の牢死者として列福調査がなされている)、白浜家の信仰(浦川和三郎著「五島キリシタン史」にも紹介されているが、野首の母方曽祖父・岩助は、平戸牢での責め苦で、手首には綱痕が死ぬまで残っていたという)等が、私の司祭職の大きなエネルギーであります。

 前田家は、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人。小金丸という船で、小値賀の六島に逃げ、住み着いた。
 

その子孫、前田峯太郎は、父・又五郎と母・ヒサの次男として、1876年7月9日生まれ、兄・竹八、姉・マサがいた。25歳の頃、「大工として、仲知の学校を造りに来て、紙村ヨノと知り合い結婚した」(父・年増談)。「大工として数回、仲知の信者の家で働く機会を持ち、幸いにも、彼らの生活状態や模範的行いに感動し、聖寵の助けもあり、教えを受け入れようと決心した」(パリミッション会のローマ本部への宣教報告書参照)。洗礼は1901年8月6日、結婚は1902年6月13日である(仲知の古い信徒台帳参照)。

 しかし、大問題がおこった。「親からはキリシタンと結婚するってけしからんと、勘当され、仲知に逃げてきたが、六島からは、峯太郎狩りといって、若い衆が10人ほど、仲知に乗り込んで来て、捕まえて懲らしめてやろうと捜し回った。しかし、仲知の人達が、芋窯や屋根裏にかくまって、助けてくれたお陰で見つからず、10人衆もあきらめて帰った。その後、仲知の人達が少しずつ財産を分けてあげて、貧しいながらも信者生活を始めた」(父・年増談)。「優秀な青年仲間・峯太郎が、親から勘当されて可哀相だから、捜しに行って連れ戻し、親と和解させようと仲知に捜しに行った」(六島での言い伝え)。「ヨノ婆さんがあんなに奇麗な人だったから、峯太郎爺さんが、仲知から帰ってこなかったことがわかるような気がする」(六島の前田家を継ぎ、現在は佐世保市天神2丁目に住む前田茂一夫婦談)。

 「島の住民、両親、妻から見捨てられ、一人子も取られたが、それでも誰も、彼の信者になるという敬虔な決心を揺るがすことはできなかった。仲間からも殴られた。しかし、彼は少しも反対者に恨みを抱かなかった。・・・・・・種々の動揺があったにもかかわらず、彼は堅固に持し、六島、小値賀の異教徒の前でカトリックの教えを力強く守った」(上記・宣教報告書参照)。
 

 峯太郎の改宗とヨノの結婚が、恋の逃避行のように語られたり、同情的ロマンチックな結婚話として語り継がれたりしているが、仲知教会の古い信徒台帳での洗礼日が、ヨノとの結婚より10ヶ月以上早かったことなどからして、パリミッション会の宣教報告書は、峯太郎の改宗が真に迫っていると思われる。もし妻子があったとしても、当時の六島の宗教事情では、パウロの特権(信仰擁護のため信者との再婚が許される)が適用され、特記すべき宣教報告となったのだろう。

 そして、何よりもその後の二人の信仰生活が、真の改宗であったことを証明している。「命がけで、しかも神様のお恵みと仲知の人達のお陰で、前田家がカトリックになったのだから、感謝のために、子供から神父を誕生させよう」と、前田朴神父ができ、そして、不肖私もこの祈りに支えられ、励まされて司祭職に召され、真浦健吾神父も三代目として頑張っている。
 峯太郎爺さん、信仰の遺産をありがとう。

(2)、お告げのマリア修道会シスター 久志ハル子
 
 

 仲知で生まれ育った時の3倍の時間を他の土地で過ごしてきました。年に一度帰省するたびに不思議な思いにとらわれます。何の変哲もない山や海、懐かしい方々の間にいるだけで心が満たされていくのです。

 幼い時の記憶を辿ってみると半分以上は教会の周辺での出来事であることに気づかされました。戦後のベビーブームに生まれて、今は日本の中に散らばっている同級生や遊び友達にとっても、またもっと昔に、或いはもっと後でここで育った方々にとっても共通する思いなのかもしれません。仲知教会の長い歩みを記念するこの機会に、ほんの一時期(1954-1962頃)ですが古い小さな教会の周りで遊ばせていただいた思い出を辿ってみたいと思います。
 


 私が小学生の頃、教会は今の修道院が建っているところにあって、その隣の司祭館、小さな河内を隔てて賄い部屋がありました。一番古い記憶でしょうか、クリスマスの頃には賄い部屋のあたりに舞台を設けて青年たちが踊りをしていたことと、松の木の切り株があったことがなぜか繋がって思い出されます。初聖体の準備のために保育園の先生に連れられて教会に行ったときのことも印象的でした。誰もいない教会で自分たちだけでいるのが嬉しいような広すぎるような・・・・・・。聖体拝領台(この模様がこけしのようだとよく思っていました)にみんなで立って、長い白い布で手を覆うと少し大きくなった実感がありました。もうちょっと成長して跪いて聖体を拝領できた時の嬉しさ。初めて味わったホスチアは思ったより味がなくて少しがっかりしたような気がします。
 

 初聖体が終わると、毎朝ミサに行くのが子供たちの務めでした。教え方さんに「ミサのときはよそ見や手混ぜはしないように」とよく言われたのですが、「おしゃべりはせんごとするばって、よそ見ばせんでおらるっちゃろか」と思いました。聖体拝領をして大人の信者さんが拝領し終えるまでの時間はきれいな御絵を見せ合ったり、行列する人々の顔を一人一人眺めて楽しんでいたのですからそれをしていけないのならどうしたらいいのだろうか・・・・というわけです。
 
 

 学校が終わると「けいこ」。いったん教会に着くと保育園の運動場で「ドン」や石蹴りをしたり、浜に下りて貝堀に夢中で、「けいこ」の始まりの鐘が鳴るとがっかり。それでも教会の階段を下って右手にあった「クラブ」で「けいこ」は始められました。みんなでワイワイ騒いで若い教え方さんを困らせてはお仕置きを受けたり、学校の勉強はほとんどしない子が祈りやけいこはよく覚えているのにびっくりしたり、時にはまじめに要理を覚えたりたくさんの思い出があります。

 当時の主任田中千代吉神父様は梅雨時になると、手足や耳の裏の検査をして、汚れている子には司祭館の隣りの小さな流れで洗わせたり、落花生を収穫するとそれを湯がいて、子供たち全員の両手の平に一杯乗せてくださっていました。また神父様の手にぶら下がってグルーッとまわしていただくのが楽しみでした。司祭館の前の花畑は蔓バラの柵で囲まれていて、季節になってバラの花にうずまったマリア様をみて「天国はこがんところかな・・・」と思ったものでした。

 教会の庭には2列にあこうの大木がありました。地面には小石が敷いてあって、「つめきり」や他の遊びの格好の材料となっていました。特に夏の黙想の時、米山、竹谷、一本松、赤羽江、江袋、大瀬良、小瀬良、大水の人たちが集まってきて、休み時間にはこの庭で思い思いに遊びを展開していました。日頃、であうことのない他校の人たちに会うだけでかなり心が弾んだものでした。

 信仰を伝えるために辺鄙な土地に移住して開墾から始めた先祖たちの苦労を何も知らないで、のんきで楽しい子供時代を過ごさせていただいたものです。成長して全住民がカトリック信者の仲知を離れると、友達から「考え方が日本人じゃないみたいね」といわれて「じゃ私は何人?」と考えたものでした。後で「国籍は天にある」と知りました。

 長年いろいろな小教区で生活していると仲知の人々の本当の姿が見えてきたように思います。仲知の人々が困難が?教会のために経済的にも精神的にも犠牲や協力を惜しまないのは、実は深い信仰の実りだと知りました。経済がすべてに優先して精神が軽んじられている今の日本で、小さい仲知から何かを発信できるのかもしれません。この記念誌が出来あがると神様が私たちのためにどんなに細やかに配慮して下さったかを知ることができると楽しみにしています。

「仲知小教区史」より
 

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