パウロ 田中 千代吉師

1956(昭和31)〜1961(昭和36)年



 
 
 
 

思い出(3)
召出の恵みと母の教え
宮崎カリタス会シスター 谷口シズヨ
 

 

 「仲知小教区史」発刊にあたり、神の限り無い御慈しみと先人たちの強い信仰を後世に伝えてくださった仲知小教区の信徒の皆さんの生きた深い信仰を讃え、心から感謝とお喜びを申し上げます。

 「三つ子の魂百まで」と言われますが、私は仲知小教区のすばらしい環境と恵みの中で生まれ育ち、信仰の恵みだけでなく修道召命の恵みまでいただき感謝にたえません。昭和33年8月14日、今は亡き田中千代吉神父様の御在任中、宮崎カリタス修道女会東京修学志願院に入会致しました。

 今にして思えば、小学校の頃から多くの修道会のシスター方にお声をかけていただきながら、中3まで絶対修道院に行かないと言って避けてまわっていました。慈しみ深い神様は、こんな私にまで御目をとめて下さり、召命の芽生えを感じさせて下さったのです。

 6月のある日に、母に「私も修道院に行ってみたいなあ」と心境をもらしました。母は内心嬉しかったようですが、「いつでもかつでも童貞様の来るもんかよ、断ってばかりおって」と、それっきりでした。

 一人でも神様に捧げたいとこれが母の気持ちで祈り続け、機会を待っていたところへ8月にカリタス会のシスターが来られ、泳ぎから帰った私に母は弾む声で「童貞様が養いに来たけん約束ばしたよ」と言いました。半信半疑の私に、母は続けて、「嘘だと思えば明日仲知のミサに行ってみんね」といわれ私の気持ちを煽るのです。その通りでした。私自身、気持ちを決めていたので約束しましたが、出発までに一週間くらいしかなかったので、8月27日、3年間準備して待っていた堅信が気になり、終わってから駄目ですかと聞いたものの2学期の準備に間に合わないということで予定通り出発しました。
 
 

宮崎カリタス会本部聖堂

 その当時堅信組は毎日ミサにこないと堅信をさせないといわれた時代でしたし、公教要理の暗記テストは学校の勉強より真剣だった時もありました。3年間毎日江袋から仲知までの道のりをミサと学校に通い、1日2往復、特に雨風や冬の北風は身に凍みたものです。その頑張りが私の召命を生み出し、確かなものへと導いてくれたのではないかと有難く思っています。

 6才で父を亡くし、入会して2年目、17歳で母も亡くしました。その母から入会に当たって試みもあり、修道会の生活は楽ではなく、他人の集まりで難しさも多く、自分の思うようにできない事、誰とでも仲良くしないといけないなど話したあと、「行くからにはシスターになるまで二度とこの敷居を跨がないと思っていきなさい」との厳しい言葉でした。

 母の言葉通り、田舎から大都会に出た私は、言葉の問題、高校受験、母の死をはじめ、40年の奉献生活の中で幾多の困難に出会いましたが、一度も迷うことなく今、こうして私があるのは、弱く小さい者の中に働かれる神のお恵みと母の言葉、教え、祈りの模範等、大きな支えです。勿論、私の召命は私一人のものでなく、家族をはじめ、私のためにいつも祈り励まして下さっている皆さんのものであることを実感し感謝と喜びのうちに、日々の奉献を新たにしております。

 母は亡くなる年の灰の水曜日から、亡くなる年の6月20日前日まで十字架の道行きを毎日行っていたと聞き、私も毎年、四旬節になると母の祈りを思い出し挑戦しています。江袋教会では今でも毎週金曜日に道行きが続けられていると聞き、光栄に思います。3月、5月、6月、10月に毎日教会に集ってささげられるロザリオの祈りや夕の祈りも大切にしてください。

 仲知小教区の皆さんが、イエズスの聖心の愛に燃やされ、ますます信仰の輝きを増し、この信仰の灯をたやすことなく、言葉と行いを通して、キリストの愛を世に証し、神のみ国の発展のために尽くすことができますよう感謝を込めてお祈り申し上げます。

「仲知小教区史」より
 
拝啓 田中千代吉神父様  
オプス・デイ会員 F・アカソ

 天国では肝臓病で悩むこともなく、三位一体の至福直観を通して私たちを見守ってくださっていることと感謝いたします。二十六年前に長崎に来てから、数多くの神父様と付き合わせて頂きましたが、田中神父様から特に親しくして頂いたことを神様に感謝しています。

 神父様が黒島教会の主任時代、黙想会に誘われ、五日間も神父様と一緒に寝起きして、色々話してくれましたね。
私の住んでいる精道学園のすぐ近くの、三ツ山教会に着任してから帰天なさるまで、度々訪問し合い、キリシタン史の話をたくさん聞くことができました。

 出津までドライブに行ったあるとき、神父様が非常に印象深い話をしてくれました。すでに帰天していた従兄弟の浜口健市神父様とは、毎年の叙階式と黙想会で顔を合わせると、「お互い迫害者の子孫だから、がんばらんばたい!」とあいさつするのが常だったという話です。

 そして「迫害者の子孫」の意味を説明してくれましたね。神父様のひいばあさんは、三重の庄屋の娘でした。子供の時に、父親の命令で拷問を受ける三重町の信者たちを目撃しました。水攻めの拷問でも信仰を捨てず、皆殺されたのです。

 おばあさんはみんなを赦しながら微笑んで亡くなっていくキリシタンの姿を見て、納得いきませんでした。キリシタンのことをもっと知りたかったのですが、まもなく嫁にいきました。結婚してすぐ主人が死んだので、こっそりと出津教会に逃げました。ド・ロ神父様に保護され、洗礼を受け、信者の男性と結婚しました。そのひ孫が田中千代吉神父様と浜口健市神父様なのです。

 この話を聞いて初めて、迫害が過去のことではなくて、ついこの間のことだと分かりました。
島本大司教様は「宣教する教会をめざして」の祈りの中で、「二十一世紀になってからも、また新たな迫害の中に生きています。世俗化の中で(・・・)いのちの尊さはそこなわれ(・・・)自己中心(・・・)の問題に直面しています」と訴えられています。
 どうか、田中神父様、これからも私たちのために祈り続けてください。

「要理教師の友」114号より
 
歴史にたけた司牧者

パウロ・田中千代吉師帰天

 長い間、病気と闘いながら司牧に専念したパウロ田中千代吉神父が平成10年2月15日午前8時30分、入院先の聖フランシスコ病院で肝不全のため帰天された。73歳。

略歴 

大正14年1月16日、外海町出津生まれ。
昭和28年3月16日大浦天主堂で司祭叙階。
同年4月大浦司教館、
同年11月飽の浦助任、
昭和31年6月仲知、
昭和36年4月浜脇、
昭和43年3月三井楽、
昭和58年3月黒島、
平成3年3月諫早、
平成4年5月三ツ山の各教会を司牧。

 20数年前から肝硬変に煩わされる中、清貧生活と教区、小教区の歴史の掘り起こしに力を注ぎ、信徒と教区に多大の功績をもたらした。
葬儀ミサと告別式は翌16日、島本大司教司式、大勢の司祭団によって浦上教会で厳かに執り行われた。
 
 
 

 
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