パウロ 吉浦 勉師
1953(昭和28)年〜1956(昭和31)

 
 昭和28年7月、5年間の司牧を終えて西田師は教区会計の任命を受け、大浦司教館へ転任され、パウロ吉浦勉師が第9代主任司祭として着任された。

信徒規約の修正

 師が着任されて1ケ月後(8月17・18日)鯛ノ浦伝道学校で上中五島地区顧問総会が開催され、一部「信徒規約」が修正された。

当日出席者

イ、聖職者 浜田(野首)、岩永(浜串)、道向(青砂ケ浦)、川口(鯛ノ浦)、原塚(大曽)、竹山(桐)、計6名
ロ、顧 問 浜串、青砂ケ浦、鯛ノ浦、大曽、大平、桐各小教区の全顧問計28名

改正された条項

1.第12条 教会維持費は年に1戸につき最低100円、小教区費は最低50円とす。
2.第13条 教え方養成
(イ)但し、上中五島伝道学校における教え方教育期間は6ケ月とし、義務年限は女子にありては卒業後3年とす。
(ロ)男子教え方も信徒指導者の養成を主眼とし、適宜にこれを教育し、卒業後は、その責任を負わせる。但し、仕事については別に拘束せず。
3.婚約相談の時、酒類は1回一升とし、主食類3升以内に限定す。
4.日労献金は下記の如く定む。
(イ)揚操、鮮魚、底引は月一人80円以上。
(ロ)一本釣 月一人40円以上。
(ハ)農業 年一戸 百円。

 昭和29年10月には、山口司教により長崎教区内のすべての小教区で主任司祭は、その司牧と宣教を旧聖会法によって忠実に果たしているかどうかの教会調査が実施された。
 
 
 
上五島地区カトリック信徒規約書

 

 同じ頃山口司教は、長崎教区司祭に司牧の上での注意事項を12箇条書きにして通達している。その中には、
その時代の教会が置かれた状況と問題点、並びに司教の司牧方針が読み取れるので、ここにその幾つかを紹介しておく。

1.各教会にはミサ奉仕の青少年を絶えず養成すること。ミサ奉仕少年は特に神学生召命に導くことを念頭に置く。

2.布教運動は特に篤志信者の協力を得て行うこと。そのために、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会、レジオ・マリエ等を活用すること。これらのアクションカトリックは、当教区の課題とする信者自体の信仰高揚に力あるものであるから、各師は特に留意すること。

3.祈祷使徒会を各教会に復活させ、盛んにすること。同会会員の名簿を篤志援助者を見分けて作成すること。

4.保育所、及び幼稚園は幼児の宗教教育と共に幼児を通して父兄への布教目的を重要視しすべきこと。各主任司祭は担当区内の右事業に指導、協力を怠らぬこと。

5.聖母年にあたり、聖母信心を深めること。

 項目2の信者活動団体の補足説明
信者活動の団体として仲知小教区にはヴィンセンシオ・ア・パウロ会も、レジオ・マリエもなかったが、どの集落にも男子と女子の青年会があってそれぞれ教会に奉仕していた。

 項目3の祈祷使徒会補足説明
仲知教会には昭和29年に作成した名簿がある。この名簿には仲知、米山、大水の会員220名が記されているが、当時の主任司祭吉浦師濱口種蔵氏に依頼して作ったもの。その頃、仲知小教区では、祈祷使徒会の信心より、ロザリオ信心、聖心信心、十字架の道行の信心が盛んであった。
 
 
 
仲知小教区祈祷会会員名簿

 

吉浦師の思い出

 司祭の人事異動は、司教によって行われるが、仲知小教区の歴代の主任司祭は、どうしてかどの司祭もその任期が4年から5年と短い。吉浦師もその一人で、師の在任期間は4年間だった。師については編集委員の尾上氏にその思い出を書いてもらった。

 吉浦神父様在任中、昭和31年4月5日、仲知教会において結婚の秘跡を授けていただいた。結婚の準備のための教理の勉強は、教え方さんに頼らず自分で努力した。教理の試験は結婚についてより、政治とか社会問題を聞かれた。

 結婚式の日時は親が司祭に相談して決めるというのが当時の習慣であったが、私の場合にはすべて私に任せてくださった。妻、大瀬良フサも赤波江で教え方の経験があることが評価されてか、本人が2回も願ったが質しはしてもらえなかった。

 昭和31年5月末頃、新築の家の清めを依頼した。その時祝い酒を差し上げると、とても喜んでくださり、いろいろと話に花が咲いた。その話の中で、父(利作)が新年のミサでの説教、特に年頭の挨拶がよかったとほめると「あっ、ほんとかのおんじ」といって、うれしい表情を浮かべたことも思い出される。

 その時、仲知の谷中のおばさんが突然訪れ、神父様の背中が出てるよといってシャツの裾を直してくれたりした。転任されてからは急なる御逝去の報に接し、驚きと悲しみ、唯々御冥福を祈るのみ。相浦教会墓地に眠る神父様の墓参りをただ1回しかしていないので、申し訳なく想っている次第。何時の日か、お花でも持参し、墓参りしなければと想っている。」
 
 
 
江袋教会受堅者(昭和27年)

 
昭和32年8月13日、上五島地区合同黙想会

浦川和三郎司教帰天

聖徳に輝く79年の生涯

 前仙台教区長浦川和三郎司教様は11月24日16時25分仙台市ナザレト修道院で帰天された。行年79才。昨年11月御病気のため教区長を辞任されてから、在任中創立されたナザレト修道会の指導育成と、著述とに余生をささげていられたが、この夏長崎に帰省されたのが故郷の人々との最後のお別れになった。11月23日朝、急に発病臥床されその夜
吐血されて危篤に陥られた。

 翌日からやや小康を得て御気分がよかったが、23日夜再び危険状態になり、24日遂に聖徳に輝くその一生を終わって永遠の安息に入られたのであった。御病気になられてからずっと祈りや仕事をつづけられ、危篤に陥られてからも意識ははっきりしていられた。一言も苦痛を訴えられることなく、まことに安らかな美しい御臨終であった。枕元には小林仙台司教、岩永四郎師、ナザレト修道院長など司祭、修道女たちが、善終を祈りながら、美しい臨終を見守っていられた。

 司教様は明治9年4月6日長崎市坂本町に御出生、21年、2才で長崎大神学校に御入学、39年7月、31才で司祭に叙品された。初任地は五島水ノ浦教会で、1年後大浦天主堂主任となり、神学校教授を兼任された。大正7年神学校教授専任、昭和3年神学校校長に任ぜられた。昭和12年2月から11月まで臨時長崎教区長、昭和16年1月仙台教区長、翌17年1月仙台司教に叙階された。

 昭和29年12月御病気のため教区長を御辞任、ナザレト修道会にお住みになっていた。

 司教様の最大の功績は長崎大神学校教授、或は校長として永年邦人司祭養成の大任を果たされたことであるが、その間修徳、教理、教会史などの著述に尽力され、「基督信者の宝鑑」「キリストの御跡に」「切支丹の復活」など数十種の著作を公にされ、カトリック教報の編集に当られるなど文書布教に尽された功績はまことに大きい。

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