パウロ 吉浦 勉師

1953(昭和28)年〜1956(昭和31)

 
 
浦川司教様をしのびて

司祭生活の典型
鶴田源次郎

 故浦川司教様の思い出を誌すようにとの依頼を受けて、どうも自分には其の器でないような感じがするにもかかわらず、司教様に対する思慕の情から敢えて愚言拙句を羅列することにした。

 司教様の高徳、霊訓は周知の所であるが、一言にして其の御生涯は「司祭生活の典型」であった言うことができよう。全く充実し切った日常で、大浦教会の主任司祭、神学校教授、著述家と文字道り一人三役を同時に果たしておられた。先ず信徒教導の任務においては常に敬虔と熱情にあふれ、善き牧者の面影を持っておられた。

 司祭の公祷である聖務日課は必ず聖堂で唱えられた。又一人でも声を出して唱えておられたのは、公祷の意義を辨えられ、早口をいましめるためであったろうと思う。時々御祈りの中にこぎ舟して居る姿を見受けることもあったが、これは日頃の過労と主の御許における安息感からではなかったろうか。或る聖女は幼き頃、聖体の御前で眠くなり、「イエズス様私は眠くなりましたから、此処で暫く眠らせてもらいます」と言ってすやすやと眠ったと言う物語があるが、似た場面のような感じがする。

 日曜日の説教は御自分でも言っておられた通り必ず月曜日から原稿の用意に取りかかられた。そうしてそれを正確に暗記されていた。日曜日の御ミサには、その原稿を香部屋まで持参され、祭服を着けた後でもなお原稿をあさっておられたようである。他人との応対にはいわゆる諧謔家ではなく、余り笑い顔もされなかったが、その蒼白な顔色には、底深い親愛の情が漂い、信者の霊的指導には文字通り親身になって世話された。当時の大浦教会の信者が、いかに信心に燃え、統制が取れ、司教様を愛して居ったかは周知の所である。

 次に神学校教授としての遺訓として、生徒に対して一視同仁、即ち偏愛でなかったこと、その学究的精神の旺盛なることを挙げたいと思う。神学生は司教様を「ちゃん」と言う愛称で呼んでいたが、その時ばかりは、あの渋味のある司教様のお顔にも善きお父さんとしての微笑が漂うのであった。

 授業においては真剣そのもので、専門外の文学や、物理学の講議には随分苦労して居られたようである。しかし専門の歴史にはもと生徒の方が無茶苦茶に練はれたもので、西洋史の評論を一時、時打ち続け筆記させられた苦労も今は懐かしい思い出になる。

 最後に特筆大書すべき御功績は、その文書伝道である。著述家としての司教様は、その方面の事業において長崎教区司祭団の中において全く一人行くO野という感じさえ起こさせる。司教様の著述に対する精神はこれも周知の所であるが、特に臨終の模様を報道された12月21日付けカトリック新聞の片岡先生の記述の中に躍如としてあらわれている。

 世に出ている信心書や歴史記述の外に、「南山講演」と題する騰写版ずりの歴史評論、文学評論、天文学解説などの著作が数多くあることも記しておきたい。著作において考えさせられることは、司教様自身の創作というのは殆どなく、総てが翻訳物か歴史的記述であるという点である。記述の態度においても、主観を制限して、専ら聖書や聖人の言葉、聖会博士や世俗的学者に信頼されているのはその深い謙遜の精神によるのではあるまいか。

 歴史に関する御記憶は実に鮮明なもので、この夏神ノ島教会の堅信にお伴をして行った時、眼前に浮かぶ高鉾島の殉教物語や戸町の金鍔次兵衛の殉教談など、まるで本でも読むように諄々と説明して戴いたことだった。

 司教様には碁や将棋や野球といったような世俗的趣味は全然なく仕事そのものが趣味であった。時々気休めの放談に御自分が出征された日露戦争の話などして居られた。

 「寸暇もない」という言葉が最も正確に当たる御日常で、その仕事場は聖堂と書斎であった。これでいて御健康であられた訳ではなく、特に冬向きには風を引かれいつも特徴のある大きな咳払いをしておられた。それでも尚、あれだけの仕事が出来たのは、人間の力以外の働きの結果と認めざるを得ないのである。

 編者は長崎カトリック教報の発刊当時、その編集の仕事を半年位手伝った事があるので、度々原稿をもらいに司教様の部屋に行くのであった。時々風を引いて烈しい咳きをしておられたが、それでもたゆまず蒲団の上で原稿を作っておられた。「お休みになっては」と申し上げると「私は病気をしても頭は疲れない。何ともないのよ」とのお答えであった。私たちは司教様についての聖い思い出をたどりその遺訓にならわん事を希望する次第である。

祈りと活動の人

梅木兵藏

 浦川司教様が亡くなられた。日本教会に取って大きな空白を感じる。「短くても大きく」との信念をとうとう終わりまで貫いて行かれた。司祭叙品50年祝を来年に控えて居られた。50年は決して短くはないが、最後まで翻訳、著作に身を献げられた。いつもお伺いして見ても、高熱で「今日は起きて居れないよ」と仰る時も、フトンの上にノートを置き、鉛筆をなめなめ書いて居られた。教区長会議の多忙な時も独房に入ると早や読書をなさる、手にはチャンとノートと鉛筆とをもって居られた。この夏長崎においでた時も同様であった。

 お帰仙なさった後にも今までの御研究の結果をまとめられる為に前々の原稿を集めて居られる様子であった。もう起たれないと思召された時、遺稿を他の方に頼まれた様にも伺われる。「通俗を旨とする」といわれたが解りやすい地方語まじりの出版物はよく読まれた。司教様時代のカトリック教報が「首を長くして待たれた」のは教区の程度に応じた言語文章であったからではなかろうか。

 然し決してインテリーはかまわないとしたのではない。歴史の誤謬があればそれを訂され、科学上のことも独学研究してそれを庶民に教え学者に説かれた。「貧者の光」となり「罪人の力」ともなって、黙々と居室を守る間にも「トビヤ会」(男子のため)や「マルチノ会」(女子のため)を組織して死人のため、貧者のため働かれた。

 常に「祈りの人たれ」と仰ったが、御自分がほんとに祈りの人であった。それも出来るだけ、聖体の尊前で祈られた。「目でも祈れ」「祈祷書を見て祈れ、日本語は、文字に意味がある」と仰ったのが、祈りの意味も考えないで祈る人のよい戒めであると思う。「働け、信者のために働けば、信者も解って助けてくれるよ」とも仰っておられたが、司教様の許には常に正しい献身的に活動する人が居た。ごまかしの利かぬ人が助けていた。

 司教様は実行の人であられた。祈りの人として勉強の人としてジミではあったが、コツコツといつもいつもうまずたゆまず進まれた。中学生時代にはよく「進まざるは退くなり」と、きかされたが御自身たえず進んで居られた。私たちもわずかなりとも司教様の模範に則り、活ける司祭生活がしたいものと望むものである。

吉浦勉師逝去

 パウロ吉浦勉師(紐差教会助任)が昭和34年6月25日夜、平戸市京崎海岸の小道を通行中、道を失って崖下に転落、逝去された。32歳。
6月27日紐差教会で教会葬が行われた。同師は昭和27年4月1日司祭叙階、紐差教会助任に任ぜられ、仲知教会主任、飽の浦教会助任となり今日に至っていた。吉浦師のこの不幸な事故死は心から惜しまれる。

 なお、ある日刊紙が自殺のように報道していたのは勿論誤報で、その動機として掲げていたことも事実無根である。
教会当局の慎重な検査の結果、明らかに不慮の転落死がお判断されている。

 

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