ベルトラン師

1892(明治25)年〜1894(明治27)年

 1892(明治25)年、デュラン師の後任としてベルトラン(Bertrand)師が着任された。師の在任期間は1年6ヶ月と短かったが、仲知小教区は師を初代主任司祭としている。

 師の上五島での活躍の跡は、当時の洗礼簿でいくつか見つけることができる。その活躍の1つは、江袋教会と仲知教会以外の仲知地区に所在する巡回教会、例えば赤波江と米山にも足を伸ばし、きめ細かな巡回司牧を行っていることである。
 
 
ベルトンド師のサイン入りの洗礼台帳

 それまで宣教師の仲知地区での巡回は、江袋と仲知(年に3回程度)が中心になって行われていた。しかし、師の時代になると江袋、仲知への巡回回数(年に5回程度)が多くなると共に、それに比例して、他の巡回教会への回数も2回、3回と多くなっている。その中で特に目立つのが、米山と赤波江への巡回回数が多くなっていることである。

 その背景には、当時の米山と赤波江の信徒教勢(信徒数)が飛躍的に増加していることを考えなければならない。

 ともあれ、師の着任により仲知小教区の信徒は、それ以前よりも司祭を通して聖体、告解等の秘跡を受けられるようになり、教会を中心に相互の信仰の交わりを深めながら、神に仕える喜びを分かち合うことができるようになった。

信心業

 ベルトラン師が着任された1892(明治25)年の宣教会報告書を見ると、その頃長崎教区の多くの地区において、週日のミサに多くの信者の規則正しい熱心な出席があることは勿論のこと、聖なるロザリオの月(5月)、聖心の月(6月)、四旬節、また常時十字架の道行の信心をしている多くの模範的な教会があることが賞賛されている。

 その具体的な例として、下五島地区での聖なるロザリオ会がペルー師の指導により設立されたことがあげられている。では、その頃の仲知地区での信心業はどうだったのか、江袋教会の場合を取り上げてみよう。

十字架の道行

 江袋教会創設100周年記念誌で既に紹介されているように、江袋教会では誇ってもよい信心業として今もなお毎週金曜日十字架の道行の信心が行われている。

 それは、教会創立(明治15年)以来、116年間絶えることなく続けられてきた信心業である。その由来はあらまし次の通りである。
 
 

 1882(明治15)年に江袋に地区の信徒の協力によって美しい聖堂が建立された頃、伝染病が流行し9人の犠牲者が出た。江袋の青年伝道士本島五郎八もその一人であった。

 そこで村の長老今野与八、当時宿老をしていた楠本三吉、谷口初造等、集落の有志は協議し「私たちの信心や贖罪が足りないからに違いない。これからは毎週金曜日十字架の道行をしよう」と決議したのが始まりで、それから今日まで間断なく続けられている。

 最近なって若いお母さん方から「十字架の道行は、もうやめよう」という話が出た。しかし、信心深いおばあさん方から「それだけは止めてくれるな」と言われ今も続けている。昔、この信心業は畑仕事が忙しかったため、早朝5時半に行われていた。

聖心の信心(江袋)

 江袋教会では、さらに大正6年から5月10月の聖母信心業の他に、聖心の信心として6月に毎日老若男女教会に集まりロザリオを唱えている。

 この信心は、江袋教会が主イエスの聖心に奉献されていることから、主のみ栄えを賛美しその恵みを受けるために始められた信心業である。昔は6月の聖心の祝日には、祝祭日に準じて仕事を休み、午後から畑仕事をしていた。

 余談ではあるが、聖心のミサをささげて下さる歴代の主任神父様には大敷網で取れた鮮魚と飲み物を差し上げるという習慣も今日まで続いており、どの主任神父様からも大変喜ばれている。


 
 

ペルー師 五島列島の主管者となる 1893(明治26)年


 

 ベルトラン師の司牧方針とその活動を知るための重要な出来事であったのは、既に1887(明治20)年から下五島の司牧宣教の担当司祭であったペルー(Pelu)師がクザン司教の任命を受け、五島列島の主管者になったことである。

 それまで五島列島の司牧は、3地区に分けられていたが、クザン司教の英断によってペルー師一人の手に委ねられることになった。9,000人以上の信者を擁するたくさんの教会を司牧するためにベルトラン師と2名の邦人司祭が彼を助けることになった。ところが「人は計画し、神はそれを壊す」という格言があるように、なかなか思うように司牧の効果を得ることが出来なかった。

 というのは、この地方で働いた4名の宣教師は、次々に健康を害し、そのため司牧はいつもきつく、また、出来なくなった時期もあった。

 しかし、この思いがけない支障にもかかわらず、神は豊かな恵みを注がれ、いつになく成人と未信者の子供の洗礼数が伸びるという喜びがあった。

(宣教会年次報告 I P.310参照)
救済活動

 ベルトラン師が記録した上五島小教区の洗礼簿で、ペルー師が五島列島の主管者となった1893(明治26)年5月から1894(明治27)年4月までの1年間に師自身が授けた幼児受洗者総数は67名である。その幼児受洗者の名簿の中に、未信者の子供の受洗者15人があちらこちらに散見できて、その年(1893)の「宣教会年次報告I」で報告されている未信者の幼児受洗者の伸びが正しいものであることが確認できる。

 ここではさらに同洗礼簿によりベルトラン師によって授けられた未信者の受洗者15人を詳しく調査してみよう。洗礼簿によると、当時の未信者の受洗者にはその時代的な状況を反映しているいくつかの特性が見受けられる。

 そのひとつは、15人の受洗者は全て生後1ヶ月に満たない新生児で、しかもそのほとんどが生後3、4日のうちに洗礼を授けられているばかりか、洗礼簿では一般の幼児受洗者と区別してラテン語でEnfana(孤児)と記されている。

 さらに重要なことは、その出身地も全て奈良尾、岩瀬浦、有川、榎津、小串、立串、曽根、野崎、津和崎、小値賀、六島(小値賀)と非キリスト者の地域となっている。

 当時(明治中期)日本では、子おろし、間引きが全国的に行われていたが、五島列島でも生活の窮乏を避けるための人口制限として"間引き"を行う習慣があった。間引きは良心的には悪であると理解しながらも、貧困対策「口べらし」のためにやむをえないこととして受け入れていた。

 このような時代的な環境の中にブレル師とマルマン師が五島列島に来島し、早速遺棄児の救済事業に乗り出した。マルマン師の後任者ペルー師も、マルマン師の後を継ぎ闇に葬られていく乳幼児の収容と養育事業を大切な司牧方針とした。

 当時、上五島地区を担当されていたベルトラン師も五島列島の主管者ペルー師の司牧方針に協力して、上五島地区で不幸な子供を見つけて引き取る救済事業に積極的に取り組んだ。

 その成果が未信者の幼児受洗者の伸びとして表されたものである。
 
 

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