ベルトラン師

1892(明治25)年〜1894(明治27)年






セシリア修女院会員の協力

 もうひとつベルトラン師が授けた未信者(孤児)の洗礼簿で見つかる特徴は、孤児として引き取られた乳幼児の多くは栄養状態が悪かったためか、生後間もなく死亡していることと、その代父母が仲知の一般信徒だけでなく、仲知のセシリア修女院の会員たちとなっていることである。

 野口フクは、当時院長をしておられた。野口院長時代の会員は、真浦キミ、竹谷セツ、山添マキ、赤波江トセ、植村フデなどであったが、これらの会員のほとんどが孤児の洗礼親となっている。この事実は何を意味するのだろうか。

 当時鯛ノ浦にあった養育院で仲知の谷中セヨが、ベルトラン師の指導を受けながら間引きの対象となった嬰次の救済に取り組んでいた。その谷中セヨの救済事業に仲知のセシリア修女院の会員達も惜しみない協力をした。

 このことはベルトラン師が授けた15人の孤児の代母に本人自身がなっていることによっても明らかである。すなわち、彼女は岩瀬浦から通報を受けて引き取った孤児小柳サキ(明治26年、11月28日生まれ)を仲知へ連れてきて、ベルトラン師に洗礼を依頼し自らはこの子の代母となっている。
 
 


 

信徒の協力

 気の毒な孤児の救済に一般信者の協力があったことも決して忘れてはならない。ベルトラン師が記した洗礼簿には、孤児の洗礼の代母として赤波江マシ、島本ソノ、真浦マツ、真浦マセ等の信徒の名が見つかる。彼女等は、単に孤児として記されている乳幼児の窮状を気の毒に思って代母役を引き受けただけではない。

 場合によっては、里子としてあるいは養子として引き取り育てた。その背景には、当時の宣教師の指導があったことを考えなければならない。デュラン師は先輩の宣教師と同じ心で目の前で生活に苦しんでいる人や、身寄りのない孤児を我が子として引き取り育てることは全世界の全てのものを手に入れるより価値があり、そうする事で自分も天国に宝を積むことになると教えられた。

 だから、信徒の方もデュラン師の指導に従って孤児の命の中に一人の人間としての尊さを見、心からの協力を惜しまなかった。

 こうして多くの信徒が自分の家庭に孤児を里子や養子として迎えた。しかし、編者は里子と養子先を記録した専用の資料を入手していないので、その正確な紹介はできない。

 ところで、孤児を我が子として育てるよい伝統と習慣は、仲知小教区の信者の口伝と仲知小教区の教会籍によってある程度把握できる。そこで不完全ではあるが、養子縁組にかかわった4組の夫婦の紹介と仲知小教区教会台帳による養子縁組の一覧表を作成してみた。少しでも参考になれば幸いである。

1、肥喜里豊作

 明治3年に赤波江で生まれた肥喜里豊作は、明治22年10月22日マリア・ヨモと結婚するとデュラン師より要請されて、鯛ノ浦の養育院に収容されていた有川の孤児・重右衛門を里子として育てる。

 しかし、何ヶ月もしないうちに長男に恵まれる。その後、養育院の会員が孤児・重右衛門を引き取りに行くと、それを断り我が子として育てた。

 成人した肥喜里重右衛門は、仲知の山添岩太郎・ツイ夫婦の養子として迎えられ、その長女山添タオと結婚し、山添姓を名乗る。

 畑中師、西田師の宿老として教会に奉仕し、旧教会の建設の時には、会計係として重責を果たした。家庭にあっては、12人の子供に恵まれ昭和30年頃帰天した。

2、谷中勇吉

 1843年、仲知生まれ。
(彼の住所は現在仲知教会、司祭館、仲知公民館が建っている場所)

 明治4年曽根出身のカタリナ・サトと結婚し、9人の子供(男3人、女6人)に恵まれる。子育ての最中に、鯛ノ浦養育院の会員として養育事業に奉仕していた長女谷中セヨより養育院に収容されている有川の孤児(セリ)を養子として育てるように要請があった。

 それでその時の主任司祭、本田藤五郎師と相談した上で娘の願いを聞き入れ、セリを養子として迎えた。若い時から仲知教会の要職について、長年教会に奉仕した。

3、又居初五郎

 明治9年、米山生まれ。
 明治31年、ドミニカ・フミと結婚。2年後に長女・タヤの誕生後12年間は子供に恵まれなかった。明治41年の冬の夜、伝馬船で米山の沖合いまで行き、生業のイカ釣りをしていると小値賀村の六島方面から赤子を乗せた伝馬船がそばを通ったので、こちらから声をかけ「泣いている赤子は男の子か、女の子か」と聞いたところ、その返事は男の子だということで養子として引き取る相談をした。

 帰宅後妻と協議し、翌日又居家の後継者として迎えることを決めその名は庄吉と命名した。その時の仲知小教区の主任司祭は中田藤吉師であった。

4、江口留吉

 明治13年、赤波江生まれ。
 明治39年5月26日、テレジア・キヨと結婚し5人の子供(男2人、女3人)に恵まれて赤波江で平和な家庭生活を送っている時、養育院の谷中セヨ院長より養育院に収容されている女の子・テル子の養子縁組の要請があった。

 しかし、夫婦は養子縁組について相当のためらいがあった。そこで主任司祭古川重吉師に相談したところ、師からいろいろと励まされテル子を養子として迎えることにした。

5、真浦サヤ

 明治30年7月25日、久志磯吉とジヨの長女として仲知に生まれる。
 セシリア修女院の会員真浦キクの実姉。
 大正4年18才でセシリア修女院に入会。主任司祭永田徳市師の指導を受けて薬や小間物を行商しながら、私生児・不具者等、見捨てられた薄幸な赤子と幼児の収容という任務を任せられた唯一人の会員。晩年は山口忠師の賄いをして教会に奉仕した。
 昭和49年11月8日、帰天。
 

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