ブレル師

1880(明治13)年〜1885(明治18)年



 
ブレル師

 明治13年4月上五島地区の司牧と宣教は、ブレル(Bourelle)師に委ねられた。師が上五島地区に着任された明治13年の五島列島は、上五島と下五島に分けられ、上五島は奈留島から北部であった。

 その年のカトリック人口は約6,000人で40余りのカトリック集落があった。5つの教会、4つの聖堂、25の祈祷所そして、共学の小学校いくつかを維持していた。

 下五島の担当はマルマン師で上五島の担当はブレル師であった。ブレル師の在任期間は約5年間であったが、その5年間にいろんな司牧活動を展開している。

 その主な活動は養育院創設(鯛ノ浦)、大洗礼、洗礼簿の作成(編集)、教会設立である。

養育院創設(鯛ノ浦)

 すでにフレノー師の時代に五島列島の宗教的状況と社会的状況を熟知しておられたブレル師は、司牧の任務につくと不幸な子供を救うために私財を投じて鯛ノ浦郷中野に土地を求め、藁葺きの小さな家を建てて孤児を収容し養育事業を始めた。

 現在の「希望の灯学園」の前身「鯛ノ浦養育院」の起源である。この家は「子部屋」といわれていたが、師は子部屋に収容した薄幸な子供達を世話する人を上五島地区の各集落の信徒に呼びかけた。

 その中のひとりに仲知の谷中セヨ(24才)がいた。彼女は谷中勇吉の長女で7才の時に平戸で迫害を受けるという信仰体験をした。その貴重な体験を生かして生涯信仰に生き、薄幸な子供たちと起居を共にしながらその救いと幸福のために尽くした。
 
 

大洗礼 1880(明治13)年

 ブレル師が上五島地区に着任した明治13年に行った主な仕事は、養育院事業の他に、信徒の信仰を強めるため集団で洗礼を授けてまわることだった。

 この大洗礼は、すでにマルマン師により同年の2月から中五島地区(桐)で始まっていた。ブレル師は着任と同時にマルマン師の大洗礼を引き継ぎ、その盛大な式典は翌年の8月まで続いた。その時の洗礼は、潜伏キリシタン時代の水方による条件付の洗礼を有効にするためのものであった。
 
 
 

 受洗者は0歳児から15才ぐらいまでと年齢に幅がある。仲知小教区内では同年4月から野首、瀬戸脇、江袋、仲知、赤波江の順で次々と集団洗礼式を行っている。

 まず野首では同年4月22日、普通の民家で27名の児童が受洗し、翌日は瀬戸脇の民家で26名の児童が受洗している。一方、江袋、仲知、赤波江の大洗礼は同年10月末にまとめて執行されている。まず江袋では民家で58名もの児童が受洗し、このうち26名は大水の児童、3名は赤波江の児童であった。

 仲知ではどのような事情かわからないが、民家で10月28日に39名、10月29日に8名と両日に分けられて受洗している。10月29日には赤波江でも民家で52名の児童が受洗している。このうち18名は明松(小瀬良)の児童、8名は大瀬良の児童、5名は立串の児童であった。

 以上、9つの集落の受洗者総数は211名である。この年は、仲知小教区の各集落の信徒にとって大きな喜びの年であった。

では、どのような家族が洗礼の恵みを受けたのだろうか。

 ここでは、この年に洗礼の恵みを受けたキリシタン集落の家族を任意に3家族選んで紹介しよう。

野 首 教 会
霊 名 姓 名 生年 受洗月日 両親の名
ドミニコ 白浜 栄作 1871 1880.4.22 白浜留八・タヨ
ドミニコ 白浜 半次郎 1866 1880.4.22 白浜利八・カナ
トマス 白浜 松次郎 1865 1880.4.22 白浜留五郎・キサ
瀬 戸 脇 教 会
ミカエル 瀬戸 倉吉 1877 1880.4.23 瀬戸福造・ハル
パウロ 瀬戸 長吉 1867 1880.4.23 瀬戸義右衛門・ウメ
ミカエル 瀬戸 又市 1867 1880.4.23 瀬戸平吉・トメ
江 袋 教 会
ミカエル 今野 宗次郎 1875 1880.10.26 今野直吉・フイ
トマス 楠本 喜一郎 1878 1880.10.26 楠本三吉・チソ
ドミニコ 谷口 与助 1870 1880.10.26 谷口初造・セオ
仲 知 教 会
マリア 植村 フデ 1875 1880.10.28 上村十郎・ヨシ
ラウレンシオ 久志 種五郎 1879 1880.10.28 久志甚吉・サヨ
ドミニコ 山添 忠五郎 1876 1880.10.28 山添初五郎・キト
赤 波 江 教 会
パウロ 赤波江徳三郎 1876 1880.10.29 赤波江甚五郎・ツナ
ミカエル 川端 金助 1874 1880.10.29 川端清吉・フイ
マリア 赤波江 ミキ 1869 1880.10.29 赤波江伊勢造・サヨ
大 水 教 会
ドミニコ 大水 松之助 1863 1880.10.26 大水徳造・ツル
ミカエル 大水 松次郎 1867 1880.10.26 大水義平・ノヨ
ドミニコ 大水 善之助 1880 1880.10.26 大水直助・ミキ
明 松
ドミニコ
トエ
1876 1880.10.29 文吉・サト
パウロ
忠吉
1871 1880.10.29 留吉・サヨ
マリア
シオ
1869 1880.10.29 辰五郎・マニ
大 瀬 良
ドミニコ 大瀬良 嘉助 1869 1880.10.26 大瀬良一之助・ノワ
パウロ 大瀬良勝次郎 1879 1880.10.29 大瀬良一之助・ノワ
カタリナ 大瀬良 ミツ 1862 1880.10.29 大瀬良三造・シモ
立 串
ペトロ
藤次郎
1874 1880.10.29 金作・シメ
ドミニコ
安五郎
1877 1880.10.29 金作・シメ
テクラ
タ オ
1880 1880.10.29 金作・シメ

 洗礼簿の作成
 
 
ブレル師が作成した各教会の洗礼簿

 

仲知にはマルマン師による野首、瀬戸脇、赤波江、米山の洗礼簿がある。ブレル師は着任すると、上中五島地区に所在する40余りの教会の洗礼簿の作成を開始している。

 その完成には3年程度かかっているが約6,000人分の洗礼簿の作成には、目に見えぬ大きな苦労があったことは火を見るより明らかである。仲知小教区9つの集落の洗礼簿を見ると、師は最初に野首教会と瀬戸脇教会の洗礼簿(明治13年)を作成している。

 明治14年になると、10月末から11月中旬にかけて約3週間で一気に大水の洗礼簿(10月25日)、赤波江の洗礼簿(10月31日)、仲知の洗礼簿(11月2日)、明松・大瀬良・立串の洗礼簿(11月10日)を作成し、江袋教会の洗礼簿が一番最後で明治17年の作成である。
 
 
 

 この洗礼簿の調査では、各教会で洗礼簿が作成された年のそれぞれの集落の戸数と信徒数がわかるほか、洗礼簿が作成された頃、仲知教会、大水教会、瀬戸脇教会、江袋教会、野首教会が次々と設立されているので、これらの教会建設当時の戸数と信徒数も把握できる。

 これは6,000人もの信徒の洗礼簿作成に苦労されたブレル師のおかげであり、師には大いに感謝しなければならない。

江袋教会建設時の戸数と夫婦名

 どの教会の洗礼簿もローマ字で本人の名、生年月日、受洗日、執行者だけでなく、本人の両親と祖父母の名とその出身地まで細かく正確に記録されているので、歴史の資料として価値の高いものである。ただ、明治の初期のものだから姓は記されていない。

 ここでは、江袋教会の洗礼簿によって、江袋教会建設時の信徒戸数について調査してみた。江袋教会の信徒の間で現在の教会が建設された時の信徒戸数は、17戸だったという伝承がある。

 その史的な根拠として信徒は、佐藤哲夫師の時代に教会の名義変更の手続きをしたときに、教会の名義人が「尾上庄蔵他16名」となっていたことを指摘する。

 そこで当時の資料で調査してみると、「尾上庄蔵他16名」の登記年月日は、教会建設14年後(明治29年10月1日)のことであり、教会建設時(明治15年)の戸数ではない。(明治29年の信徒戸数は、約25戸)

 一方、明治17年にブレル師によって作成された同教会の洗礼簿を見ると、No.1からNo.11までは教会建設直前の3年間(明治10〜12年)に江袋教会で出生した幼児の洗礼が記されている。その後、No.12からNo.75までは教会建設に携わった17家族が記され、その後は、建設後に分家した若い家族の幼児洗礼が年代順に記されていて、幸運にも建設に携わった家族は中央に挟まれ大切に保管されている形となっている。

 こうして建設当時の戸数は、昔から伝承されている通り17戸であることが判明した。

江袋教会建設当時の夫婦名(17組)
 
尾上利助・トラ 山口文造・アキ
田口吉松・トイ 川端久米蔵
上田増衛門・ヨネ 尾上留八・セキ
田端勇蔵・タキ 山中宇助・トチ
谷口初蔵(初五郎)・セオ      
今野与八・サオ 本島熊造・セキ
楠本三吉・キリ 浜上助八・ツヤ
今野直吉・フイ 山中留五郎・イネ
谷上米三・ナヨ 山口助造
信徒総代は楠本三吉と谷口初蔵(初五郎)
 

仲知教会建設当時の夫婦名
 
1.島の首 9戸
島本作次郎・ツゲ 島本国作・サノ
島本貞吉・ハル 島本栄助・ジセ
島本鉄五郎・ハツ 島本久次郎・カシ
島本称造・トメ 島本好次郎・タキ
島本勝平・サヨ
2.真浦 11戸
真浦才吉・トセ 植村五郎作・エモ
植村十郎・ヨシ 真浦又助・ユキ
真浦岩五郎・クメ 真浦清吉・イロ
谷中勇吉・サト 真浦栄吉・ユリ
真浦栄太郎・セヨ 真浦喜八・キミ
真浦長八・ハル
3.久志 新開き12戸
久志嘉助・ミツ 井出渕茂助・リエ
久志甚吉・サヨ 久志左造・セキ
水元吉造・セツ 水元作兵・セオ
水元熊吉・キヤ 五輪金助・ヨシ
山添喜八・セモ 山添久次郎・ジヨ
山添寅平・ヤサ 山添藤衛門・キク
4.一本松 7戸
山添忠太郎・セオ 山添初五郎・キト
山添関造・キオ 山添嘉吉・セツ
水元留吉・セキ 真浦原太郎・スナ
紙村敏松・ハツ
5.竹谷 4戸
竹谷時造・カオ 真倉喜十・ミネ
竹谷松五郎・ジヨ 竹谷鯛造・ツヨ

赤波江教会建設当時の夫婦名
 
赤波江三吉・ソノ 赤波江伊勢蔵・ソヨ
赤波江徳蔵・ヤス 赤波江助作・ミチ
赤波江亀蔵・ツネ 赤波江甚五郎・ツナ
赤波江善吉・ヨシ

建設後の夫婦名

 赤波江集落の洗礼簿によると、建設の前後に近隣のキリシタン集落から入植した家族が続出している。大瀬良から大瀬良金惣・シモ夫婦、大瀬良嘉平・サヨ夫婦、小串から○○称蔵・フイ夫婦、曽根から江口藤三郎・ノブ夫婦、高尾称多衛門・サヨ夫婦、○○市太郎・セツ夫婦が赤波江に入植している。

 それに出身地はわからないが、赤波江仙太郎・キク夫婦、肥喜里政吉・スミ夫婦も赤波江に入植している。
 
 

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