ブレル師

1880(明治13)年〜1885(明治18)年







教会建設
 
 

 上五島地区では既にフレノー師在任期間中に青砂ヶ浦教会(明治12年設立)や大曽教会(明治12年設立)等、いくつかの聖堂が建設され、その地区での信仰生活の中心となっていた.

 しかし、当時の極貧の信徒にとって莫大な資金が必要な教会建設は、たとえ早くから計画されたいたとしても、着工までには相当の年月がかかるもので、仲知地区ではブレル師の在任期間に申し合わせたように、長いこと待ち望まれていた聖堂が次々と設立されていった。

聖ヨハネ五島教会(仲知教会) 明治14年

 仲知地区で一番最初に設立された教会は仲知教会で、古い資料では明治14年設立、聖ヨハネ五島に奉献された教会となっている。所在地は真浦の浜の北魚目村津和崎郷字1018番地。218坪の敷地に39坪の木造瓦葺平屋建ての聖堂が建設され、4坪の宣教室と7坪8合の賄い部屋も併設された。

 仲知教会洗礼簿によると、同年7月18日と7月23日の幼児洗礼はラテン語のサインで「聖ヨハネ五島教会」となっていることから、仲知教会は明治14年3月から7月にかけて設立されたということになる。尚、この新しい教会で最初に洗礼を受けた幼児は、島本作次郎・シゲの子、ミカエル島本栄助(明治3年生まれ)であった。


 
 

御昇天教会(大水教会) 明治14年

 主の昇天に奉献された最初の大水教会の設立は仲知と同じく明治14年で、民有地16坪を教会敷地としてその中に民家風の小さな教会(11坪)を造った。所在地は北魚目村曽根郷立花421番第2。

 設立時の信徒総代(顧問)は大水多市と大水三次郎であった。

キリストの十字架教会(瀬戸脇教会) 明治14年

 わが主キリストの聖十字架に奉献された瀬戸脇教会の設立も明治14年で、民有地76坪の敷地に美しい聖堂(22坪)を設立し、付属構造物として5坪9合の賄い部屋も併設された。建物の構造は木造瓦葺平屋建て。所在地は北松浦郡小値賀村433番地であった。

 明治15年になると、江袋にイエズスの聖心に奉献された教会が、野首にフランシスコ・ザビエルに奉献された教会が設立された。

聖心教会(江袋教会) 明治15年
 
 
ブレル師が建立した教会で現存す
る唯一の教会である。

 パリ外国宣教会の宣教師が建てた聖堂の中で、江袋集落の中央部に明治15年に建てられた聖堂は、建設当時から誰の目にも一大傑作としてみられた。

 この教会は当時17戸の江袋の貧しい信徒が多大の犠牲を払って、ブレル師の指導と資金援助を受けながら設立したもので、棟梁は海辺光男大工(明治41年生まれ)の話しによると、西彼杵・黒崎村の川原久米造(海辺光男氏の師匠の師匠)であった。

 建設においては、建設資材として使用された木材はすべて、近隣の集落の信者の応援を受けて江袋の信者が総出で細い畦道を浜より担ぎ運搬した。

 建物の構造は木造瓦葺平屋建てであるが、実際に使用されている木造の教会では県内で最も古い。

 現在の屋根は単層構造で変形寄棟の形態をなしているが、最初の屋根には小さな塔が設けられていた。しかし、老朽化のため取り壊し、現在の形にしたと云われている。

 玄関も元は洋式だったが、後で現在のような和式にした。内部の構造は元のままでこうもり天井、窓も古い様式のアーチ型で、外に鎧戸、内には色ガラスをはめた扉がある。この色ガラスは初期の色ガラス(フランス製)として貴重であったが、保存状態が極めて悪く、平成7年11月に行われた修復工事で現在のステンドグラスに取り替えられた。

 しかし、内陣中央の上部に設置されている3つの窓ガラスは、当時のものとして保存している。中央祭壇は昭和の初期に新しく備えたもので、製作者は新魚目町似首の湯川という指物大工で、材料はすべて欅を用している。

 建物の規模は55坪でこの地区での教会としては一番大きかったが、その一部は宣教師室と賄い部屋として使用されていた。

聖フランシスコ・ザビエル教会(野首教会) 明治15年

 最初の野首教会の設立は明治15年で、民有地126坪を教会敷地とし、民家風の聖堂(15坪)を建設した。所在地は北松浦郡小値賀416番。

聖ヨゼフ教会(赤波江教会) 明治17年
 
 

 明治17年には、赤波江に聖ヨゼフに奉献された教会が設立された。ブレル師の指導を受けながら信徒総代の赤波江助作が中心となって建てた民家風の聖堂であった。

 伝承では当時の戸数は7戸だったといわれているが、ちょうどその前後に近隣のキリシタン集落からの移住家族が6家族も7家族もブームみたいに赤波江に移住しているため、正確な建設戸数の把握はできない。

 しかし、明治32年11月3日、クザン司教に届け出た資料によると、所在地は現在と同じ番地(北魚目村立串郷字谷の坂子)で67坪の敷地内に木造瓦葺平屋建て(20坪)の聖堂を建設したということになっている。建設後(大正年間)、信徒の労力奉仕により隣接地(84坪)を整地し、司祭館(13坪)と伝道館(10坪)を建てた。

 
 こうした教会建設ブームの中で、ブレル師は、上五島地区の司牧の責任者としてその建設に深くかかわり、信徒と共に働き苦労も喜びも共にした。当時の宣教会年次報告書を読むと、師が教会建設を信者と共にどれほど喜び、誇りにしていたかがよく理解できる。

 「最近まで、ミサを捧げ、秘跡を授けるために小さな部屋、あるいは普通の民家しかなかった。私は聖主に相応しい何かを建てるだけの資金を信者達に負担してもらうのは無理なことだと思っていた。ところが、多くの犠牲と献身のおかげでこの1年の間に数ヶ所に教会が建ったのである。

 キリスト信者とはなんと不思議な者、かつては信仰のために軽蔑され、追放された彼らがその熱心と忠実さは既にこの世で報いを受けている。今、彼らは近隣の異教徒の賞賛を受け、政府の役人は彼らに対して好意的な寛容さを見せている。人々は先を争って我々の教会を見物に押し寄せ、真理の上に捧げられた教会を見上げて驚きの声をあげずにはおれない。」

(宣教会年次報告 I P64)

 

外国人宣教師のページへ

トップページに戻る
inserted by FC2 system