デュラン師 1888(明治21)年〜1892(明治25)年
1885(明治18)年、上五島地区の司牧と宣教を再度命じられたフレノー師は4年間の司牧を終え、浦上教会へ転任となり、後任として天草地方で宣教されていたデュラン師(Durand)が着任された。
師が着任された明治18年頃の五島列島では、約8,000人の信者を2名の宣教師(フレノー師とペルー師)が担当していたが、この年に上五島地区、中五島地区、下五島地区の3つの地区に分けられ、上五島地区の司牧はデュラン師が担当し、中五島地区の司牧はガルニエ師が担当し、下五島地区の司牧はペルー師が担当された。
江袋教会主任座教会となる
改修工事前の江袋教会 1998年 改修後の江袋教会 デュラン師に委ねられた頃の上五島地区の各集落の洗礼簿を調査してみると、どの教会も宣教師の巡回司牧回数が多くなり、信徒は以前にもまして告解、ミサなどの秘跡にあずかる事ができるようになっている。
しかも、仲知小教区内での9つの集落(瀬戸脇、野首、米山、仲知、赤波江、江袋、大水、大瀬良、小瀬良)の洗礼簿を見ると、この地区では江袋を宣教の拠点として巡回司牧されていたことが強く印象付けられる。
というのは、師の在任期間約4年半は江袋教会以外のほかの集落で出生した幼児の洗礼の多くは江袋教会となっているからである。例えば、大水教会では師の在任期間の4年半の間に16名の幼児が師から洗礼を授かっているが、そのうち10名は江袋教会で授かっていて、同じようなことが赤波江、野首、瀬戸脇、米山、小瀬良、仲知でもいえる。
当時、幼児の洗礼は生後2、3日のうちに授けるということが堅く守られていた。だから幼児の洗礼は、その日のうちに授けてもらうことはよくあったし、余程のことがないかぎり洗礼式を1週間も2週間も先に延ばすようなことはしなかった。
それで信者は赤子が誕生すると宣教師が常住しているところへ我が子を連れて行き洗礼を授けてもらっていた。したがって、江袋で幼児受洗者が多いという事実は、少なくとも師が仲知地区に巡回された時は江袋に常住し、この地区の巡回司牧をされたという証明となる。
米山教会設立 1889(明治22)年
最初の教会は山の上にあった。 二回目の教会 現在の教会 米山教会の信徒の間で、旧教会墓地の近くに最初の教会があったという話が伝承されている。しかし、その所在した場所は確認できても何年に、どの宣教師の時にどのような教会が設立されたかについて現在の信者の間で知っている人は誰もいない。
そこで、1880(明治13)年代の米山教会の洗礼簿を調査してみた。すると、デュラン師が1889(明治22)年4月4日米山に巡回され、白浜与平・ハツの子、白浜仙太郎と、白浜善吉・ミツの子、白浜ハツに洗礼を授けているが、その時の授洗の場所は師のサインで聖アンドレア教会とローマ字で記されている。それまでの洗礼は、すべて個人の家で授けられているのに、この時から洗礼のほとんどは聖アンドレア教会と記されるようになる。
このことは、米山に明治22年には聖アンドレアに奉献された教会があったということになる。所在地は北魚目村津和崎郷557番地。すぐ近くは旧墓地となっていた。この最初の教会は1903(明治36)年に2回目の教会が別の番地に建設されるまでの13年間、信者の信仰生活の中心として使用された。
教会といっても民家風の小さな祈祷所で宣教師の休憩と宿泊も兼ねていたらしい。この教会が建設されたときの戸数についても信者の間で16戸だったと伝承されているが、当時の信者の家は教会の周辺に散在していた。現在ではこの最初の教会の所在地は山深い不便な所となっていて、県道から歩いて山道を15分くらいは登らなければならない。
この教会のすぐ近くにあった旧墓地は平成6年まで使用していたので、信者はお葬式のたびに棺を現在の教会から旧墓地まで担ぐことに大変苦労していた。個人や家族で先祖の墓参りをしようと思っても、子供や婦人は途中の山道が怖くて、お年寄りは急坂の細い山道を歩くのが大変で墓参りもままならなかった。
最初の教会建設時の夫婦名は次の通り
山田斧右衛門・トセ 白浜忠五郎・ハツ 山田 多造・ヨネ 又居藤五郎・カヨ 白浜 与平・ミツ 長浦猿右衛門・トミ 高尾称太郎・サヨ 山下(松内)留造・キミ 白浜竹次郎・フキ 白浜 善吉・ミツ 山田 礼造・キヨ 大瀬良窄太郎・キセ 浦越初五郎・ミキ 竹谷佐吉・シヲ 白浜茂三郎・ユキ つづきのページへ