デュラン師

1888(明治21)年〜1892(明治25)年




死亡台帳

 デュラン師は筆よりつるはしの人だった。また、信者の内的外的なことによく心を配られる方であった。さらに外国人の中でも特別に大柄で頑強な体格の持ち主で、江袋教会司祭館建設、仲知修道院の会員のための土地の開墾、そして、たぶん米山教会の建設においても、いつも自ら指揮を取り信者と共に働き共に汗して働かれた。

 しかし、デュラン師はこのように重労働を指導されるだけでなく、司祭として信者を愛し信者の魂の救いを大切にし、死に際しては心からの改心を持って神に受け入れられるようなよい準備をするように熱心に導かれた。

 死の危険が近い病人の家族から頼まれると、信徒が用意してくれた村舟で出かけられて終油の秘跡(塗油の秘跡)を授けた。

 当時の教会の資料を見ると、死亡の記録が始まるのは1883(明治16)年からである。しかし、その当時の死亡記録は非常に簡単なもので洗礼簿の端に死亡年だけが記されているに過ぎない。当時の宣教師は忙しく家族から死亡者が出た場合、信徒だけで埋葬するのが一般的であった。

 信徒は後で宣教師が巡回してこられた時に、口頭か文書で死亡者名と死亡年月日を報告し、宣教師はその報告に基づいて、本人の洗礼簿に死亡年だけを簡単に記していた。

 しかし、デュラン師は1890(明治23)年から上五島小教区の専用の死亡台帳の記録を始めている。

 その台帳は同年の8月16日から1912(明治45)年8月14日頃までの約22年間の記録となっているが、そのうち明治23年と明治24年の2年間の記録がデュラン師が記したものである。その師が記録した80名の死者のうちには、師から告白と終油の秘跡を授かって安らかに天国へと旅立たれた物故者がかなり(32名)おられる。

 臨終。それは永遠の世界へ入るための決定的な瞬間である。この決定的な瞬間において司祭に来ていただき告白、終油、聖体で身も心も清めてもらい、いつ神の前に立ってもよいように心を整えていく。臨終に至っても全てを神に委ね、心安らかに死んでいく。このために、司祭を呼び祈っていただく習慣が上五島地区で始まったことが確認できるのがデュラン師からである。

 このデュラン師から始まる死亡台帳を見てみると、その行間から病人やお年寄りの友となり、その心を支え神に向かうための旅路のために苦労を惜しまず献身された宣教師たちの姿が彷彿としてくる。

 ここではデュラン師の訪問を受け、立派に死の準備をして神様のもとへと旅立たれた幸運な物故者の中から任意に4名のみを選んで紹介しておく。
 
 
(1)赤波江教会 エリザベト 赤波江フイ
1890年9月18日 48才で赤波江にて死亡
翌日 赤波江教会墓地に埋葬
1890年8月24日 告白の秘跡 デュラン師
1890年8月25日 病人の秘跡 デュラン師
(2)仲知教会 エリザベト イネ
1891年3月11日 74才で仲知にて死亡
翌日 仲知の墓地に埋葬
1891年2月26日 告白の秘跡 デュラン師
1891年2月29日 病人の秘跡 デュラン師
(3)米山教会 トマス 白浜 光造
1891年9月14日 73才で死亡
翌日 米山教会旧墓地に埋葬
1891年9月8日 告白の秘跡 デュラン師
1891年9月9日 病人の秘跡 デュラン師
(4)江袋教会 カタリナ シワ
1891年8月3日 80才で死亡
2日後 江袋共同墓地に埋葬
1891年7月25日 告白の秘跡 デュラン師
1891年7月25日 病人の秘跡 デュラン師

堅信台帳(上五島小教区) 1891(明治24)年

 上五島小教区の信徒は歴代の宣教師たちによって洗礼、聖体、告白、病人の秘跡が授けられ、その信仰は養われたがさらに堅信の秘跡によって強められた。

 堅信はキリスト者に信仰の恵みを述べ伝える使命を与える秘跡である。この秘跡により信者には教会の一員となってキリストを世に証しするという教会の使命を果たしていくための光と力が与えられる。だから自覚のない幼児には洗礼は授けても堅信は授けない。

 児童が自覚を持って福音の光を生きられる頃に授けられる。このように、堅信は信徒の宣教の使命と深く結びついていることから長崎では使徒職の中心である司教から授けられる伝統が今も守られている。

 ところが、上五島の信者は神父発見後、長崎に出向いて洗礼の恵みは受けても、堅信は受けていなかった。明治3年にクザン師が頭ヶ島に来島された時にも、洗礼、聖体、告解、病人、結婚の秘跡は授けても、堅信の秘跡だけは執行していない。

 堅信が上五島で最初に授けられ、受堅者の名簿が上五島小教区の専用の名簿として始まるのは死亡台帳と同じようにデュラン師からである。司式者はクザン司教であり、彼の時代より堅信式は歴代の司教によって定期的に授けられて今日に至る。

 まず、私達は1891(明治24)年よりその記録が始まった上五島小教区の堅信台帳を調査することから始めてみよう。
 
 
 
 

米山教会墓地 赤波江教会墓地

 
 

1、最初の堅信
年月日 場所 受堅者数 司式者
1891(明治24)年
4月11日
(1)瀬戸脇教会
41名
クザン司教
4月12日
(2)江袋 教会
98名
クザン司教
4月15日
(3)曽根 教会
119名
クザン司教
4月16日
(4)大曽 教会
91名
クザン司教

<解説>
(1) 4月11日の瀬戸脇教会での堅信では、野首と米山の受堅生が   含まれている。

(2) 4月12日の江袋教会での堅信では、仲知、赤波江、大水の受堅  生が含まれている。

(3) 4月15日の曽根教会での堅信では、冷水、明松の受堅生の他   に久賀島と頭ヶ島の受堅生(8名)もいた。

(4) 4月16日の大曽教会での堅信では、奈摩内、丸尾、折島、跡次  の受堅生が含まれている。

2、デュラン師の頃活躍された各集落の伝道士と伝道婦の紹介

 最近、堅信の準備はカテキスタ(シスター)と司祭によって行われている小教区は多いと思うが、デュラン師の頃の堅信の準備は宣教師より養成された各集落の伝道士と伝道婦の手によって行われていた。

 そればかりか堅信の代父母も例外はあるが、普通受堅生の準備を担当されたそれぞれの集落の伝道士と伝道婦であることが一般的な習慣だった。

 ここではデュラン師の頃、仲知小教区の7つの集落で伝道士、伝道婦として活躍し、堅信の時には受堅生(教え子)の代父母となった方々を紹介しておくことにしたい。
 
 
教会 伝道士 伝道婦
瀬戸脇教会 瀬戸 長吉 瀬戸 シオ
野首 教会 白浜 トメ
米山 教会 山田 礼蔵
江袋 教会 谷上 仁吉
仲知 教会 水元 作平 井出渕トク
植村 フデ
赤波江教会 赤波江甚右衛門 赤波江トセ
大水 教会 大水 喜助

3、クザン司教とデュラン師の宣教への配慮

 1891(明治24)年度の宣教会年次報告書には、クザン司教とその下にある五島列島の宣教師たちとがどのような司牧と宣教の心得を持って初聖体、堅信等の盛式を挙行していたかが報告されている。


 

 第1の配慮は初聖体や堅信の秘跡をできるだけ盛大に挙行することで、信者の霊的な必要を満たすと共にその熱心な信仰心が冷めないようにすることにあった。

 このため初聖体も堅信もできうるかぎり荘厳なものにし、児童だけでなく親にも深い印象を与え、児童の親として果たすべき義務を思い出させるようにした。

 第2の配慮は異教徒の改宗、特に離れキリシタンへの配慮で、まだ見失われている羊(離れキリシタン)を柵の中に連れ戻すことにあった。

 これらの配慮からデュラン師は単に堅信を盛大に挙行するだけでなく、クザン司教に3ヶ所あった墓地の祝別を依頼し、荘厳に祝別式を執行している。これについてクザン司教自身、宣教会報告書の中で次のように報告している。

 「私がこの春(明治24年4月のこと)行った堅信式の巡回の際、4つの墓地を荘厳に祝別する慰めを得たことを言い加える。これらの墓地の3つはデュラン師の地区(上五島)にあり、他はペルー師の地区(下五島)にある。

 はたからは大した事ではないように思えるが、ここにおいては、大した事なのである。これによって墓に全くキリスト教的な様相を与え、墓を相応しく維持することを可能にする。そして、これはキリスト教徒は墓の世話をしないと非難する理由をなくしてしまう。

(宣教会年次報告 I P262)
外国人宣教師目次へ
トップページに戻る
inserted by FC2 system