キリシタンの復活と迫害


江袋

 江袋にキリシタンが住み着いた正確な年代は分からないが、寛政の頃といわれている。外海の神ノ浦大字中尾から移住したといわれ、最初にこの地に足を踏み入れたのは七右衛門とその妻チエ夫婦だと伝えられている。その子孫は市右衛門、与助、安平とつながり小さな村落から今日のキリシタン集落ができた。

 日本キリシタンの復活は、フランス人プチジャン神父を筆頭とする宣教師たちの命をかけた宣教活動にあった。

 上五島の場合、頭ヶ島のドミンゴ森松次郎がプチジャン神父を訪問、そこで教理を学び帰島して待ちに待ったローマのパーデル到来をひろめたことから、上五島キリシタン復活が始まった。

 宣教師クゼン師が頭ヶ島を訪れたのは明治元年であった。江袋の今野与八なるキリシタンはそこでクゼン師より教理を学び、長崎の大浦へ渡って洗礼を受けて帰ってきた。それに勇気を得た本島五郎八と谷口熊吉も同じく長崎へ渡りプチジャン神父の手厚い指導を受けて教理を学び受洗、帰島後は集落の中心となって伝道につとめ、江袋キリシタン復活に貢献した。
 
 

 やがて明治6年になると信仰の自由が発布され、総流配となっていた浦上のキリシタンたちも続々と帰還してきた。当然五島のキリシタンたちもこれからは大手を振って信仰が守られるはずであったが、僻地の島々では情報が行き渡っていなかった模様で、江袋で迫害が始まったのはなんと1874(明治6)年であった。

 しかし、これは迫害というより迫害に名を借りた郷民による強奪であった。長崎の浦上などでも旅騒動の最中近隣の強欲な郷民が押し寄せわずかな金子を投げ入れてこれはわしが買った、買ったと言い捨て、家具や農機具を持ち去っている。

 中五島の福見では五島近隣で迫害の真っ最中、ずる賢い郷民の幾人かが訪れ、「明日は役人がおまえ達を捕らえに来るという噂を流し、同じ郷民でおまえ達が拷問にさらされるのを見るのはつらい、早く此処を逃げだしてはどうか、と言葉巧みに説いた。

 この度の迫害の厳しさはすでに聞いて知っていた彼らキリシタンたちはその夜、着の身着のままで舟を出して長崎へ逃げだした。郷民たちはそれを確かめたうえ、我先に家財から農機具はもちろん、先祖代々開墾して作り上げた田畑まで強奪してしまった。

 しかし、これはキリシタン禁制の中の出来事であってみれば、その迫害もまたやむをえない面もあったが、江袋のそれは法の上からも紛れもない暴力による理不尽な強奪であった。
 
 長田善八、木村太郎、与吉兄弟に神官の前田周次の4名ら頭目たちは曽根の郷民40人を引き連れて江袋に押し寄せた。
 
 
江袋のキリシタンを迫害した曽根郷民の
頭たちは海上から船で押し寄せてきた。
写真手前が江袋、曽根集落は岬を超
えた所にある

 

 引き出されたキリシタン21名。その中で最も拷問を受けたのは楠本三吉、川端久米蔵、谷上米三の3人だった。彼らは神官たちに言われるままに入れ代わりたちかわり、樫の棒でうち叩かれた。それから椿の生木を3つに割って、その上に正座させるだけでは事足りず、太腿と足の間にも挟んで膝の上にはあごまでつかえるほど大きな石を積み重ねて半日も放置した。
 
 

江袋の信者が迫害を受けた場所 迫害を受けた楠本三吉氏

 3人がぐったりとなったところで今度は麦わらの上に投げて火を放った。そうしてさんざんに虐げたあげく神官が近づき、もっともらしい優しい声をかけた。「このままじゃ死んでしまう。どうじゃキリシタンを捨てて曽根で養生しては」。しかし、彼ら3人は頑として聞き入れなかった。

 その他、谷口初五郎と尾上市松の両名は両手を後ろ手に縛られて、燃えさかる麦藁の上に投げられた。2人はその熱さに転げ回り苦しんだ。他の者も一人残らず呼び出して樫の棒でうち叩き傷を負わせた上、目的だった財産没収を企てた。

 またしても神官はもっともらしい言い草で近づき「おまえ達も気の毒だ、これ以上おまえ達が苦しめられるのを見るに忍びない、どうじゃこのわしが手引きするから今夜のうちにこの村から逃げ出しては」さも親切らしく説き勧めた。

 キリシタンたちも地獄のようなこの拷問についに意を決して村を抜け出し隣村の仲知へ難を逃れた。それを知った曽根の郷民たちは我先に穀物、衣類から家具の一切を強奪して船に積み込んで奔走した。

(キリシタンの復活 浦川和三郎著)

 

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