キリシタンの復活と迫害


野首

 

 野首は上五島の北端に位置する小さな島、野崎島の真中にあって瀬戸脇とならんでキリシタン集落である。何時の時代に住み着いたのか定かでないが、下五島三井楽や久賀島から移住したと言われている。当初長吉という者は他のキリシタンたちのように外海から移住したものであったが耕地に恵まれず、貧困にあえいでいた。
 

 その息子松太郎の代になってあまりの貧乏に耐えられず忠吉と久米蔵の2人の妻子とともに天草の長島へ移住した。と言っても生活の保証があったわけではない。そこに行けば何とかなるその程度の情報で行ってみると、住むに家なく、耕す土地すらなかった。

 やむなく岩窟を住みかとして木の実、海藻、ミナなどを取って生き長らえていたが、続くはずもなく間もなくまた五島へまいもどった。着いたところが野崎島だったのである。
 
 

 はじめ蝿泊まりというところで開墾して生活していたが、猪の多い所で作物が食い荒らされ、収穫がままならなかったので島の中央にあたる野首に移った。この松太郎一家と三井楽から来た一家によって野首のキリシタン集落ができたと伝えられている。1800年代であろう。

 彼らは信仰を守り続けるために祖先の言い伝えにならい水方や帳方をおき、なぜか雪のサンタマリアとサンジョアンをことさら崇敬していた。

 1865(慶応2)年長崎の大浦天主堂で「神父発見」、五島周辺にもその喜びの福音が伝わり、我先にと大浦目指して船出した。現在と違って小さな帆船を操っての渡船であった。それは命がけでもあった。

 野首では水方の弥八と帳方の忠兵衛、幸次郎、船吉が様子を伺いに渡船した。かくれキリシタンたちはそれまでの苦い体験から安易に人を信じていなかった。隣集落のキリシタンたちが見てきたと言っても自分たちの目で確かめなければ信じなかったのである。彼らが渡船したのはローマから遣わされたパーデルであるかどうかの確認こそ最も大切なことであった。

 大浦の海岸に到着してみると彼らがサンタクルス(聖十字架)と崇めてきた十字架が天主堂の尖塔に輝いていた。天主堂にのぼり、プチジャン神父の話を聴き、これこそ伝え聞いた救いの道に違いないことを確かめて島へ帰った。

 集落の総意で、まず神棚に関係のないジョアン忠兵衛、アントニオ長吉、ドメゴス又五郎、トマス岩助、留吉、兼吉の6人を大浦へ派遣して教理を学ばせ、翌年の慶応3年クゼン神父より洗礼を受けた。
 
 

 当時戸主は神棚を奉ることが義務付けられていたため、洗礼を求めるならまずそれを置いてはいけない。宣教師たちの厳しい条件だった。それでは救いの道に入ることができない、といって神棚を捨てては役人たちの目を逃れることはできない。

 幾夜もいくよも衆議をかさねた結果、自分たちの信ずる信仰さえままならないこの国に見切りをつけて、たとえどんな貧乏してでも自由な世界が欲しかった。噂によると朝鮮半島の近海に竹島という無人島があり、その島は何処の国にも属せぬと聞いていた。

 その島は大きな竹が生い茂り、浜にはアワビやサザエが岩の上にゴロゴロしているという。しかし、まだ誰もその目で確かめた者はいない。村で衆議の結果、野首の長吉、留五郎、忠兵衛、瀬戸脇の弥八、幸次郎、丸尾の鶴松6人が探検隊として選ばれた。

 6尋1尺の船をしたてて出航することになった。持参したもの望遠鏡、羅針盤、鉄砲4挺、それに食料、酒5升。時に明治元年、夏の終わりであった。

 役人の目を逃れて夜中ひそかに野首の浜を乗り出した。夜が明けてみると岐宿の沖合いに浮かぶ姫島がはるか後方に見えた。2日目には朝鮮の島影がかすかに見えた。それから2昼夜追い風に帆をふくらませて走り続けた。

 ところが、明け方近く浅瀬に乗り上げた。縄を下ろして測ってみると9尋程しかない。どうやら方向を間違えたらしい。地理にうとい彼らは東北の竹島のつもりが西北の朝鮮海に入ったらしかった。

 こうなると何処に向けて船を走らせればいいのか見当もつかない。ままよとばかり、風の向くまま沖へ沖へと向かった。浮遊物が見つかると島か陸が近くにある証拠だと誰かが言い出した。漂流すること数十日。もはや食料も尽きて網具をしゃぶって命をつないだ。
 
 

 そうしてやっとたどり着いた所は薩南宝七島というところだった。島の人たちは親切だった.。100日近くも世話になり、やがて鹿児島へ。鹿児島藩から平戸藩へ移され、役人の一声でちょうど長崎行きの船が出港しようとした矢先だったのでそれに乗せてもらい長崎の茂木港で降ろしてもらった。それから一向は陸路山越えして大浦天主堂に向かった。

 野首のキリシタンが自由な住みかを求めて冒険に出た、という話は、プチジャン神父も聞いていたから、彼らの突然の訪問に驚いた。「五島ではあなた方はすでに死んだものとして仮葬式もすませている。天主堂でもあなた方6人のため死者のミサを捧げて、すでに半年近くになる。早く帰って家族や村人対を喜ばせなさい。」

 プチジャン神父はそう言って十字架やメダイをくれて帰した。その夜は浦上に行き一本木の守山甚三郎を訪ねた。夜中のことである。雨戸を叩いて「野首の長吉」と名乗ると中から声がして、「野首の長吉が死んだのはいつのことか」と取りあってくれない、事情を詳しく話してやっと家の中に入れてもらった。

 翌朝、長崎から便船に乗って野首に帰ってみると、どの家にも檀那寺の命令とかで位牌を祭っている。まことの信仰を守りたいばかりに命がけで困難、苦難の旅から帰ってみるとこの有様。彼らは怒りにふるえてその位牌を投げ捨て、焼き捨てた。
 
 

現在、野首集落はダム工事
建設で7割方消滅している。

 

明治2年4月のことだった。

 野首の居つきたちがキリシタン宗門らしいという噂が野崎や小値賀島に流れたのはその年の秋、9月だった。それを調べに僧侶たちは役人を引き連れてやってきた。それと知った野首のキリシタンたちは村中の仏壇神棚はもちろん位牌に至るまで残らず集めて彼らの目の前で焼き捨てた。

 役人たちはその灰を証拠物として持ち帰った。もとよりキリシタンたちは覚悟の上であったから信仰のために迫害されることをいさぎよしとして心の準備を怠らなかった。

 はたせるかな10月6日の朝、小値賀の役人たちが押し寄せ、男達全員を縛り上げ、庄屋へ引き立てた。しかし、貧乏百姓の徒輩ごときがと、甘くみくびっていた役人たちは彼らの物おじしない、むしろ毅然とした態度に気後れしたのか一切の手出しはしなかった。

 ただ物置小屋に筵を敷いてそこに座らせた。それはよかったが、2日たち3日たっても取調べがない、ついに10日もそのまま捨ておかれた。火責め、水責め、算木責め、ありとあらゆる拷問を下五島あたりではしていると噂に聞いていた。

 そして彼らも覚悟の抵抗であったのに何の沙汰がないことにむしろ不安が募った。その時、捕らえられたのは瀬戸脇キリシタンも一緒だった。後に婦女子全員捕らえられ小値賀送りとなった。その頃戸数にして野首8戸、瀬戸脇7戸の50数名であった。
 
 

現在も保存されている東側の野首
集落風景

 この野首の8戸というのはすべて最初に移住してきた長吉、ヨネの子孫で2人の間に松太郎と常平が生まれ、キリシタン復活と迫害はその2人の息子の代であった。
 
 明治6年信教の自由となり、苗字、帯刀の時代となり、松太郎一族は東海岸の白い砂浜の美しさからとって、その苗字を白浜(白濱)と名乗った。そして時の流れの中で一族は分家に分家を重ねて集落が形成されていった。

 しかし、すべてが自給自足のこの小さな島のまた小さな集落。傾斜ばかりの狭い痩せ地ではどんなに開墾してもたかが知れていた。麦の後には芋を植え、その収穫が終わるとまた麦を植え、それが主食の原料となった。

 芋からカンコロを作り保存食とし、麦飯はめったに口にすることが出来なかった。正月とお盆とお祝日だけの麦の中に米を入れた半麦飯が最高のご馳走であった。副食はジャガイモ、カボチャなど。

 しかし、海岸の集落は海の恵みにあずかった。イワシ、サザエ、アワビ、アラカブなど現在なら贅沢な魚介類に恵まれていた。しかし、生活に必要なものは何といっても現金である。その手段として村人は牛を飼い、農耕のほかにその牛に小牛を生ませて、ある程度成長してから売りに出していた。それがこの村唯一の収入源であった。
 

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