キリシタンの復活と迫害


仲知

 野首のキリシタンたちが長崎の大浦天主堂でパーデルに間違いないことを確かめ、洗礼を授かってきたという話は仲知にも早くから伝わっていたが、用心には用心を重ね、ようやくにして真浦栄吉が大浦天主堂で数ヶ月滞在して教理を学び、洗礼を受けて帰ってきた。

  信仰に燃えた栄吉は帰島するや、家にあった仏壇や神棚を叩き壊して捨てた。それと知った役人たちは大挙して集落へ乗り込み、栄吉とその妻ユリ、父の栄作に息子2人を捕らえて小値賀へ連れ去った。それを目の前にして仲知のキリシタンは信仰と怒りに燃えて、自家にあった仏壇、神棚のすべてを叩き壊して海中へ投げ捨てた。

 こうなると当然栄吉たち同様捕縛は必至とみてある者は捕まってたまるかと島を逃げだし、ある者は山中に逃げ込むなどした。村に残ったもの、島本貞吉、谷中勇吉と妻サト、真浦才吉、真浦長八、久志セキ、山下エモ他30余名は捕らえられて小値賀送りとなった。


 

 そこで野首、瀬戸脇のキリシタンとともに10日ばかり拘束されて平戸藩へ護送された。平戸では男達は監獄に繋がれ、婦女子は中ノ崎の長屋に留置された。

 その後、野首、瀬戸脇のキリシタンとともに毎日ひとりずつ呼び出され寺の庭先に据え置かれ「キリシタンを辞めぬか、キリシタンを捨てろ」と厳しく責められたが誰ひとり転ぶ者はいなかった。そこで、当時拷問の手段であった算木責め、火責め、棒叩きが始まる。

 仲知のキリシタンで、最も残酷を極めたのは真浦宋作と栄吉親子、谷中勇吉、島本貞吉だった。彼らが気絶すると水をかけ、息を吹き返すとまた青竹が割れるほど叩いたという。

 ある日、白浜岩五郎とその妻フジ、芳松、岩助、セオの親子が寺に引き出された。セオはまだ7才だったので炭俵の上に据えられたが他の4人は柱に繋がれ、11月も半ばというのに一昼夜捨ておかれた。
 
 満足な食事も与えられず、くる日も、くる日も拷問につぐ拷問に、いかなる強靭な信仰をもっていたとはいえ限度があった。わけても空腹に泣き叫ぶ幼い子供たちのふびんを思うと、親たちの心も弱くなった。

 ついに、ひとり転び、二人転ぶうちに正月も過ぎた頃には全員が改心を申し出てそれぞれの郷里に帰っていった。ただ狡猾な役人たちは、働き盛りの青年男女だけは残して、侍屋敷で苦役をさせたという。

 教会で殉教者として公にされないまでも、五島キリシタンたちの中には教えに殉じた者が少なくない。250年、指導する司祭もいなければ秘跡に与ることも出来ない。伝承だけを頼りに続けてきた信仰生活の中から、どのようにして霊的力を得てきたのか、この殉教者たちの信仰の歩みをたどる時、そこに神の計り知れない摂理を感じる。

 やはり彼らは真理の道を証するために、特別に選ばれた民だったのか。今日、五島一円に点在する見事な教会と、熱心な教会発展をみる時彼ら聖者たちの遺産を見る思いである。

 瀬戸脇の幸次郎は集落の皆が捕らえられて小値賀送りのその時、あいにく病臥していた。さしもの役人もその衰えた病体をみかねて容赦して手をかけなかった。すると幸次郎は、役人に弱りきったか細い声で訴えた。

 「独り残っても死ぬ、連れて行かれても死ぬ、同じ死ならデウスのため獄内で死にたい」そう申し出て同道を許された。はたせるかな平戸まではついて行けたものの、そこで日ならずして息を引き取った。獄卒はその遺体の髪を手づかみにして牢より引きずり出して俵に詰め込み、川原の藪の中に埋めたという。

 
 

小値賀

殉教者、福者アウグスチノ太田

 聖フランシスコ・ザビエルが日本に来た翌年の1550年、平戸では早くもキリストの教えが次第に広まっていた。

 現在の仲知小教区は当時平戸領であったが、中でも小値賀の離島、納島は最も熱心なキリシタンとなった平戸の重臣篭手田の治領であったため、領民のほとんどがキリシタンになったといわれている。小値賀本島でも1566年には宣教師によってキリスト教の学校が設けられ、キリスト教的教育が行われており、前方地区には教会もあり、半数がキリシタンであったようである。

 アウグスチノ太田が納島に生まれたのは、この頃であると思われる。彼は幼い頃から、ある寺院で教育されたようだが、15才で両親とともに下五島に移ってから、洗礼を受けている。その地のキリシタンの殿が太田だったのでそれを自分の姓にして、しばらくそこの教会の看坊として忠実に働き、人々の模範になった。

 その後、迫害のため教会が破壊されたので妻子と共に長崎に移った。ここで妻と死別。その後の20年間は迫害下にあった平戸の信者達に説教や訓話など伝道につとめ、信者たちの信仰を強めた。彼は貧しかったが、より貧しい人々に自分の持ち物を惜しげもなく分け与えて助けた。
 
 
小値賀

 その頃、イタリア生まれのカミロ・コンスタンツオ神父が平戸に来た。神父は前にマカオに追放されたが、日本人を忘れがたく和舟で潜入したのであった。そして、平戸各地の島々を巡回して迫害に苦しむキリシタンたちを慰め励ましていた。

 1622年のある日、太田はカミロ神父たちと共に、生まれ故郷の納島を訪ね3日間逗留した。その間、神父と修道士ニコラス、伝道士ジョアン坂本左衛門らは宇久島のキリシタンを励ましに行ったが、そこで訴えられて捕まった。それに続いて納島に残っていた太田とガスパル篭手田、それに宿主らも匿った罪科で捕らえられた。

 一同は一度壱岐の牢に入れられた後、神父、太田、篭手田の3名は平戸に護送され、それから再度また壱岐郷ノ浦の浜辺にあった牢に入れられた。六畳一間の粗末な仮牢であった。そこで太田は熱望していたイエズス会の修道士として入会が許された。

 その翌日、1622(元和8)年8月10日、牢の前の浜辺に連れ出され神父たちの目前で殺された。太田は殉教の喜びにあふれ、役人たちの抜いた刃も恐れることなく、自ら首を差し出して斬られたという。その遺体は海に捨てられた。

 尚、カミロ神父は9月15日、田平の焼罪で火あぶりになり、先の篭手田の子孫と思われるガスパル篭手田らは長崎の西坂で処刑され、納島に船を漕いで渡した生月の武士ジョアン坂本は宿主ダミアンと共に5月27日生月の中江ノ島で首を斬られた。

舟森の最初のキリシタン――――――――――――

 小値賀の本通りに「田登美」という民宿がある。今年(平成10年)喜寿を迎える田口多美さんがそこの女主人である。パートの人に来てもらう他は、店と民宿をひとりで切り盛りしている頑張りやさんである。

 多美さんの曾祖父に田口徳平治という方がおられ、江戸時代の生まれで明治13年まで生きておられた。多美さんは、父親から聞いた話として次のように語ってくれた。

 「祖父の徳平治はある日、いつものように船で海産物などを運んでいった帰り道、浜辺で3人の男の人が泣いているのを見た。事情を聞いて可哀相に思い、網の下に隠して連れ出した。途中で取り調べの役人が、網の上から槍で何度も突いたが、幸い見つからずにすんだ。小値賀に着くとすぐ延命寺の檀家として名を届け、舟森に住めるようにした」と。

 また「舟森の人たちは毎年2回、春と秋に各戸で収穫したものを集めて持ち寄ってくれていた。椿油、麦、大根など」「小学1年の時、近所から出火して大火事になった。その時も舟森の人たちが夜中に船を漕いで助けに来てくれた」。

 この多美さんと今でも懇意にしている瀬戸国作さんは、舟森に生まれ最後に小値賀に引き上げた人で、唯一小値賀での生き残りの長老である。その国作さんの曾祖父にあたらミギル十造という人が、徳平治さんに助けられた3人のうちの1人である。

国作さんは語る。

 「私の曾祖父は牧野から来た、と父から聞いている。早岐の近くの牧野で、そこは自分も何度も船で通ったことがあり、海に面したところであった」と。

 早岐には早くから「茶市」が立っていたということなので、徳平治さんはそこに荷揚げしての帰りに3人を見出したものと思われる。
 
 

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