フレノー師

1885(明治18)年〜1888(明治21)年


フレノー師

 

 1885(明治18)年、フレノー師が再び上五島地区の責任者として着任された。この年は、上五島地区の信徒にとって二重の残酷ともいえるほどの試練を受けた。それは信徒発見の父として敬愛されていたプチジャン司教が世を去ったからである。

 それにも増して深い悲しみだったのは、ブレル師が殉職されたことである。この年も、鯛ノ浦を拠点として上五島地区の教会を巡回司牧し、多忙な日程を順調にこなしていた。

 同年1月は曽根を巡回、2月は米山を巡回、3月は江袋を巡回、4月は鯛ノ浦を巡回し、長崎の宣教会本部に出かけていた。ところがその時、上五島に急病者がでたのである。

 日頃から臨終の病人の秘跡の重要なことを諭しておられた師は、明治18年4月16日、西彼杵外海の出津から迎えの和船に乗り込み、病人の待つ上五島へと向かった。しかし、不運にもその日の五島沖の海上はにわかに大時化となり、師が乗船していた和船は平島付近で遭難し、12人の若い信徒と不慮の死を遂げられた。時に年齢38才。

 日本布教9年の若さであり、そのうち上五島での司牧宣教は丸4年だった。しかし、神は上五島全体の二重の悲しみを非常に大きな2つの喜ばしい出来事によって和らげてくださった。

 1つはクザン師の司教叙階である。師は明治18年6月16日付のローマ教書によって日本南緯代牧区長に任命された。叙階式は同年9月21日、聖マタイの祝日に大阪で行われた。クザン司教は上五島のキリシタンを最初にカトリックに改宗させた宣教師であった。

 明治3年2月と4月、プチジャン司教の命により上五島へ渡航し宣教した。日本人に変装し頭ヶ島の伝道士、森松次郎が手配してくれた民家で密かに要理を教え、洗礼、告解、聖体、結婚の秘跡を授けた。2回目に渡来された時は、江袋の今野与八等もクザン師の指導を受けた。

 もう一つの慶事は、フレノー師が同年4月再度ブレル師の後任として、上五島地区当司祭となったことである。

伝道学校の充実

 フレノー師の着任後の最初の仕事は、既に江袋と仲知にあった伝道学校の生徒を養成し、充実させることであった。このため、前任地の大分から上五島地区への赴任の時に男子の教師を1名連れて来られた。1888年の宣教会の年次報告書でフレノー師自身、江袋と仲知の伝道学校について次のように書いている。
 
 
仲知伝導学校

 「北部には8つの小学校の他に種類の違う学校が2つある。それぞれ12人ほど養うに足るだけの畑を持っている。その目的は男子と女子の小さな会を作ることにある。すなわち、どちらの会も自活の道を持ちながら未信者と離れキリシタンへの布教のために一段とよく教育され、準備された伝道士、伝道婦がいつでも宣教師たちの手元にいるようにすることである。

 この学校はまた、伝道士達の老人の家としても使うことになっている。生涯を信者達への奉仕に使い果たした後、身体の自由が利かなくなった彼らが家族に負担をかけないためである。

 彼らは手仕事、魚釣、耕作で生計を立てているが、まだ私が自分の財布から援助を与えなければならないということも言い添えなければならない。税金を納め、道具を買い、本もいくらかは要り、創立当初の家に必要なものはこの他にもたくさんあるので今のところ彼らが自分たちだけでやっていくのは無理なのである。」

(宣教会年次報告 I P156)
小神学校の設立 1886(明治19)年

 フレノー師は伝道学校だけでなく異教徒と離れキリシタンへの宣教者を養成するため小神学校の前身となるような学校を江袋に設立された。しかし、男子の伝道学校と同じようにその存在を確かめる資料は乏しい。

 ただ、気になることとしていえば、浦川和三郎著「浦上キリシタン史」の中で、浦上の神学生として紹介されている真田善之助(1854年生まれ)と同姓同名の人が小神学校設立時に江袋に居住していたということである。しかし、彼にしてもフレノー師が江袋に設立した小神学校の神学生であったのかどうかを確かめる資料はない。

 小神学校設立に関しては、フレノー師自身の報告をそのまま引用するにとどめておきたい。

 「この地区に着任してすぐ彼は江袋に選り抜きの少年を数人集めて小神学校のようなものを始めた。豊後(大分)から一緒に来てもらった日本人に彼らの教師を頼んだ。奇特な人々がいくばくかの土地を寄贈してくれるので、この事業が誰の世話にもならずに自活していけたらと希望している。
 
 

 生徒達は祭壇の奉仕にあたり、聖務日課を歌誦している。今教師が非常に不足しているので間もなく彼らが祭壇に立つ姿を見ることができるだろう。また、地区の異教徒の村々を巡って福音を述べるだけの資格を持った伝道士にもなれるだろう。」

(宣教会年次報告 I P120)


結婚台帳 1886(明治19)年

 上五島小教区で専用の結婚台帳の記録が本格的に始まるのは、明治27年以降となる。しかし、フレノー師の時(明治19年)から教会で有効に授けられた結婚(秘跡)の記録が教会籍に記されるようになる。彼がその在任期間の4年間(明治18年から明治21年)に授けた結婚で教会籍に記されている仲知地区の夫婦名は次の通りである。
 
 
明治18年 大水三之助・サキ夫婦
大水又吉・スヤ夫婦
明治19年 白浜円吉・ミツ夫婦(野首)
明治20年 赤波江次三郎・スナ夫婦
久志要作・ミチ夫婦
山田宇蔵・スナ夫婦
明治21年 楠本三吉・タミ夫婦
本島忠助・サキ夫婦
谷口栄吉・キヤ夫婦
大瀬良佐蔵・ヤセ夫婦(赤波江)
白浜茂三郎・ユキ夫婦(米山)

 これらの夫婦11組は、上五島小教区の教会籍の結婚の欄に結婚年月日のみが記されている。しかし、この教会籍は結婚台帳ではないことから、場所、証人、執行者名はわからない。

 それから、より重要なことは明治19年フレノー師がその記録を始めた上五島小教区専用の結婚台帳があることである。これはフレノー師が当時のクザン司教より結婚障害の免除を受けて教会で有効に結婚させた信徒の夫婦の記録で、28組の夫婦が記されている。



 この台帳を見ると結婚の障害は、すべて血縁による障害となっている。また、血縁の障害の免除を受けてフレノー師より結婚の秘跡を授けていただいた仲知地区の夫婦は6組となっている。(明治19年は野首に1組、明治20年には仲知に2組、野首に1組、明治21年は江袋に1組、野首に1組)

 これらの結婚の記録がフレノー師から始まっていることの意義は何かというと、フレノー師が洗礼、初聖体、堅信、告解と同じように、結婚を7つの秘跡の1つとして大切にし、信徒を指導されたことの印であるといえよう。

 このように、師が結婚を教会の秘跡として大切にされたことの背景には、改宗前のキリシタンの結婚倫理が長い迫害の間に異教徒の影響を受けてかなり緩んでいたということを考えなければならない。上五島地区のキリシタンの結婚倫理はかなり廃れていたことはその頃の資料によって確認できる。

 つまり、離婚、重婚、不義の子の出産等が資料のあちらこちらに散見できる。この上五島地区のキリシタンの結婚倫理の低さは「五島キリシタン史」にも記されている。

 明治3年4月クザン師が頭ヶ島に来島された時のこと、ひとりの婦人が師に面会をしてはらはらと涙を流しながら「救けて下さい。私は離婚しております。秘跡は受けられません。しかし、何とかしてお救いください」と願っている。このケースなどは要理の勉強でキリスト教の教理がわかってくると、魂の救かりに対する飢えがにわかに生じ、その結果、結婚の倫理が清められたからだといえる。
 
 

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