仲知

 仲知には西側にある島ノ首、真浦、久志の3つの集落と東側にある一本松、竹谷の2つの集落を合わせると5つの集落がある。明治14年11月にブレル師が作成した仲知小教区の洗礼簿によると、これらの集落への移住開拓者は全員が西彼杵郡外海地方から直接、或いは、立串、小串を経由して移住開拓した、いわゆる間接移住開拓者であり、全員がキリシタンであった。

 しかし、集落によってその移住開拓年と移住開拓者が異なっている。同洗礼簿によって調査した限りでは、これらの集落の開拓の歴史は島ノ首、真浦、久志、一本松、竹谷の順で始まっていることが確認できる。

 そこで、仲知の5つの各集落の移住開拓の歴史の説明もこの順序に従って行うことにしたい。


 

1、島ノ首

 仲知は生活条件の悪い、人里離れた辺ぴなところだが西彼杵・外海地方からの移住キリシタンが迫害の最中、信仰を守るため隠れて住むのには絶好の土地であった。

 「五島キリシタン史」によると、この地に最初に移住したキリシタンは西彼杵・黒崎村の島本与治右衛門・ツヤ夫婦で海岸に海草が打ち寄せられていることが移住の決め手となったと書かれている。

 その土地とは、現在の長崎教区長・島本要大司教の先祖の集落である島ノ首という所となっている。そこで編者はいつものように、仲知小教区の古い洗礼簿と教会籍を基本資料として調査してみた。
これらの資料によると、島ノ首への移住開拓夫婦は6組で、移住年を基準にすると、第一次開拓夫婦と第二次開拓夫婦とに分類できる。
 
 
島の首

 第一次開拓夫婦は島本与治右衛門・ツヤ夫婦、島本与治平・シマ夫婦、島本宇吉・トメ夫婦の3夫婦で、その共通の特性は早い時期(1810〜1820年)に、西彼杵、外海地方から移住した夫婦であるという点である。

 第二次開拓者夫婦とは、島本岩蔵・スエ夫婦、島本栄蔵・ヨネ夫婦、島本亀蔵・ツヨ夫婦の3夫婦で、その共通の特性は立串と小串を経由しての間接移住夫婦であり、このために島ノ首への移住年も第一次移住開拓夫婦に比べると遅くなっていることである。
 

 
 上記の系図が仲知(島ノ首)の最初の開拓夫婦、与治右衛門・ツヤ夫婦の正しい系図で「五島キリシタン史」で紹介されている系図は2組の夫婦の系図が組み合わされていて誤っている。しかし、この夫婦の子孫は第5世代(1920年代)になって長崎へ移住している。
 この夫婦も島ノ首第一次開拓夫婦であるが第4世代(1930年代)になって転出している。転出先は不明。
 
 この夫婦も島ノ首の第一次開拓夫婦で、現在島ノ首に在住の島本勘次郎氏の先祖である。洗礼簿を見て判断する限り、この夫婦は真浦の浜の開拓も試みたらしく、1880年代には現在仲知修道院が所在している付近の番地は彼の次男植村五郎作の所有地となっていた。

 しかし、この土地は彼が1885(明治18)年10月に死亡すると彼の妻植村エモによって、セシリア修女院の共同体に寄付された。この番地は一等地であり、この番地を開拓したのは植村五郎作・エモ夫婦の親、島本宇吉・トメ夫婦ではないかとみられる。

 島本宇吉・トメ夫婦の長男植村十郎(1831年生まれ)は1858年頃、真浦の山手の開拓夫婦真浦善吉・ミキ夫婦の長女真浦ヨシ(1834年生まれ)と結婚、2人の男の子と3人の女の子に恵まれる。

 三女の植村フデ(1875年生まれ)は伯母に勧められ、セシリア修女院の初期会員となっている。尚、長男植村宇蔵(1859年生まれ)は現在、真浦に在住している植村和則氏の曾祖父にあたる。

 島本宇吉・トメ夫婦の三男島本栄助については、その信仰体験が子孫に伝承されている。
 


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