2、真浦

 真浦の開拓は島ノ首と同じように第一次開拓と第二次開拓とに分類できる。第一次開拓夫婦は真浦与助・ナツ夫婦と島本宇吉・トメ夫婦で1820年代に真浦の浜を開拓したのではないかとみられる。一方、第二次開拓夫婦は真浦栄作・トメ夫婦と真浦善吉、ミキ夫婦で1830年代の初め頃、真浦の山手の開拓者となった。


 

 第一世代の真浦与助・ナツ夫婦の仲知への移住年については、いつ頃だったのか知る手がかりはない。当時の洗礼簿を見るかぎり、第二世代真浦清吉の妻である真浦フイは野首の開拓者白浜松五郎・スナ夫婦の娘で1813年に仲知で生まれたことになっている。

 真浦清吉の長男真浦岩五郎は1870(明治3)年頃、真浦の浜に住んでいて水方という役職についていたが、1910年代に平戸へ移住した。
 

 上記の家系譜を見てもわかるようにこの真浦一族は、第一世代の長吉・セノ夫婦の時に西彼杵・神ノ浦から丸尾に移住し、その後、子供(栄作と善吉)の代になってから丸尾に移住している。真浦への移住は1820年代の後半から1830年代の初め頃だったようである。
 

 
 

 この真浦一族は真浦の山手の開拓者であったが、仲知では真っ先に信仰を公表し信仰に燃え立ち、仲知教会の発展の推進力となったことは「五島キリシタン史」に紹介されている。

 さらにこの一族からは、聖職者と修道者が多数輩出し、真浦家の存在なくしては仲知の司祭と修道者の召し出しの歴史を語ることはできない程である。

 ここでは、上記の家系譜略に登場する真浦栄吉・ユリ夫婦、真浦才吉・トセ夫婦、谷中勇吉・サト夫婦の3組の家族に限定して簡単に修道者の紹介をしておくことにしたい。

マグダレナ・谷中 セヨ

 1863年、谷中勇吉・サト夫婦の長女として仲知に生まれる。17才の時に不幸な事件に巻き込まれて苦しい人生体験をした。しかし、それを生かして生涯薄幸な子供の救済と教育事業に献身した。

マリア・真浦 オモ

 1862年(元治元)年、真浦栄吉・ユリ夫婦の次女として仲知に生まれる。明治15年20才でセシリア修女院に入会し、同士の会員たちと共に修道生活の基礎を築いた。

カタリナ・真浦キミ

 1868(明治元)年、真浦才吉・トセ夫婦の長女として仲知に生まれる。洗礼は1879(明治12)年8月2日、フレノー師より受ける。1885(明治18)年頃、セシリア修女院の最初の会員となる。

カタリナ・真浦ソノ

 1873(明治6)年、真浦才吉・トセ夫婦の三女として仲知に生まれる。1880(明治13)年10月29日、ブレル師より洗礼を受ける。セシリア修女院会員の真浦キミは実姉、修女院の最初の母体をつくった真浦ナルの養女で昭和2年セシリア修女院の4代目の院長に選ばれた。彼女の時から修女院入会者は真浦姓となる。

セシリア・真浦シオ

 1906(明治39)年真浦武次郎・ウキ夫婦の次女として仲知に生まれる。真浦栄吉・ユリ夫婦の孫。セシリア修女院の会員であった彼女は、仲知の伝道学校で教師として教会に奉仕した。
 
 

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