3、久志


 
 

 仲知の歴史は島ノ首と真浦の浜を開拓したキリシタンによって始まるが、この2地区の開拓後間もなくして、1830年代に久志と真浦の山手の開拓が行われた。

 久志の開拓については、久志の長老久志半助(82)氏が実父久志磯吉(明治3年仲知生まれ)から聞いた話として3家族によって行われたことを伝承している。

そこで編者はもっと正確な情報を探るために彼の協力を得ながら資料の調査を試みた。その結果、久志の開拓は種蔵・エノ夫婦、亀蔵・ツヨ夫婦、末五郎・タオ夫婦の3組の夫婦により行われていることが判明した。
 


 

 この家族は隣村江袋からの移住家族で第2世代の種蔵・エノ夫婦には、4人の男の子がいたが、そのうち三男甚吉と四男熊吉は仲知に移住後、仲知で生まれている。

 長男勇蔵は江袋のタキと結婚し江袋に残り、田端姓を名のる。(勇蔵の息子、田端勇吉は濱口種蔵の実父にあたる)次男吉蔵と四男熊吉とは分家後、水元姓を名のる。

 次男水元吉蔵・セツ夫婦の次男水元作平とその長男水元喜蔵親子は、2世代にわたり生涯仲知教会の伝道士として大活躍された。水元喜蔵は現在、久志に在住している水元栄(84)氏の伯父にあたる。

  この家系は第2世代の亀蔵・ツヨ夫婦の時(1830年代)立串から久志に移住し、その開拓者となる。

 1836年、仲知生まれの長男久志佐蔵は仲知の井出渕セキと結婚し男の子3人と女の子1人を授かる。長女フミは明治3年迫害を受けた平戸で出生し、次男久志久米五郎は立串の中学を卒業後、仲知で子供に読み方を教えると共に伝道士としても教会に奉仕した。
 

 
 この家系も第2世代未五郎・タオ夫婦の時(1830年代)に立串から久志に移住しその開拓者となる。この夫婦の長男井出渕茂助(1836年仲知生まれ)は1858年頃、江袋のリエと結婚し7人の子供に恵まれる。

 明治2年、家族で長崎へ出向き、ローカニュ師より受洗しカトリックに復帰した。帰郷後、宿老(会計)となり、フレノー師、ブレル師等の歴代の宣教師に奉仕した。「五島キリシタン史」では、冒険心と行動力のあるさばけた人として紹介されている。

 尚、次男井出渕助吉(1873年生まれ)と次女井出渕トク(1863年生まれ)は、教え方として仲知教会に奉仕した。
 

新開きの開拓

 久志と一本松の間に、土地の信徒が早い時期より新開きと呼んでいる地域がある。この地域は現在久志集落の一部となっているが、ここも仲知の信者によって開拓された。しかし、新開きと呼ばれているように、ここは他の集落よりかなり遅れて(1870年頃から1885年頃まで)開拓された。

 ここの開拓移住についても久志半助氏の協力を得て調査したので、下記に開拓夫婦名5組を紹介しておくことにしたい。
 

 現在、新開きを開拓した5家族の子孫は2を除けば仲知にはいない。
  

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