5、東竹谷


 

 
 竹谷は東竹谷と西竹谷とに分けられているが、開拓の歴史は東竹谷の方が古い。その東竹谷の開拓を試みた夫婦は竹谷喜蔵・ミツ夫婦である。洗礼簿には竹谷喜蔵・ミツ夫婦の霊名と誕生日のみが記され、父母と祖父母の名は記されていない。

 そこで編者は昭和20年代からの信徒の三代調をよりどころとして竹谷家の先祖調べを試みた。この信徒の三代調は信者が結婚の時に先祖を調べて主任司祭に提出したものではあるが、書かれた年代が遅いので資料としての価値は低い。その上、信徒の三代調は同じ竹谷家の先祖のことであっても人によって異なっていて統一された先祖調となっていない。

 読者には竹谷家の先祖調において、このような欠陥があることをご了解いただきたい。

 さて、パウロ竹谷喜蔵の親は他のキリシタン集落のキリシタンと同じ様に西彼・大野から立串に移住した。洗礼簿に竹谷喜蔵は1819年に生まれたと記されているので、その親の立串への移住はかなり早い時期のことであったようである。

 成人した竹谷喜蔵は立串のキリシタン・ミツ(1826年生まれ)と結婚し4人の男の子(時蔵、偵蔵、佐吉、富蔵)と3人の女の子(ミネ、ミキ、サツ)に恵まれる。


 

 しかし、明治に入ると若松村桐古里から始まった五島崩れが燎原の火のように立串にも広がりやむなく土地と家を残し、親、兄弟が3隻の船に乗り込んで平戸や黒島方面へ逃げた。

 しかし、行き着く所で迫害を受け行くあてもなく各地を転々としているうちに親、兄弟は別れ離れとなり、喜蔵・ミツの家族は竹谷に流れつき、竹谷家の元祖となった。この一族離散の話は、次男竹谷偵蔵の長女竹谷リエシスター(1886(明治19)年生まれ)が生前に語った話として「鯛ノ浦修道院100年の歩み」に紹介されている。

 さて、この竹谷喜蔵・ミツ夫婦の4人の男の子の内、長男竹谷時蔵(1845年生まれ)は立串のマリア・カオと結婚し、一本松へ移住、三男竹谷佐吉(1852年生まれ)は米山の竹谷シオと結婚し米山へ移住、四男竹谷富蔵(1867年生まれ)もマグダレナ・サキと結婚し米山へ移住、次男偵蔵(1850年生まれ)が竹谷へ移住してきた真倉ツヨと結婚し親の跡を継いだ。

 長女竹谷ミネ(1846年生まれ)も隣家の真倉喜助・セリ夫婦の長男真倉喜十(1852年生まれ)と結婚し真倉家の元祖となる。(真倉喜十・ミネ夫婦は、島ノ首在住の真倉好栄の曾祖父母にあたる)

 次女竹谷ミキは大瀬良に嫁ぎ、三女竹谷サツは、セシリア修女院の会員となった。尚、四男竹谷富蔵の四男竹谷音吉師は、長崎教区司祭、次男竹谷偵蔵の孫竹谷冨士雄師は、大阪教区司祭である。 

 その後、竹谷家の子孫は一本松から米山までの海岸線に沿って縦横に広がり、仲知小教区では最も多い戸数を誇り、大きな竹谷一族を形成している。

尚、仲知小教区には竹谷喜蔵・ミツ夫婦の他に同じ竹谷姓を名のる家系があと2組ある。1組は曽根から東竹谷の山手に移住しその開拓者となった竹谷松五郎・ジヨ夫婦(竹谷末雄氏の曾祖父母)で、もう1組は瀬戸脇から米山へ移住した竹谷作太郎・キセ夫婦(竹谷清作の曾祖父母)である。

 この竹谷作太郎・キセ夫婦は竹谷の開拓夫婦、竹谷喜蔵・ミツ夫婦とは血縁関係はない。しかし作太郎・キセ夫婦は養子縁組によって竹谷姓となったのではないかといわれている。

 
 

1866年野首生まれの白浜半次郎は白浜利八とユマの次男。18880(明治13)年4月22日、フレノー師より洗礼を受ける。1890(明治23)年4月14日、野首教会で奈摩内のマリア・エキと結婚。その後分家して西竹谷に入植する。

 入植後、2人の男の子と5人の女の子に恵まれる。彼の姪にあたり、現在仲知(竹谷)に在住の竹谷アキノさん(68)の話によると職業は半農半漁で人助けとしてやぶ医者もしていた。

 病院が近くにない時代のことで、信者は軽いケガとか病気の時は彼に診てもらっていた。奉仕を原則としていたが、無免許の営業だった関係で警察の調査を何より恐れていた。

 世話好きな人柄だったこともあり、友人、知人、親戚の人の訪問客が絶えることがなく、貧しい生活ながらも家の中はいつも子供とお客で賑やかであった。

 出身地の野首では、夕食後家族でロザリオ信心をしている時、異教徒の集落から突然訪問客があったりすると手にしていたロザリオは茶わんの中にそっと隠して用件を済ませていたという。

 彼の手によって開拓された西竹谷は、一時7戸ばかりになっていたが、昭和40年代から過疎化が進み、昭和52年に廃村となった。
 

その他の移住家族の紹介

 
 

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