6、赤波江

 
 赤波江教会には、貴重な資料としてマルマン師が明治10年7月、初めて赤波江教会を巡回した時の洗礼簿がある。その洗礼簿を調査することで、ある程度赤波江への移住夫婦名と移住年月日の把握ができる。

 現在、赤波江集落の中央部に位置している所に赤波江教会があるが、この教会を目印にするなら北側は平坂、南側は灘瀬の元、教会が所在する中央部は、谷の坂と呼ばれている。

 洗礼簿を調査してみると赤波江への移住は、灘瀬の元から始まり、それから平坂となり最後に谷の坂へと拡大している。このように、同じ赤波江移住であっても住む場所が変わっているのは、それなりの理由がある。それは、地勢的な理由でかつてのキリシタンは、たとえ山間僻地であっても、比較的自然条件に恵まれた平地と湧き水のある場所を見つけて移住していることにある。

 その典型が赤波江への移住者にも見られる。赤波江の3つの地区は、急傾斜で人を寄せつけない険しい山並みの中で比較的ゆるやかな谷間となっている。


 
 この家族は、第2世代の赤波江三吉・ソノ夫婦の時、野首から赤波江の灘瀬の元に移住し赤波江の最初の移住開拓家族となった。
 
 

 四女の赤波江トメは、1862年赤波江で出生し赤波江の水方赤波江助作より洗礼を受けていることから、三吉・ソノ夫婦の赤波江への移住は、1858年から1862年の間であったようだ。長男赤波江源平は赤波江安巳の曾祖父、長女赤波江フイは、川端伊勢松の曾祖母、そして次女赤波江ソヨは、赤波江富士吉の曾祖母。

 次女赤波江ソヨ(1853年、立串生まれ)については、次のような面白いいきさつがある。

1860年代の初め頃のこと、平戸から立串への移住者に久作という名の青年がいた。その青年は、赤波江三吉・ソノ夫婦の娘ソヨと知り合い結婚することになった。

 結婚後は、赤波江に引っ越し、そこで長女スギ(1866年生まれ)と長男藤造(1869年生まれ)が生まれた。しかし、若い夫の久作は、伝染病にかかり若死にした。夫と死に別れた妻ソヨは、親や兄弟の援助を受けて2人の幼い子供を懸命に育てていたが、鯛ノ浦から近所に移住してきた青年伊勢蔵と再婚することに相成った。この伊勢蔵との間に生まれた子が赤波江藤吉の祖父赤波江金作(1875年生まれ)なのである。

尚、灘瀬の元の開拓者赤波江三吉の妻ソノは、野首出身で野首の開拓者白浜松太郎・スナ夫婦の孫にあたる。

 この家系は、第3世代の助作・ミチ夫婦の世代に野首から赤波江の灘瀬の元に移住、赤波江三吉・ソノ夫婦と共に赤波江の開拓者となる。その赤波江助作は、1840年野首生まれ。
 
 

赤波江助作氏の墓碑

 野首の開拓夫婦、白浜松太郎・スナ夫婦は祖父母にあたる。1860年の初め立串のミチと結婚後分家して赤波江へ移住。1866年、長崎で宣教師から洗礼を受けた後、赤波江の水方兼、伝道士として活躍。

 仕事は、商業。地元の人からイカ、カジメを買い取り加工し下関に出荷していた。

 その仕事は成功し、赤波江教会建設の時は、マリア像とヨゼフ像を寄付した。後継ぎの男の子赤波江久米吉が夭逝(1886(明治19)年5月死亡、行年2才)したため、仲知の山添忠太郎家から養子を迎えている。

 赤波江教会の誇りであるトラピスト修道会司祭赤波江雪好師は孫にあたる。1912年72才で死亡、赤波江墓地に埋葬。赤波江墓地の中央に建立されている立派な石碑は、生前の彼の活躍が大きかったことを物語っている。

 第2世代の大瀬良宗五郎は、浦上出身で赤波江の平坂の開拓者。
明治3年からは、赤波江の水方兼、伝道士として長年活躍した。

 しかし、出身地については、はっきりとしていない。瀬戸脇教会の洗礼簿では、赤波江出身で、その長女ハツも赤波江で生まれたとなっている。しかし、赤波江教会での洗礼簿では、本人も3人の子供も大瀬良出身となっている。長男大瀬良金惣は、赤波江に再移住し、その子孫の多くは、現在平坂に居住している。

 尚、大瀬良宗五郎の妻テシは、米山の開拓者、白浜忠兵衛の妹で野首の開拓者、東太の孫にあたる。

 

 第2世代の赤波江甚五郎・ツナ夫婦は赤波江の谷の坂の開拓夫婦。妻ツナは、大水の長作とタキの長女である。

 ツナには、亀造という実兄がいてツナの結婚後、親の長作・タキと一緒に家族で赤波江へ移住。江袋のヨモと結婚し5人の子供に恵まれたが1910年に転出している。転出先は不明。

 甚五郎・ツナ夫婦の間に1889(明治22)年7月7日に赤波江で生まれた双子赤波江長吉と赤波江国五郎は、教会建設後の最初の受洗者である。その執行司祭はデュラン師であった。
 

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