7、米山

 
 浦川司教の「五島キリシタン史」には、米山と津和崎には明治初年までキリシタンの片りんすら認められなかった事が書かれている。
 
 更に、西村次彦氏の「五島魚目郷土史」でも米山へのキリシタン移住は慶応年間の頃であったことが記されている。

 そこで編者は、仲知教会に保管されている米山教会の洗礼簿により調査してみた。米山教会の洗礼簿は、フランス人の宣教師マルマン師とブレル師が作成したものであるが、その洗礼簿の作成は、マルマン師が明治10年に現地調査をして記録した受洗者から始まっている。

 師の記録によるとNo.1からNo.25までの受洗者が明治10年までに米山に居住していた信徒である。これらの25人の受洗者(信徒)をさらに調べてみると、その出身地は、野首12、曽根6、立串3、小串3、平戸1となっていて、野首と曽根からの移住者が多いことがわかる。

 しかも25人は、5つの家族で構成されている。即ち山田斧右衛門・トセの家族、白浜忠兵衛・スエの家族、山田鉄平・サトの家族、又居藤五郎・カヨの家族、白浜与平・ミツの家族の5家族である。

 移住年についても明治3年から明治10年頃までの移住であり「五島キリシタン史」と「五島魚目郷土史」に書かれていることとほぼ一致する。

 ここでは、これらの5家族のうち、米山の最初の開拓夫婦だったとみられる山田斧右衛門・トセ夫婦、白浜忠兵衛・スエ夫婦、山田鉄平・サト夫婦を紹介し、後の2組の夫婦については、系図のみの紹介にとどめることにしたい。
 


 

第3世代の山田斧右衛門は1836年に久賀島で生まれる。1860年頃、小串のトセと結婚し3人の男の子と一人の女の子に恵まれる。1870年頃、迫害を逃れて平戸へ移住。この時に長男の金五郎・次男嘉吉、3男三造は平戸の水方、ミカエル直蔵より受洗。しかし、移住先での平戸でも迫害にあい、再び上五島に移住し米山の開拓者となる。

 米山へ移住後、間もなく長崎へ出かけ宣教師から洗礼を受けカトリックに復帰した。尚、米山へ移住した頃は妻トセの父元右衛門も元気で同居していた。
 

 
 第3世代の白浜忠兵衛・スエ夫婦は明治の初め頃野首から米山へ移住し、そこの開拓夫婦となった。当時の洗礼簿では、忠兵衛は、忠五郎と記されている。しかし、同一人物であることが確かめられた。

 この白浜忠兵衛の祖父は東太であり「五島キリシタン史」では、白浜松太郎と共に野首の開拓者として紹介されている。野首のハツと結婚し彼女との間に長男(善吉)が生まれている。その後、野首のスエを後妻に迎え彼女との間に4人の子供が生まれている。

 1866年、長崎へ行ってプチジャン師に会い、要理の勉強を始め、翌年(1867年)3月6日、クゼン師より受洗、帰郷後、帳方の役職に着いていたが、仲間と共に竹島探検を試みた。

 米山には、1870(明治3)年頃、移住している。7人の兄弟のうち、弟の白浜武二郎は米山へ、姉の白浜テシは、大瀬良宗五郎の妻となって赤波江へ移住している。

  この家系も米山の開拓に携わり、第3世代の山田鉄平・サトの時代に曽根から米山へ移住。しかし、鉄平・サト夫婦は、米山へ移住後に隠居し、長男山田称蔵と次男山田多蔵が分家した。
 
 

 1873(明治6)年、家族で長崎へ出かけカトリックに復帰した。

 四男山田礼蔵は、白浜忠兵衛のあとを継いで米山教会の伝道士となった。明治13年、江袋の今野常三郎の娘今野キヨと結婚し、結婚後しばらく江袋に居住していたが郷里に帰り再び伝道士として教会に奉仕した。
 


 
 

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