8、大水


 

 大水教会の場合、先祖の移住経路は、ブレル師が明治14年に作成した大水教会の洗礼簿の調査により完全に解明できた唯一の集落である。しかも、誰がどこから、何年頃、大水の開拓者になったかについてもほとんど解明できた。

 

解説

 「五島キリシタン史」には、仲知・江袋の開拓者については触れているが隣村の大水の開拓については沈黙している。しかし、大水も仲知・江袋と同様に立派なキリシタン集落で、かなり早い時期から西彼杵・外海地方から移住し開墾を試みた夫婦がいた。

 その夫婦とは、外海(神ノ浦)から直接大水に移住した大水安五郎・マシ夫婦で、明治になって曽根や江袋でキリシタンへの迫害が始まっても、その存在は気付かれず潜伏して信仰を守っていた。

 この夫婦は、1830年の初め頃、大水に移住したとみられるが、移住先の大水では5人の男の子に恵まれ、そのことがこの後、子孫が縦横に繁栄し大水一族を形成してゆく源となった。

 ここでは大水一族の繁栄をみるため、5人の息子のうち、長男米蔵と三男徳蔵の人物像を簡単に紹介しておくことにしたい。
 
 


 
  • 大水米蔵(長男)
 1824年大水生まれ。誕生直後に地元の信者大水留吉より仮の洗礼を受けた。明治6年になると弟徳蔵と長崎へ出向き、上五島での最初の宣教師となったフレノー師より同年12月30日洗礼を受ける。

 その時の年齢は49才。1853年、同じ西彼杵・神ノ浦からの移住者、大水喜蔵・サヨ夫婦の長女サトと結婚。3人の男の子と3人の女の子に恵まれた。長男大水太郎(1854年大水生まれ)は、明治15年大水に最初の教会が設立された時の信徒総代であった。
 

  • 大水徳蔵(三男)

 1830年生まれ。正式な洗礼は長崎で明治6年12月30日フレノー師より受ける。洗礼の代父は赤波江の伝道士赤波江助作でその時の年齢は43才。

 1856年頃、平戸から大水への移住者、大水義之助の長女テルと結婚(村内婚)、5人の男の子(三之助、松之助、久助、安エ門、直之助)に恵まれる。子供は末Dの直之助を除けば4人とも大水に居住し大水一族形成の力となっている。

 大水安五郎・マシ夫婦の大水開拓後、大水には西彼杵・神ノ浦から大水喜蔵・ソヨ夫婦、立串から大水喜蔵・ノワ夫婦が移住してくる。大水の地理的な状況は人を寄せつけない人里離れた所であったが、最初の移住夫婦安五郎・マシ夫婦は、これらの家族を受入れ共に開拓に励みながら先祖代々の信仰を守った。
 

 大水の先祖について考察する時に忘れてはならないのが大水喜蔵・ノワ夫婦である。この夫婦は立串から明治3年頃大水へ移住した。しかし大水での滞在期間は約10年と短く、明治13年頃には仲知に一本松へ移住し、現在仲知と米山で大水姓を名乗っている信徒の先祖となった。

 仲知移住後、三男大水幹蔵・リエ夫婦が親の跡を継いだ。次男大水末作は分家して米山に居住していたが明治40年に上神崎(平戸)に移住、四男大水喜平も大正11年に上神崎へ移住、五男大水栄吉も昭和13年佐世保に移住した。現在、一本松に居住している大水敏見は大水幹蔵・リエ夫婦の曾孫にあたる。
 

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