クレンペーター師

1896(明治29)年〜1899(明治32)年

 1896年(明治29)年9月、本田藤五郎師は福岡県の今村に主任司祭として転任され、後任としてクレンペーター(Kleinpeter)師が着任された。

 師の司牧期間も2年5ヶ月と短期間であったが、その間に師が授けた洗礼は、幼児314人、未信者の成人20人、未信者の幼児14人となっている。

 この教勢が示しているように、師も本田師と同じように五島列島の主管者ペルー師の司牧方針に従いながら、児童の宗教教育、薄幸な子供の救済活動、病人訪問等、賞賛に値する熱心な世話をしている。特に、師が記録された洗礼簿などを見ると、離れキリシタンへの宣教において、かなりの宣教の成果が散見できる。

 クレンペーター師はパリ宣教会の宣教師であり、信徒の司牧に忙殺されながらも、余った時間のすべては未信者への宣教、特に上五島地区ではまだ檻の中に戻っていない離れキリシタンが多かったので、離れキリシタンのキリスト教への改宗のために力を注がれた。

 しかし、その頃の福音宣教は教理と秘跡を中心とした宣教であり、未信者と離れキリシタンを教会共同体の中に受け入れていくことに重点がおかれていた。

 キリスト教、特にカトリックの中にこそ、永遠の救いがある。洗礼は救いのための唯一の道であり、洗礼を受けていないものは闇の中にある。だから、キリスト教の真理を伝え、洗礼を授けなければならないという確信があり、そのような宣教理念に揺り動かされて宣教していた。

 その頃の宣教会の宣教年次報告書では必ず宣教年次報告の前に、その年の宣教教勢が示され、宣教の成果を数字で評価していくという編集方針をとっている。

 このような宣教理念は、諸宗教との対話ということが叫ばれている今日では、問題点もあるが、福音宣教こそ教会の優先課題とし、祖国を捨て異郷の国日本でその生命をかけて日本人の霊魂の救いのために献身されたフランス人宣教師の宣教を大いに学ばなければならない。

 では、フランス人宣教師として五島列島を担当されたペルー師とクレンペーター師の五島列島での離れキリシタンへの宣教の取り組みはどうだったのだろうか。どのように対応し、どんな問題点があり、どの程度の宣教成果があったのだろうか。

 その頃の宣教会年次報告書を読むと、ペルー師は五島列島の各地にクザン司教の許可を受けて、祈祷所を開設している。この開設は見失われた離れキリシタンをよい牧者の檻の中にまで引き寄せることを目的としていた。 

 これらの祈祷所の開設には多額の費用がかかる。しかし、費用がかかったとしても望んだ成果が得られるなら後悔しないし、将来の福音宣教のセンターとして大きな力を発揮することを強く希望した。

(宣教会年次報告書 II P.233)
 しかし、このように離れキリシタンへの宣教に熱意を注いでも、なかなか計画どおりの成果は得られなかった。その理由の一つはカトリックへ改宗したキリスト者の宗教的無関心だった。

 五島地区の田舎では、離れキリシタンは教えを守っている信徒に混じって生活しているか、または、その近隣に生活している。彼らの間には、一般の親戚関係、または、共通の先祖であるという関わりがあって、異宗者たちはしばしば彼らを混同する。

 事実、宗教の主要なことに触れないすべてについては彼らはひとつに団結している。外面的には、時として彼らの立ち居振舞いにごくわずかな違いしかないように見える。だから彼らの近くの異宗者はなぜこの人は教会の中におり、あの人は外にとどまっているのかと自問するようになる。

 宣教師の悩みは、信者がこういう状態に慣れてしまってあまりにもそれと妥協してしまうことだった。この信者の宣教への無自覚が離れキリシタンの宣教の大きな障害のひとつとなっていった。

(宣教会年次報告書 II P.235)
 それに加えて、多くの離れキリシタンも先祖代々の教えと習慣にこだわり、宣教師が派遣した伝道士の勧めも聞こうとしない。彼らは近くに住んでいる信者の信仰の素晴らしさを評価するのに、いざ教会に引き込もうとすると、その檻の中に入るための勇気と信仰が足りなかった。

クレンペーター師の活躍 

 五島列島での離れキリシタンへの宣教は、このような障害があったにせよ、クレンペーター師の活動はすべて徒労に終わったわけではない。当時の洗礼簿を見ると、クレンペーター師の熱心な宣教活動により、五島地区ではかなりの離れキリシタンの改宗者があったことが記録されている。例えば、1897(明治30)年は、20名の離れキリシタンの集団改宗者が出るという恵みの年であった。

 20名の改宗者のうち、18名は大瀬良の出身である。まず同年2月12日は、大瀬良七造(54)、大瀬良五郎(28)、大瀬良勝五郎(24)父子と、大瀬良ハツ(35)、大瀬良金衛門(15)、大瀬良初五郎(7)、大瀬良久米蔵(3)母子と、大瀬良マツ(27)、大瀬良忠衛門(25)、大瀬良シヲ(23)姉弟の3つの家族が集団で洗礼の恵みを受けた。
 
 

 

 この時の代父母は谷上仁吉と山添マキを除けばすべて江袋の谷口初蔵・セオ夫婦とその子供(谷口喜蔵、谷口栄吉、谷口福松)となっていて、江袋の谷口家との関わりが明らかである。

 というのは、谷口初蔵の妻谷口セオは大瀬良出身だからである。この日の大瀬良の3家族は大瀬良出身の谷口セオの世話により求道者となり、江袋の伝道士谷上仁吉と仲知の伝道婦山添マキの導きを受けて、集団でキリスト教に改宗したものである。

 1897(明治30)年は、これら3家族の他に8月8日大瀬良金作(59)・フデ(50)夫婦と、その6名の子供全員が家族ぐるみで改宗すると共に、立串の宇野キセ(21)と、曽根の新輪蔵(25)も改宗している。

 これらの大瀬良の集団改宗は、聖霊の働きの成果であるが、そのかげにクレンペーター師を始め、地元の伝道士と信者の熱心な呼びかけと働きがあったもので、その頃、思うほどに宣教効果がなく悩んでいた五島列島の主管者ペルー師にとっても、この年ばかりは大きな喜びであった。

クレンペーター師の思い出
 
 

 これまで上五島地区で宣教された宣教師の宣教状況を見てきたが、クレンペーター師からやっと宣教師についての伝承が始まる。伝承といっても文書によるものではなく、口伝えによるものである。

 江袋教会の最高齢者尾上ミキ(明治32年1月21日生まれ)さんが実母尾上キヤ(明治元年江袋生まれ)から何回も聞かされた話として伝えているのは、クレンペーター師は大柄な人で人を優しく包み込むようなおおらかな宣教師だった。
 
 

 ある日のこと、母キヤが大きなお腹を抱えて教会の庭を歩いていると、通りかかった師がまわりの信徒に「キヤさんが通ります。大きく道を開けてくれませんか」とユーモアたっぷりに大きな両手を大きく広げたそうである。

 それから尾上ミキさんの実父の谷口栄吉(慶応3年生まれ)は、宿老として師に仕えていた。その住まいが江袋の司祭館のすぐ近くにあったこともあり、師が江袋に巡回されてこられた時は、家族ぐるみで交際していた。

 それでお腹の大きい妻、谷口キヤの出産の時には丁度師が江袋に巡回しておられた時で、わざわざ家までお祝いに駆けつけて下さったそうである。

 この貴重な話を伝えている尾上ミキさんは現在も元気であるが、編者は念のためこのエピソードの真実性を当時の洗礼簿により確認してみた。

 すると谷口(旧姓)ミキさんは、谷口栄助(33)・キヤ(34)の3女として明治32年1月21日に江袋で生まれ、翌日江袋教会でクレンペーター師より受洗。霊名はアグネス。代母は田端タカ(27)とあり、尾上ミキさんの逸話が、親から子へと正確に伝承されていることに驚かされた。しかし、クレンペーター師はこの後間もなく転任された。
 


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