A・ペルー師

1893(明治26)年〜1906(明治39)年





 ペルー師が五島列島の主管者に任命された1893(明治26)年から仲知小教区が設立される1906(明治39)年までの13年間は、特にパリ外国宣教会が養成してきた邦人司祭が次々に誕生し、五島列島に派遣され熱心な司牧活動が行われるようになった。

 ここではこの13年間にペルー師の指導の下に上五島小教区を担当された宣教師を知るために、その頃の上五島小教区の洗礼簿によって調査してみることにする。

 まず、短期間ながら身寄りのない薄幸な子供の救済活動に力を注がれたベルトラン師は、1894(明治27)年5月お隣の平戸小教区へ転任され、パウロ本田藤五郎師が五島列島での最初の邦人司祭として着任される。

 師の上五島地区での司牧期間は約2年6ヶ月で、1896(明治29)年には今村(福岡)小教区の主任司祭として着任され、後任としてクレンペーター(Clen peter)師が着任される。クレンペーター師の在任期間も約2年6ヶ月と短く、1899(明治32)年2月には転任となり後任としてデュラレー(Delalea)師が着任される。

 デュラレー師の在任期間も約6ヶ月と非常に短く、同年9月には任となり、後任として2人目の邦人司祭洗礼者ヨハネ青木兵助師が着任される。青木師の在任期間も約2年と短く、1901(明治34)年5月には3人目の邦人司祭としてヨゼフ道田高吉師が着任される。

 道田師は病弱ながら熱心に司牧活動を果たしていたが、1905(明治38)年7月23日病没され、同年の11月には後任として4人目の邦人司祭萩原浩師が着任された。

 しかし、師の在任期間も約1年5ヶ月と短く、1906(明治39)年9月には転任となり、後任としてイグナチオ中田藤吉師が仲知小教区主任司祭として着任された。既に桐小教区にヒューゼ師が、青砂ヶ浦小教区に大崎八重師がそれぞれ主任司祭として着任しておられ、中田師は上五島地区では3番目の主任司祭となった。

 私たちは上五島地区で司牧宣教された2名のフランス人宣教師と4名の邦人宣教師のそれぞれの活躍の状況を調べる前に、ペルー師が五島列島の主管者となった1893(明治26)年から、仲知小教区が設立された1906(明治39)年までの13年間の司牧活動と問題点を知ることに努めたい。

宗教教育

 ペルー師が五島列島の主管者となった明治26年から明治33年までの7年間は、毎年定期的に上五島を巡回し、洗礼、告解、堅信、結婚等の秘跡を授ける一方、病人の見舞いや不幸な子供の救済活動、離れキリシタンへの宣教活動等、通常の主任司祭が果たす仕事を誠実に果たしておられる。

 その司牧活動の全容については、師に協力して上五島地区の司牧を担当された宣教師たちの活動を紹介する箇所で説明することにし、ここでは師がその司牧方針として大切にされた宗教教育と未信者への宣教、それにルルドの建設の3つの事項についてのみ取り上げることにしよう。
 
 
昭和17年、堅信式記念写真

 ペルー師は1894(明治27)年の宣教会の年次報告書で五島列島の信徒の宗教教育について「特に児童に宗教教育を施すことは宣教師の義務である。児童に初聖体、堅信としっかりとした宗教教育を施すことが出来さえすれば、きっとその児童の霊魂に神への信仰と愛が育つに違いない」と述べている。

 しかし、9,439人の信者を擁する五島の3地区での宗教教育は、人材が不足していたことから十分に行うことが出来ない状況であり、心配のひとつだった。その心配の胸の内を彼は次のように報告している。

 「五島列島の信徒の司牧で特に心がけているひとつの点がある。それが子供の要理教育である。五島列島3地区のうち8才以上で告白をする年齢に達している子供は南部に530人、中部に470人、北部に530人である。

 というのは、この辺りの田舎ではこの年齢に達する前に告白の出来る子供に出会うことは稀だからである。それでこの子供のうち、告白の秘跡を受けられるだけの十分な教育を今身に付けているのはせいぜい半数なのである。

 確かに神父が伝道士達の熱意を励ますようにするなら、大いに助けてもらうのである。それでも宣教師が自分でこの仕事を引き受けずにいれば、それが長引くだけ良家の子供だけが教育を受けることになり、他の者は14才、15才、時には18才、20才になるまで信者としての義務を知らずに、非常に大ざっぱにしか義務を果たさないまま大きくなってしまう。

 児童期の教育こそ大切な義務のひとつであることを忘れないようにしよう。私はそれぞれの地区の担当司祭から特に心をこめてこの義務を果たし、この目的のために助けてもらうつもりである。」

(宣教会年次報告 II P.22)
 この年次報告書を読むとペルー師が五島列島の主管者だった頃には、公的な教育を受ける機会がなかったためにまともに字が読めない信者が多かったようだが、だからといって信者は公教要理の勉強に怠慢であったわけではない。

 その頃の信者は少ない宣教師と伝道士の導きに従い、たとえ字を読めなくても要理の勉強だけは一生懸命だった。何よりもすべてに優先して公教要理の勉強と暗記に真剣に取り組んでいた。

 祈りにも親しみ、祈ることの大切さも学んでいた。だからこそ、ペルー師はその宣教会年次報告書の中で「堅信を受けた青年男女は近所の子供達に、また教育程度のより低い親たちにさえも要理の文字を教えている。」「ある教会では度々日曜日は、要理全体を声高で一緒に唱えることで1日を終わらせている」といっている。

(宣教会年次報告 I P.281)


 こうして、ペルー師の時代の信者は人材不足という課題はあったが、宣教師と伝道士の熱心な指導に助けられて、初聖体と堅信の恵みを受けることができた。

 ここでは当時の上五島小教区の堅信台帳によって堅信の状況を眺めてみることにしよう。


 
 
1回目 1895(明治28)年10月22日(奈摩内)
          10月23日(江袋)
          10月24日(大曽)
司式はクザン司教、名簿作成はペルー師
受堅者総数は259名
2回目 1899(明治32)年11月24日(大曽)
          11月21日(江袋)
司式はクザン司教、名簿作成はペルー師
受堅者総数は75名
3回目 1903(明治36)年4月19日(鯛ノ浦)
          4月20日(曽根)
          4月22日(仲知)
          4月24日(野首)
司式はクザン司教、名簿作成は野首を除けば大崎師、野首は道田師
受堅者総数は226名
4回目 1905(明治38)年11月29日(鯛ノ浦)
          12月1日(頭ヶ島)
          12月2日(大曽)
          12月5日(江袋)
          12月7日(曽根)
司式はクザン司教、名簿作成は江袋を除けば大崎師、江袋は萩原師
受験者総数は298名

 
ペルー師の時代の仲知地区の伝道士と伝道婦
仲 知 久志 久米五郎 井出渕 トク
五輪 友造 竹谷 ナツ
米 山 白浜 三郎 高尾キク・竹谷シミ
江 袋 今野 直次郎 楠本シゲ・浜上カヨ
赤波江 大瀬良 金惣 肥喜里 ミキ
赤波江栄次郎 赤波江 ユキ
大 水 大水 シネ
野 首 白浜 金三郎 白浜 キミ
白浜 作太郎 白浜 ユキ
瀬戸脇 瀬戸 庄吉 瀬戸 リエ

の説明
 
 江袋出身の楠本シゲは、小林すえの後任としてセシリア修女院の会員と共に大正3年まで生活しながら、青砂ヶ浦に伝道学校が移るまで上五島の各地から集まる女子の「教え方」の養成に力を尽くした。

 大正6年下五島の奥浦にも伝道学校が設立されたが、そこの教師を努めたり「離れ」の多い奈留島や長崎にも渡り、他県にまで出かけて公的伝道婦として大いに活躍した。後年、老いて郷里の江袋で余生を送っていたが、昭和17年セシリア修女院が始めた「養老院」で天国へ旅立った。

(「仲知修道院100年の歩み」より)
異教徒への宣教

 ペルー師の五島列島での主な仕事のひとつは、未信者への宣教であった。五島列島3地区でペルー師の指導を受けながら司牧宣教をしていた宣教師たちも、時間が許すかぎり未信者への宣教を優先課題として取り組んだ。

 しかし、その熱意にもかかわらず、この地区での未信者への宣教は全く不可能ではなかったにせよ、大変難しかった。その背景にあるのが未信者達のキリスト教とそれを奉ずる信者への軽蔑と差別である。

 その頃の信者は一般にまだ貧しく教養もなく、先住民から「開き」と呼ばれ、軽蔑されていた。共同水、村有林からの採薪刈草に差別を受ける他、ひじき、ワカメ、アオサ等の海草類、それにサザエ、アワビ等の魚介類採取にあたっても不平等な待遇を受けていた。

 もちろん、ペルー師の時代(明治中期)には、信者の中に仕事に成功するものも現れて、社会的にかなりの地位を築いた人もいたし、それ以前よりは目に見えてカトリック教会とその信者の地位も向上し、いくらかは市民権を確保しつつあった。
 
 

隠れキリシタンの集落:大瀬良 上・下

 しかし、その頃の信者はまだまだ「開きもん」と軽蔑され、信者と結婚することはおろか、交わりを持つことさえも恥とされていた。このようなことは、特に政府の役人に多かった。彼らは信者と交わることで地位を失い、嘲笑されることを恐れていた。

 このような社会的状況は、例えば北松浦郡小値賀の未信者の前田峰太郎(1876年生まれ)の改宗にも見られる。仲知の前田家の先祖、前田峰太郎の改宗は1901(明治34)年の宣教会報告書の中で特筆に値する出来事として報告されている。前田峰太郎は改宗にあたっては島の住民はおろか、両親、妻からさえも見捨てられ文字通り彼の改宗は島民を巻き込んだ大騒動に発展した。

 このような状況は、その頃の未信者がいかに根強いキリスト教への偏見と誤解と差別を持っていたかを端的に物語っている。しかし、ペルー師自身がその年次報告書の中で述べているように、その頃の未信者は宣教活動に以前よりも逆らわなくなったばかりか、宣教師が出会う人たちの中には、信者と彼らが奉ずるキリスト教を必ず誉める善意の人も多く、未信者のキリスト教徒と信徒への偏見と差別とは少しずつ緩和されていった。

ルルドの洞窟

 ペルー師は1899(明治32)年、カトリック教会公認の霊場であるルルドの洞窟の模型を井持浦に造り、マリア像を安置した。これこそ日本で最初のルルドでその後、彼に倣って日本各地に同型のルルドの洞窟が造られ、ルルドの聖母に対する信心も日本の教会の津々浦々まで広がると共に、日本の教会の復興の先駆けともなった。師はルルドの洞窟の建設の模様を次のように述べている。

 「1895(明治28)年、井持浦教会の祝別式の後、私は列席した信徒一同に向かって教会の側にルルドに真似た洞窟を造ることを提案した。彼らはその時ラゲ神父が訳した「ルルドの奇跡」について知っていたので、喜んで賛成してくれた。
 
 
井持浦教会

 
ルルド

 そこで彼らは五島各地の海岸から岩石を採集する計画を立て、珍しい石を選びに選んでそれを漁船に積んで井持浦へ運んだ。こうして材料が集まるのを待って着工し、1899年ようやく完成。ルルドにおいて大巡礼が行われた4月20日に祝別式を挙行した。

 この祝別式には地区の司祭達もクザン司教を囲んでそこに来ていた。信者も一番遠い村々からも集まっていた。この時以来、参詣のあとが絶えたことがない。その参詣者の中には病気の治癒を願う者、魂の救いを求める者等いろいろあるが、皆、聖母の御像の前に跪いて熱心に祈り、岩から湧き出る水を汲んでいく。時には数日間滞在して行をするものもある。」

ペルー師が記した上五島小教区洗礼簿
受洗年月日
受洗者(孤児)
出身
授洗者
担当司祭
1894年11月28日 白浜 シオ 野 首 ペルー 本  田
1894年11月28日 孤   児 六 島 ペルー 本  田
1895年6月30日 川口 サナ 冷 水 ペルー 本  田
1895年7月8日 浦田 伊勢吉 跡 次 ペルー 本  田
1895年12月8日 古木 エツ 奈摩内 ペルー 本  田
1896年3月16日 浜上 義衛門 江 袋 ペルー 本  田
1896年5月14日 野上 文作 曽 根 ペルー 本  田
1896年8月31日 野下 ツヤ 樽 見 ペルー 本  田
1896年9月9日 田上エキ次郎 曽 根 ペルー クレンペーター
1896年9月18日 孤   児 野 崎 ペルー クレンペーター
1897年1月30日 山田 サト 米 山 ペルー クレンペーター
1897年4月10日 松下 四郎 曽 根 ペルー クレンペーター
1897年10月3日 浦田 直吉 大 曽 ペルー クレンペーター
1898年5月28日 江口 福造 赤波江 ペルー クレンペーター
1898年5月28日 浦越 マキ 米 山 ペルー クレンペーター
1898年5月28日 浦越 チヨ 米 山 ペルー クレンペーター
1898年5月29日 川口 初衛門 曽 根 ペルー クレンペーター
1898年5月31日 平野 藤次郎 曽 根 ペルー クレンペーター
1899年3月8日 不津木要次郎 頭ヶ島 ペルー デュラレー
1899年11月15日 海山 スギ 曽 根 ペルー 大  崎
1899年11月16日 岩本 宗次郎 曽 根 ペルー 大  崎
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