キリシタンの歴史を探る


浦 敏雄(新魚目町郷土史家)

 日本にキリスト教が伝来したのは、天文18年(1549)にローマ・カトリック教会のイエズス会に属する宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸してキリシタン宗門を布教したのに始まると云われているのであるが、五島に宣教師が最初に訪れたのは永禄9年(1566)で、それから10年後の天正4年(1576)までの間に5回にわたって次々に宣教師や修道士などが五島に来ていたのである。

 その契機となったのは五島氏18代の領主純定の要請によるものであった。純定自らがキリシタン信仰に関心を持ってのことではなく、また領民にキリシタン信仰を布教させる目的でもなかったのである。純定の長子民部がハンセン氏病であったため、この民部の病を西洋医学を用いて治療させたい一念からに他ならなかったのであった。

 永禄7年(1564)たまたまポルトガル人が乗った異国船一隻が商用でシャムから平戸へ向かう途中、風待ちのため福江に寄港したのである。純定は家臣一人をこの船に便乗させ、長子の病状のあらましと自分の心情を訴え、ぜひ西洋医学の心得のある宣教師の派遣を懇願すると共に、私の願いをかなえてくださるなら領内に教会堂を建立し、キリシタン信仰の布教に協力を惜しまない、といった書簡をしたためこれを平戸駐在のバルテサル・コスタ神父に宛て持たせたのである。
 


 これを読まれたコスタ神父は口之津にいたコスモ・デ・トルレス神父に相談したうえで「信書は確かに拝見したが、現在私の下には派遣出来る者がいないので再度貴殿から要請があれば貴殿の希望を聞き入れてもいい」といった返書を純定に送ったのであった。

 純定からはその後も再三にわたって懇願が続けられたが、コスタ神父の方ではその頃になっても人手不足のためなんとしても純定の要請に応ずることは不可能であった。そうした中で民部はとうとう死亡してしまったのである。

 それに続いて純定自身が病床につき苦しみに耐え兼ね「至急医学に心得ある人を派遣して呉れ」と急便を送ったのであった。トルレス神父は滞在先の大村領横瀬浦で純定からの急便を受けるや直ちに側に居合わせた日本人医師のディエゴ(若松町郷土史ではヤコボと記している)を派遣したのであった。
ディエゴは学者であり仏教にも精通し、キリスト教の大義にも通じた人であった。ディエゴの献身的な手当てによって純定は数日で全快したのであった。


純定と重臣たちはディエゴの出立にあたって、この度の好意を深謝すると共に「我等がデウスのお話を承りたいと念願していることを最も理解しておられるのは貴殿であれば、貴殿からぜひ神父にこの事を伝えて宣教師の派遣方を懇願していただきたい。私たちは貴殿からの吉報をお待ちしています」と言い添えたのであった。

 ディエゴからのこの報告を受けたトルレス神父にとっては願ってもないことであり、すぐにも応じたい気持ちであったが如何にせん、遣わす者一人だにない状態であったため、それから2年間も放棄せざるを得なかったのであった。その間、純定からの要請は数度に及んだが当時平戸にはコスタ神父一人だけだったので、この神父を遣わすことも出来ないので、永禄9年(1566)修道士ルイス・アルメイダとs本人修道士ロレンソを五島に派遣したのである。

この2人の布教こそが五島におけるカトリック布教の始まりとなった。このロレンソは半盲目の琵琶法師であったが弁舌さわやかで教理にも精通していたらしく、日本人最初の邪蘇会修道士として信長や秀吉の前でキリシタンの教えを説いたともいわれる。

 この修道士2人の伝道には領主純定をはじめ400人余の人が説教を聞きに集まったといわれる。奥浦で仏寺を改造して教会が設けられ、120人が洗礼を受けるといった盛況ぶりであったといわれる。

 その頃の主な教会所は、下五島地区では福江、奥浦、六方であり、上五島地区では高仏付近にあったといわれている。信者も五島全域にわたっていて、比較的に多かったのは奥浦、久賀、若松、高仏付近であったといわれている。

 永禄10年(1567)には純定の子純尭、玄雅の2人が洗礼を受け熱心な信徒となった。これによってさらに入信者は増加するばかりであったといわれる。

 天正4年(1576)純定が死亡し、純尭が領主となったが天正7年(1579)37歳の若さで死亡したため純玄が17歳で領主の座につくことになり情勢は一変してキリシタン迫害が始まるのであった。

 キリシタン派の首領であった純尭の弟玄雅は、キリシタン武士や婦女子たち300人と共に長崎に逃れ、のち島津公の仲介によって玄雅は五島に帰ったが、同行した半数は長崎に止まったといわれている。
 

 玄雅と共にキリシタン武士たちになった者の中には青方家、有川家も加わっていたが、これらは後になって改宗している。

 慶長元年(1596)土佐の浦土スペイン船が漂着し、これを検視に行った水先案内人の不謹慎な放言によって秀吉は大いに憤慨し、ペトロ・バブディスタ以下フランシスコ会の宣教師6人、日本人のイエズス会士3人、その他の日本人キリスト教徒17人の計26人が捕らえられ長崎で壮烈な殉教を遂げるに至ったのであるが、これがいわゆる二十六聖人の殉教であった。

 この中には五島出身のジュアン(宗庵と称した)がいたが、彼は秀吉の命にそむいて大阪の邪蘇会仲在所をたちのかず、長崎に送られ磔刑に処せられたのである。

 文禄元年(1592)純玄と玄雅は朝鮮征伐に参加し、純玄が戦死したので玄雅が21代領主になり熱烈な信仰を表明し、キリシタン達を喜ばせたが参勤交代した頃から背教の気配が感じれるようになった。

 恐らく小藩の領主では徳川幕府という絶対権力の前には背教のやむなきに至ったであろうと考えられる。かくて領主玄雅は寛永元年(1624)4月19日、教会の看坊で五島キリシタンの父とも教師とも慕われていたカリストクエモンを若松で捕らえて高仏で斬首の刑に処したのである。

 また、神部には慶長年間(1596〜1614)山田九郎右衛門を首領とした180戸のキリシタンが居住していたが、寛永14年(1637)島原の乱が起こるにあたり、神部を引き払い戦いに参加したまま帰らなかったといわれているが、今なお神部の内に九郎右衛門の字名があるといわれている。

瀬戸脇探検(1)

瀬戸脇集落跡 左同
瀬戸脇瀬戸(津和崎瀬戸) 瀬戸脇の港
現在の瀬戸脇の港風景 瀬戸脇集落への入口の道
 

次ページへ


 トップページに戻る
inserted by FC2 system