キリシタンの歴史を探る
 
 

 島原の乱後、信徒に対する弾圧は著しく苛酷となり、迫害のため殉教する者、密かに他国へ逃避する者、弾圧に耐えかねて棄教する者などが相次いだが、転宗した者の中には棄教を装って密かにキリストの教えを守り続ける者もいたのであった。

 しかし、これは極めて少ないばかりか、永い年月の中で真実の棄教者になってしまったとも考えられるのである。このようなことから永禄9年(1566)初めて五島に伝来したカトリックは江戸期の初めには、ついに壊潰したといっても過言ではなかろうと思うのである。この期こそが五島カトリックの第一期であると伝えるのではなかろうか。

 魚目を含む五島の全域では江戸期の初めから中期になけて、漁業は実に飛躍的発展が見られたのであるが、それに伴って方々から多くの他国者が移住するところとなり、五島の人口は急増するばかりでなく、貨幣の流通も盛んになり外貨導入も見られて、経済生活も伸びてきたが先住民の大方は漁業に走り、農耕の如きは女、子供や老人の仕事となり農地開拓の如くは全く省みる者もなかった。

 このようなことから、当時の五島ではかなりの荒地が存在していたと考えられるが、藩においても耕地開拓を企て、寛永19年(1642)には京都、摂津方面の飢餓による難民を京都所司代板倉周防守に乞い受け田畑の開墾を行い、更には貞享4年(1687)7月には江戸賤民を五島に引移して原野を開かせたと「五島近古年代記」に書かれているが、これらは期待した程の成果は見られなかったようである。

 青方文書の「人別日記」の安永5年(1776)3月26日の条に「柏村渕之元へ大村御領百姓共、明和9年(1772−安永元年に当たる)7月居付相成り大勢妻子召連相成り候に付、時之御代官真弓弥五兵衛方より御蔵元へ相達、於御役所御評議之上御免被成、則大村より外証文請取り罷成右両村百姓仲間に入れ至渡世候故、此節人別帳面にも相記し候につき相改め候処、家数16軒、人数男女70人罷在候」と見えるのである。

 又、寛政9年(1797)には福江藩主五島盛運は大村藩に交渉して外海地方の三重、黒崎の百姓108人を五島へ移し、福江、と三重両藩の各地に住まわせて田畑の開墾に当たらせているのである。

 又「公譜別録拾遺」によれば次の如く記されている。「寛政九年大村の民百八人五島へ来る。これは盛運公、五島は地広く人少くして、山林未だ開けざるを憂いこの度大村候に乞いて、かの民をこの地に移し給う、これより後大村の民、この由緒を以て五島に来たり住せる者数知らず・・・・・・云々」と見えるのである。

 この時の一行は11月28日に福江の六方の浜に上陸し、奥浦村平蔵、大浜村黒蔵、岐宿村楠原などに居付いたといわれているが、これらは福江藩内に入った者達であり、富江藩内へ入った者は別だったと考えられるし108人の者たちは何艘かの船に分けられただろうし、上五島地区にも向けられたかと思うのである。

 五島キリシタン史には次のような記述が見られるのである。寛政11年(1799)の移住民が携えて来た「修切手」には次の如く認めてあった。












村相 末六月

宮原一兵衛

寛政十一年大村郷黒崎村横目    礼件の如し その御領へ罷越候
 、
仍て修切手一
右男女五人之者共此度渡世のため
 、




二十六才

乙右衛門


十八才
惣助


二十五才




五十四才
幸作


五十八才
真宗

 
 このように大村領から五島に居ついた百姓の殆どが外海地方のキリシタンであった。福江、富江の両藩ではしばしば大村藩に要請して百姓受け入れを行ったのであったが、既に居ついている人の手引きによって移り住む者もあったと考えられる。

 仲知、島ノ首に来往した者も黒崎、三重からの者であり、江袋に来住したのは大村神ノ浦大中尾の七右衛門とチエの子供だと伝えられているのであるが、このように多くの百姓移民によって五島の人口は著しい増加を見たのであるが、藩主盛運は寛政13年(1801)2月には「宗門御改の節、一統之申聞候五人組之御法度書」なるものを発布し、切支丹の取り締りを厳重にしたのであった。

 百姓移民を懇願していた頃は、五島からの要請者の3倍に近い百姓が送り込まれていたともいわれているのである。

 これら集団で移住した者は指示された開墾地に入り御蔵入り百姓となり、一戸を構えて地方百姓同様の待遇を受けたが、先住者らの手引きなどによって個々に潜入した者達の大方は郷士らの所有地などに居付き、土地を借りて開墾に当たったが住家は地主から開墾地内に建てて貰うといった、いわば下人的関係が保たれたが、収穫した作物は「石納め」「蔵入れ」といって定められた石高を地主に納めるのであった。

御蔵入れ百姓となった者も定められた石高を庄屋など村役人を通して指定された蔵に納めたのである。

 永禄9年(1566)藩主須見定の要請によって、アルメイダとロレンソの修道士2人が五島に来て不況をしたのに始まり、寛永14年(1637)に始まった島原の乱後の弾圧で次第に壊潰に至ったこの100ヵ年を第一期とし、寛政9年(1797)大村藩に乞うて外海地方からの移住百姓受入れから明治6年(1873)キリスト教が解禁されるまでを第2期として考える時、この第2期に外海地方から移住者として五島に来た方々は、五島の山間僻地のやせた土地や、海にも不便な岩礁の海浜に散在しての五島での生活は言葉では云い尽せない苦難の連続であったに違いない。

 しかし信仰面においては外海地方に比べて弾圧も緩慢であっただろうし、ある程度は自由に信仰を続けることが出来たであろうから、キリストの御受難を偲びながら、喜んであらゆる苦難を克服することが出来たであろうと考えるのである。

 「五島へ、五島へとみな、行きたがる。五島はやさしや、土地までも」「五島は極楽、行って見りゃ地獄」こういった俗謡が外海地方で歌われていたと云われているが、恐らく寛政時代(1790年代)のことであったろうが当時の五島は外海地方の者にとっては、まさしくあこがれの地であったと云われている。
 
 

瀬戸脇探検(2)
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