信徒使徒職時代
1867(慶応3)〜1878(明治11)


 1872年(明治5)年というと、禁教令解除の前年である。
 厳しかった迫害は、ようやく緩和されつつあった。しかし、信仰故に捕らえられ、全国各地に流刑の身にあった浦上のキリシタンはまだ釈放されていなかった。

 宣教師達もその活動の場が制約されていて、まだ完全な自由を享受していなかった。一方、明治5年は仲知のキリシタンが迫害を逃れて久賀島から帰村して2年後にあたる。その頃、仲知のキリシタンは本来の生活に戻り、荒れ果てた畑を耕し、生活の再建に精を出していた。

 しかし、仲知とその周辺のキリシタン集落の一番の関心事は生活よりも信仰のことで、一刻も早く長崎へ行き宣教師と会い、その指導を受けて洗礼、初聖体、堅信等の秘跡にあずかることであった。

 特にキリスト教入門の秘跡と呼ばれている洗礼は、人の救いにとって最も大切な秘跡である。この秘跡にあずかってこそ実質的にカトリックに復帰したことになる。このことは誰にでもわかっていたが、ほとんどのキリシタンはまだこの恵みにあずかっていなかった。

 明治5年から明治10年にかけて長崎と地元の伝道士の指導を受け、日夜、教理の勉強に励み、洗礼を受け、信仰を表明する信徒が続出した。その結果、仲知小教区内の8つの集落(瀬戸脇、野首、米山、赤波江、仲知、江袋、大水、小瀬良)においては、明治10年に宣教師が上五島を巡回されるまでに多くのキリシタンが長崎で受洗し、カトリックに復帰している。

 しかし、この背景には信徒の熱心な信徒使徒職活動があったことを忘れてはならない。その使徒職活動は宣教師によって養成された伝道士の手によって行われた。即ち、宣教師は早くから伝道士を養成し、彼らに教理を学ばせ宣教師が行けない所へ遣わした。

 宣教師から直接養成された伝道士も宣教師の手足となって各地でカトリックへの復帰を促す伝道活動を行った。彼らの活躍の跡は仲知司祭館に保管されている古い資料(各教会の洗礼簿)によって確かめることができる。
 
 


 
1 瀬戸脇教会

 

 瀬戸脇教会の伝道士は、瀬戸要助と瀬戸留五郎の2名である。2名は慶応3年、同郷の瀬戸松造、瀬戸福造と一緒にひそかに長崎へ出かけ、浦上の又市という水方(洗礼を授けていた信徒のこと)の所で教理を学び、同年5月2日ムニオン(Mounion)師より洗礼を受け帰郷後、郷民に伝道した。

 その結果、明治2年に3名、明治5年に2名、明治6年に4名、明治7年に1名、明治8年に5名と洗礼志願者が続出した。これら洗礼志願者の直接の恩人は、浦上村や伊王島(大名寺)で活躍していた伝道士である。

 これらの伝道士は遠来の洗礼志願者である客を自分の家に宿泊させた上、熱心に祈りを教え、教理を学ばせ、洗礼の準備に骨身惜しまず献身した。しかし、地元の伝道士瀬戸要助も、瀬戸留五郎も、熱心さにおいては引けを取らなかった。

 瀬戸脇のキリシタンが長崎に出かける時は同行し、仲間の洗礼の恵みの喜びを共にしている。例えば瀬戸留五郎は、瀬戸与吉が明治7年9月12日、大浦天主堂でボアリエ師から受洗した時、その代父となっている。
 
 

2 野首教会

 野首教会の伝道士は白浜又五郎で、伝道婦は白浜フジであった。
 「五島キリシタン史」によると、白浜又五郎は慶応3年3月6日、帳方の白浜忠兵衛(忠五郎)、白浜長吉、白浜岩助、白浜兼吉の5名と一緒に大浦天主堂でクザン師より洗礼を授かったとある。

 しかし、野首教会の洗礼簿にはその年に長崎で洗礼を授かったキリシタンは白浜忠造、白浜岩助、白浜長吉、白浜留八、白浜又五郎の5名となっており、人名に食い違いがある。

 又、洗礼簿では5名の中で最初に洗礼の恵みを受けたのは白浜岩助で、白浜忠造、白浜留八、白浜又五郎の3名は一ヶ月後に同じボアリエ師より授かり、更に10日遅れて白浜長吉がプチジャン師より授かったということになっている。いずれにせよ、白浜又五郎は受洗後に郷里の伝道士となり、まだ洗礼の恵みを受けていない多くの郷民に伝道した。

 彼の伝道の成果は明治2年に4名、明治5年に11名、明治6年に11名、明治8年に1名、合計27名の洗礼志願者を長崎の伝道養成所に派遣していることによくあらわれている。これらの洗礼志願者を喜んで受け入れて、祈りと教理を教えてくれたのは、浦上と大名寺の伝道士と伝道婦であった。

 こうして野首教会のキリシタンは隣村の瀬戸脇教会と同じように、それぞれ地元の伝道士と長崎の伝道士の連携プレーによる熱心な導きによって、子供を除けば大人はほとんど長崎で洗礼を受け、信仰を表明している。
 
 

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