迫害と殉教

 

牢屋の窄(久賀島)殉教者42名  牢内死亡39名 出牢後間もなく死亡3名上平(福の窄)

       パウロ    助市 70才 最初の犠牲者 

                     明治元年10月20日死亡 

       ジワンナ   つい  7才 明治2年 4月26日死亡 

       パウロ    力松  3才 明治2年 2月29日死亡 

   親子3名

    母親 マリア    せの 33才 明治2年 5月16日死亡 

    息子 ペトロ    三蔵  4才 明治2年 3月 1日死亡 

    娘  ジワンナ   えの  9才 明治2年 2月19日死亡 

   三姉妹

       マリア    たき 10才 明治2年 4月12日死亡 

          (私はパライソへ登りますお父さんお母さんさようなら)

       マリア    さも  8才 明治2年 2月29日死亡 

          (イエズス様の五つの傷に対して祈らねばならない)

       テカラ    モヨ  5才 明治2年 2月21日死亡 

細石流 

   二姉妹

       カチリナ   そめ  9才 明治2年 3月17日死亡 

              なよ  5才 明治2年 3月 2日死亡 

 

上平

       カタリナ   さき  24才 明治2年 5月13日死亡 

       ドミニカ   ふみ   9才 明治2年 3月12日死亡 

       イザベリナ  よも  42才 明治2年 3月 4日死亡 

       マリア    りよ  36才(忠五郎の妻)

                      明治2年 4月27日死亡 

       ドメイ    政治郎(政五郎) 

                   5才 明治2年 3月 5日死亡 

       (水を求め、渇きのため死亡)

       ドミニカ   たせ  12才 明治2年 4月13日死亡 

       (牢内非衛生のため死亡)

       マリア    さよ  46才 明治2年 5月12日死亡 

       マリア    はつ  52才 明治2年 3月19日死亡 

       ジワンナ   いそ  34才 明治2年 5月 3日死亡 

       ノレンソ   利八   5才 明治2年 3月 5日死亡 

       ジワンナ   えつ  85才 (入牢者中最高齢)

                      明治2年 4月 2日死亡 

       フランシスコ 好蔵  58才 明治2年 5月13日死亡 

       ジワンナ   しも  22才 明治2年 4月15日死亡 

       ジワンナ   のわ  56才 明治2年 5月14日死亡 

細石流

       フランシスコ 力蔵  55才 明治2年 1月 7日死亡 

       マダリナ   のい  19才 明治2年 2月17日死亡 

外輪

    夫妻 ジワン    千蔵  59才 明治2年 5月24日死亡 

       ルチア    すえ  59才 明治2年 5月15日死亡 

幸泊 

       ジワンナ   まつ  56才 明治2年 3月 2日死亡 

その他

       ジワン    藤七   1才  明治2年10月 8日死亡 

       ジワンナ   しも   1才  明治2年 1月29日死亡 

       カタリナ   よし   1才  明治2年 1月22日死亡 

       マグダレナ  なよ  21才  明治2年 4月 1日死亡

             (飢えと寒さで死亡)

       トマス    又次郎  4才にて死亡 

       ジュリアンナ とし   4才にて死亡 

       テクラ    はつ  13才にて死亡 

       ドミンゴ   三助   6才にて死亡 

       姓名不詳の幼児

 

出牢後まもなく死亡した者

上平

       ジワンナ   しな  15才  (父善太郎 母ふく)

                       明治2年5月12日死亡 

 
 資料1

五島崩れ

久賀島 「ただいま、数人の信者が、腸をちぎるような知らせを五島からもって来ました。久賀島では男女合わせて190人ばかり、一軒の家にとじ込められ、改宗しないため一ヵ月前から、悲惨見るにしのびないほどの責め苦を加えられています。9人はあわれな最期をとげました。残った人々も長い苦難の中で死の運命を待っているのです」と、1868年(明治元年)1215日付けの手紙でプチジャン司教はパリの神学校長ルッセイ神父に五島、浦上、大村領木場などの迫害について知らせた。

入牢と拷問  五島の迫害は、先ず1112日(旧暦929日)久賀島の松ヵ浦で始まった。23人のキリシタンが捕らえられて福江の牢に入れられ、拷問を受けたのである。それから10日余りたって上平の水方の善太と、小頭の要助が代官役所に出て、仏寺や神社との縁を切り、キリシタンとして暮らしたいと申し出たことから、上平、細石流、永理、幸泊、外輪、大開など久賀全島に迫害が始まった。福江藩主の代官として久賀を支配していたのは日高藤一であった。

その翌日、五島には珍しく大雪が降った。役人たちは惣五郎ら何人かのキリシタンたちを裸にして海中に立たせて寒ざらしにした。わずか
9歳の少年常八荒ナワで後ろ手に縛られて海の中に突き込まれた。そして役人がもっと沖に、「行け」「行け」と言いつける。胸までつかるところに来てとまったら、「もっと行け」と言い、とうとう首の隠れるところまで来た。それでも「もっと行け」と言うので正直な常八は、たちまち溺れて水をしたたか飲んだ。両手を縛られているので泳ぐこともできず溺死しょうとすると役人が来て引き上げ、浅い水の中にほっておかれた。

その後、惣五郎は代官から呼び出しを受けて調べられた。「キリシタンを棄てないなら、明日肥壷に突っ込んでやるぞ」「どうしても棄てませぬ」「それじゃ、海に沈めて逆さ引きにするぞ」「棄てませぬ」「横着もの奴、斬って捨てるぞ」といって刀を抜いた。「かまいません」「逆さつりにして松葉でいぶり殺してやる」「かまいません」「横着な奴、切れ!」と役人が刀に手をかけ、刀を抜く音をさせたがたちまち声を和らげて、「キリシタンを棄てると、お金でも、土地でも何でもやる。こんな責め苦を受けるより棄てたらどうじゃ」「何と言われても棄てません」 役人たちもついに惣五郎を帰らせた。

 
 

その翌日、200人ほどの信者を皆代官所に引き出した。惣五郎が先ず算木責めを受けた。上を三角にとがらせた木を3本ならべ、裸にした惣五郎をその上に座らせ、2人でやっと抱えるくらい大きい石を二つもひざに乗せて、「さあどうじゃ。まだひどい目にあわせるぞ、キリシタンを棄てぬか」と、言いながら、鉄の十手で、背中から腰のあたりをめった打ちにした。それでも惣五郎は棄てると言わない。真っ赤に焼けた木炭を手のひらにのせ、火吹竹で吹き起こすのである。手のひらは燃えたつ炭火で焼けただれたが惣五郎は屈しなかった。ついに膝の石をのけて、用意しておいた十字架に髪をしばりつけ、口をあけさせて四斗樽二杯に満たしてあった水を2人の下役が柄杓で息もつかせず注ぎ込むのであった。見る見る腹はふくれ上がってはり裂けんばかり。役人は惣五郎をいきなり戸板の上に、突き伏せて押さえつけ、腹の水を口からも鼻からも吹き出させた。常八の母エノも算木責めと水責めにあった。大雪の日、キノは裸のまま海中に立たされた。

牢屋の窄  その翌日、水方の善太が青竹の割れるほど打たれた。このような責め苦が10日以上もつづいた。そこにいわゆる富江騒動が起こったので、124日(旧暦1021日)福江牢の23人も久賀に帰され大開の松ヵ浦の牢に入れられた。いまここは牢屋の窄と言われ殉教記念碑が建っている。それは実に惨鼻を極めた牢であった。2間に3間、わずか6坪の小さな土間のままのバラック1棟を厚い板で中央を区切り、男牢と女牢とに区分けした。そこに200人もの人間を立ったまま押し込め、ぴったり雨戸を閉めきったのである。そのせま苦しさ、多くは人の体にせり上げられて足が地につかない。人と人との間に浮いたまま眠るものさえあった。身動き一つできない。子供がこの人間の密集地獄の下にすべり落ちると引き上げるのも容易ではない。3日目には皆の足がはれ上がってしまった。これではならぬというので室の真ん中に1本の丸田を入れて片方の人をできるだけ壁に寄せて立たせ、片方の土間に交替で座らせて、少しずつ休ませるようにした。食物は小さなサツマ芋を朝夕一切れずつ。子をつれた母親はその一切れを子供にやって自分はほとんど食べない。

ひもじさに泣き狂う子供に顔をかきむしられて血まみれになった母親もいた。老人、子供から先ず次々に死んで行った。真っ先に死んだのは助市である。
79歳。1112日捕えられ、鉄の十手で打たれて入牢、12月の中ごろ死んだ。死体は五日五晩そのまま捨ておかれたので、いつの間にか身動きならぬ人間集団の下に踏みつぶされてしまった牢には便所もなく、大小便は流れ放題、その不潔さ、その苦しさ。やがて蛆がわき、体をはい上がってくる。13歳の少女ドミニカ・タセは蛆に下腹をかみ破られて死んだ。5歳の政五郎は一滴の水も与えられない苦しさにアップ(水)、アップと言いながら渇き死にした。10歳のマリア・タキは、熱病に冒されて、髪の毛は抜け体の力は全くなくなった。

こんな悲惨の中で、大人も子供も、なにより大切な信仰を棄てるとは言わない。タキは死に臨みながら少しの悲しさも見せず「私はパライソ(天国)に行きます。お父さん、お母さん、さようなら」と挨拶して安らかに息を引きとった。タキの母は後に、当時のことを回想してはあふれ落ちる涙にのどをつまらせながら「いまでこそ、思い出しては涙もこぼれ、泣きもしますが、その時は、親も子も泣いたり悲しんだりはしませんでした」と語っていたという。

かくまでも残酷な仕打ちでも足りなかったのであろうか。役人たちはなお拷問を加えて改宗をせまり、お坊さんたちは「引導を渡してやる」といって鈴をジャラジャラ鳴らし、お経をとなえながら牢の周囲を回るのだった。野首のソメという婦人は、ひどい吹雪の夜、牢から出され、裸のまま夜通し丘の上に立たされて寒ざらしになった。

 

フランシスコ力蔵(野濱)は53歳。最初の殉教者助市の子である。1121日には算木責め、翌日もまた算木責め、鉄の十手打ち、口には赤く焼けた炭火を入れられた。拷問に痛めつけられた体を牢内の人間密集地獄にもどされて苦しみぬくこと3ヶ月、1869217日ついに息を引きとった。明治3027日叙階、3585日、46歳で帰天の野濱清神父はこの力蔵とテクラとせとの子である。


長崎のキリシタン
著者「片岡弥吉 (かたおか やきち)」の紹介1908年、長崎生まれ。1929年、日本大学高師部地理歴史科卒。1938年、純心高等女学校教論。1950年―1980年、純心女子短期大学教授。1980年2月21日死去。主要著書に、「長崎の殉教者」、「浦上四番崩れ」、「ある明治の福祉像」(ド・ロ神父の生涯)、「日本キリシタン殉教史」などがある。
 
 

久賀島の迫害

 

1,野浜安五郎の非常日記 

 久賀島は、福江島の北に位せる一小島で、アルメイダの布教以来、相当数のキリシタンを数えたものであったらしいが、五島候の迫害によって聖教の種子は一旦中絶した。しかし寛政年間大村藩の隠れキリシタンが貰われて上平、細石流、永里、幸泊、外輪、大開等に落ち付いた。彼等は表向き仏教徒を装いながら、密かに帳方、水方、看防方、又はお側付(水の授け方を監視す)等の役割を定め、飽くまで祖先の信仰を頑守したもので、韓の国(西洋の国)から黒い衣服を着た人が黒船に乗って来て、助かりの道を教えて下さると代々言い伝え、黒船や汽船の通過するのを見る毎に、仕事を止めて両手を合せ、尊敬の意を表するのであった。かくて宣教師がいよいよ長崎に渡来して天主堂を建てた由を伝え聞くや、上平の善太、野首(細石流の一部)の栄八等は率先して長崎へ乗り出した。

慶応二年の頃、田尻の伊勢松、夏越えの善五郎等も再び長崎へ行った。帰途福田に於いて役人の検視を受けた際、初めは渡海船と偽り、後では湯治に行ったものだとごまかした。しかしメダイ等を所持していた為に嫌疑が懸り終に五島の住民なることを白状したので、福江藩に照会が行き、福江からは受取の為め三隻の船を差し送ることになった。これは慶応二年のことであったらしい。その後も幾度か長崎へ往復したが、慶応四年九月頃、作次郎、勝五郎、又助、惣五郎、助蔵、利惣吉、銀造、音五郎、亀造、ヨシの十人組は、兼ねて頭ヶ島の伝道士喜助に就いて教を学び、それから長崎へ渡って洗礼を受けた。

 さて、洗礼を授かった上は、守札などを付けることは相ならぬ、と言われて、水方の善太、小頭の要助の主唱で、八十戸ばかりが所持の守札を悉く取り纏めて畑の畔で焼き捨てた。次いで代官所に出頭して、キリシタン宗門を立てるという願書を差し出そうと協議した。しかし願書の認め方を知らなかったので、以前青方家の家従を務めたことのある嵯峨瀬の善太夫から書式を貰い受け、参三郎と言うものに之を書かせた。そこで小頭の要助が願書を持って代官所に行き、庄屋の江頭忠八に面会を求め、「私は一寸お願いに上がったものでございます」というと忠八が「何か?」と尋ねたので、「今から神社、仏閣、山伏の為には一文たりとも出し得ません」と答えた。傍に控えていた足軽の末吉が之を聞いて、「それはお前さん達の内向きの事じゃあるまいか」と口を添えたけれども、「しかし願って下さい」と要助がいえば、忠八は「出来るか出来ぬかは知らぬが、願って見よう」と引受けてくれた。

 
 

 当時福江の代官として居たのは日高藤一という侍で、久賀の元右衛門というのがその部下であった。要助等がキリシタンたることは、今度の願書一件によって暴露した。長崎から帰島した五日目に早や捕手が廻って来た。ここに於いて』全島のキリシタン二百許り、上平の久米造、市造等の宅に集合し、翌朝足軽に引立てられて代官屋敷へ行った。尤も重立ったキリシタン二十二名は幾日か前に福江表へ連れ行かれ、入牢の憂目を見ていたのである。代官所の門を潜ると、日高藤一以下多数の役人等はズラリと上段に居並び、キリシタンを下手に座らせて、「其方共は天下一統の御法度の宗門を立てるのか?」とまず役人が口をきったので、「左様でござる」と信者はあっさり答えた。

日高は色々と脅迫を加えて彼等が決心の程を当たって見た上で、一先ず宿所に引取らせた。時は陰暦十月の初旬(陽暦十一月下旬)であったが、翌朝は彼の暖地に珍しい大雪となった。役人等は之を勿怪の幸いとし、惣五郎、ウキ、キタ、エノ及び其子の常八等の衣服を剥ぎ取り、裸体のまま海中に立たせて寒晒に処した。時に常八は年僅かに九歳であったが、小頭の子という所から、荒縄で後手に固く縛られ、海の中に突込まれた。役人は岸上に立っていて、もっと沖へ、もっと沖へと号令する。胸の没する所に立止まろうとすると、なお先へ行けと言う。終いには首の隠れる辺りまで行った。それで許してくれるかと思うと、なかなかそうではない。沈んでしまえと言うのだ。子供のこととて言われるままに沈もうとしたら、忽ち口一杯に海水を飲んだ。双手は背に廻して縛られている、暫くは沈んだまま浮かぶことすら出来ず、いよいよ溺死することかと覚悟していると、漸く役人が来て、浅い所へ引上げてくれた。常八は張り詰めた気が緩んで、ワァッーと泣き出した。しかし役人等は他の人々を責めるに忙殺さえて、常八を顧る暇がない。行き葉ちらちらと降って来るのに、常八は首から脇のあたりの水が渇いてしまう迄も海中に棄て置かれた。

 その晩であったか、一人の足軽が来て、惣五郎を呼出し、元右衛門の館に連れて行った。座敷には代官以下足軽等が多く控えている。

 甲「邪宗門も棄てないならば、明日は肥壺に突っ込んで責めるがどうじゃ。」

 惣「どうされても棄てませぬ。」

 甲「それでも懲りなければ、海に沈めて逆曳きにするが可いか。」

 惣「棄てませぬ。」

 甲「横着な奴!斬って棄てるぞ。それでも構わぬか。」

と言いながら刀を引き抜いて見せる。しかし惣五郎は動かない。

 乙「倒に吊るして松葉で燻殺してやるぞ。」

 惣「棄てませぬ。」

 上段の役人「この餓鬼や横着な奴だ。斬れッ、可いから、」

と言って、刀の鞘に手を掛け、音を立てたが、又忽ち声を和らげてすかしにかかる。

 役「おい、其宗を棄てると、金でも地所でも必要なものは何でもやるぞ。責められるよりか棄てないか、その方が優じゃ。」

 惣「何んと言われても棄てませぬ。」

 役「非道いう奴じゃ。打て、その十手で・・・・・どうしても其宗を棄てぬのなら、明日は地獄、極楽を見せるが如何じゃ。」

 惣「どうされても棄てませぬ。」
 
  役「エーッ、この餓鬼め、横着千万だ。退れっ。」役人も終に策の施す所を知らず、足軽に命じて惣五郎を宿所へ連れ戻させた。いよいよ翌日となった。信者は悉く代官所へ引出された。足軽連は広場の両側に十手、青竹などを執って控えている。中央には三角に削った木を三本並べてある。算木攻めの道具だ。真先に惣五郎を引出し、衣服を脱がせて算木の上に両膝を行儀よくして座らせ、二人力でやっと持ちあげ得る位の大石を二個まで膝の上に積み重ね、「サァ如何じゃ。まだ非道い目に逢わせるが是でも棄てぬか。」と言い乍ら、鉄の十手を振って背から腰にかけて砕けよとばかりに打叩いた。それでも屈する色を見せなかったので、今度は真赤に焼けた木炭を掌に載せ、火吹竹を以ってプープーと吹き熾した。火は掌上に燃え立った。しかし惣五郎は自若として顔色すら変えない。

終に膝の上の石を下ろし、側に設けてあった十字架に鬂を縛り付け、口を大きく開けさせて置いて、四斗樽二杯になみなみと汲み入れてあった水を二人して両方から息も継がせずに柄杓で注ぎ込んだ。見る見る腹は膨れ上がって、今にも張り裂けんばかりとなった。が惣五郎は更に怯む様子がない。「この餓鬼や、棄てるのじゃないから引き放せッ」と言いさま、戸板の上に突き伏せて腹の水を力任せに押し出した。常八の母エノも同じく算木責めに掛った。素っ裸にされて十字架に手足を結び付けられ、息気奄々となるまで水を注ぎ込まれた。

キノという婦人は裸体のまま大雪の下で海中に立たされた。其子の喜太平と言って当時六歳になるのが岸から之を見て火のつく様に泣き崩れるので、心なき見物人までが涙の袖を絞るのであった。その翌日、水方の善太が青竹の破れるほど打たれた。福江に引かれた二十三名の中にも激しく責められた者が少なくはなかった。彼等は三尾野の庄屋で糾問された。

一旦棄教した上で、その棄教を取消したものは殊更残酷に責められた。責められたのは十日以上で、まだ急に止みそうにもなかったが、その頃富江騒動が持ち上がり、富江方から福江に責め掛けるという飛報が久賀へ来た。為に出張していた役人等は信者を繋いだままあわてて福江へ引上げた。時は正に陰暦十月二十日で、福江に囚われていた信者も皆連れ戻されて久賀の牢に打込まれた。牢屋は大開の松ケ浦(実は猿浦という所)に設けられたもので、今は「牢屋の窄」と言って、小松が生え茂り、役人の詰所、牢舎、炊事場の跡も判然と分かっている。

家は桁行三間に、梁間二間位もあったろうかと思われる極めて狭隘なバラックで、熱い板を以って中央を仕切り、男牢と女牢とに区分してあった。僅か六坪の所に二百名計りの大勢を無理に押込み、ピッタリ戸を閉め切ったのであるから、その狭苦しさは言語に絶し、多くは人の体にせり上げられて足が地に付かない。宙に上がったまま眠る者すらあった。身動き一つされないので、子供などは偶々眠って下にすべり落ちると、それを引上げるには余程骨があれたものだ。かように立ち続けていた為に3日計りの後には足から腰にはれ上がって来た。これではならぬと言うので、中央に一本の丸太を入れ、その一方の人々を出来得るだけ壁に向って押し寄せて置き、交代で暫時土間に座り、体を休ませることにした。

食物としては小さな薩摩芋を朝に一切れ、晩に一切れ支給するのみである。子供を抱えた婦人などはそれすら自分の口には入れ得ないで、飢えを呼ぶ子供の手に奪われてしまう。

餓じさに泣き狂える我子の為、血塗れとなるまで顔面を掻き破られた婦人すらあった。かかる有様で、老人や子供などは幾程もなく精根が尽き、次から次へと敢え無く倒れた。真先に死んだのは助市という老翁であったが、死骸すら葬ることすら許されず、五昼夜もそのまま牢内に棄て置かれた。為に重なり合える大勢に押しつぶされ、死骸は殆ど平たくなってしまった。牢内には便所の設けさえないので、その不潔といい、臭気といい、全く形容すべき言葉すらない。やがては蛆虫が湧き、ウヨウヨと土間一杯に広がり、衣服を津と伝うて体に這い上がって来る。生きながらその蛆に噛まれる者も少なくはなかった。特に婦人牢の惨状は想像も及ばない程で、十三歳の少女ドミニカ・タセの如きは蛆に下腹を噛み破られて死亡した。
 
 

政五郎という五歳の幼児は、一滴の水も与えられない苦しさに「アップアップ」(水のこと)と泣きながら、息を引き取ったという。かくまで悲惨、目を奥覆うに忍びざる境遇に置かれながら、大人は言う迄もなく、十一二歳の少年少女までが涙を溢したり、無暗に泣き叫んで苦しさを訴えたりする者さえなかった。十歳の少女マリア・タキは熱病に侵され、頭髪は抜け落ち、体はいたく痩せ細り、試みに膝踝を延ばして立たせようとしても、直ぐにグタリと折れ曲がって、如何しても起って居られない程であった。しかし彼女は些か悲しい風情も見せず、無邪気な輝かしい瞳を天に注いで、「私はパライソ(天国)に登ります。

お父さんも、お母さんもさようなら」と言って、そのまま安き眠りに就いた。彼女の母は後になっても、娘の臨終を物語る毎に、溢れ落ちる涙と、湧き狂う感情とに喉をつまらせて暫しは物も言えない位で、「今こそ思い出しては涙も溢し泣きもしますが、その当時は親も子も決して泣いたり悲しんだりするのではありませんでしたよ」と涙ながらに物語るのであった。マツという婦人は独り引き離されて、前から懇意にしていた足軽の屋敷に庇われた。しかし夜な夜な外に出て牢屋の方を打眺めながら涙を流している。

主人が「何故泣くのか?」と怪しんで問えば、マツは「私も牢屋の娘と一つになって死ぬことが出来れば、思い残す所はございません」と言うので、主人も「それでは仕方ない。入れてやろう」と言って入牢の手続をしてくれた。彼女は果たして望み通りに牢死した。入牢中、役人等は幾度となくキリシタンに脅迫を加えて、棄教させようと務めた。しかし何時も徒労に終るので、後では殆ど持て余した体であった。

仏僧なども引導を渡してくれるのだと言って、よくジャランジャランと鈴を鳴らし、盛んに経文を誦えつつ牢屋の周囲を廻る。しかしキリシタンがその都度一斉に声を張り上げてコンタスを始めるので、彼等も気遅れがしたが、すごすごと逃げ去ったものである。野首のソメという婦人は吹雪の烈しかった一夜、牢屋から引出され、裸体のまま丘の上に立たされて、夜晒しの刑に逢った。牢内に囚われることは凡そ八カ月ばかりで、頭分を除き、他はすべて放免された。死亡者三十九名、出牢後の死亡者三名、頭分が悉く放免されたのは二年有余の後であった。

 

非常日記

 この日記は野浜安五郎氏がキリシタンの出牢後、各人に就き一々問いただして書きと留めたもので、簡略にすぎる嫌いこそあるが、貴重な史料たることを失わぬと思う。ただ入牢者全部を網羅していないのは遺憾の至りである。
 
 

野濱紋之助の体験記

 

昭和10年に柳田国男門下の民俗学者瀬川清子氏が細石流を取材し、当時78歳だった野濱紋之助に、牢屋の窄に入牢した時(当時12歳)のことを聴取した。これを雑誌「旅と伝説」912号(昭和11年)に掲載したものを以下に引用する。入牢時の苦難の様子が淡々と語られている。

 

 

「迫害―それは何度も受けた。迫害に会うてもこの久賀では、何分にも「止(や)める」というておらん。責め方はひどかったが信仰は堅かった。親々の代から夜分に人に見えない室で、箱の中に入れて拝んでおった。長崎へ―当方から隠れて行って、―大浦の御堂へ入るときには、あたりを見すまして、人の見らんときにチョロチョロと入る。私の兄の安五郎、堂崎の**さん岐宿から三井楽からも、教理を習いに堂崎(奥浦)に行きおった。

 

教理がだんだん解って来るといろいろ心にわからん事が出来て、25日の権現様の祭りを―それまではしておったが、―遂い止したのだ。それが福江の殿様に聞こえたのだ。福江の役人が厳重にやって来た。11月頃だった。家督も何もすてて死する覚悟で連れて行かれた。頭立つ者が10人ばかり福江へ連れて行かれ、女や子供は本久賀で責められた。ヘコ一つで髪も結わで、両手を引っつけ足を縛り、12月というに、四斗樽二つ置いて代わり代わり水を飲ます。飲まぬとしても口に入るわけでチョウマンのようになって人事不省になると、解いて水を出した。そうして「止めるか止めんか」という。

 

算木責めは、三角の棒を膝の間にさし、膝の上には石をあげる。「止めん」といえば石を上へ上へと積む。青竹を四つに割って打つ。三角の棒が一寸も膝に食い込むと「止めぬ」といっても解く。手に椿油を入れて燠(おき(炭火))を入れたこともある。山の上に棒を立てて裸にしてくくりつける。雪の降る12月だ。オイコミといって雪の降る最中に、海の中へ口元まで深く追い込む日もあった。初めのうちは本久賀の宿々に置かれた。

 

宿は捕えられる以前親しい仲なので、ひどく迫害された日には粥をたいてかまえていてくれたが、やがて海の向うの牢屋の窄へ入れられた。牢屋は山のくぼみで、茅で屋根を葺いていた。戸は格子だった。一食に薯ひとつ、こまかいのは二つ、役人がくれる。私共の残した家から取ったのだろう。嫁菜を塩汁で煮しめた者を食わした。薯は馬鈴薯だ。塩汁は魚をつけた汁で今の醤油だ。女(おなご)牢屋は座れたが、男牢屋は座られぬ。中に棒を通して半分だけ二時間座らして、一方は立たすこともあった。

 

 

午後4時から5時頃大小便に出されると、山の方へ行って薊(あざみ)の根やチガヤの根をしゃぶった。磯の方へ行ったものは牡蠣や水母(くらげ)を食う。鐘がなれば牢屋に帰る。水等は飲んだ覚えがない。半年の間薯ばかり食べておった。引き合いの者(親類知人)が夜中にこっそり何か持って来た事もある。1週に2度出して調べられる。子供は縛ってもあまり責めないで「止めん」とこうだと十手で脅す。水責め火責めはみんなに見せた。牢屋の中でむされ死で48人死んだ。14人死んだ日は多いほうだった。

 

百人2百人はおりましたろ。男どんが2百人もあったように思う。乳飲み子も入れた。それでも「止める」といわんかったので久賀は有名になった。責められて死んだのはなかった。牢屋ガサが足の先まで出来た。まことに人間の姿ではなかった。牢屋の敷物は山の茅で1週に23度敷きかえるがこなごなになっていた。茅は牢屋の中の人を役人がつれていって刈らした。

 

キリスト信者は柔和なもんと知ったからだ。牢屋のまわりにしめ縄をして御幣をかけて「お前たちも宗教はこれで消えてしもうた。もう天国へはいけぬ。」といった。昔神さまがはじめて夫婦をつくったとき「この実を食うな」と二人に言い渡した。それを女子(おなご)が食うた。悪魔が蛇になり代わったのにだまされて、女というものはあさましいもので「お前がそれを食えば何もかも神様のことも、あとも先も解ってしまう」といわれて食うたのだ。

 

それで世の中が大変になった。私等は、それを知っているので神様さえもそうして苦労しなさってくださったからと思って迫害をこらえた。牢屋の中では(祈りを?)唱えもした。話もした。牢屋に入る前本久賀の宿に居て責められていた時には、5人3人と心を曲げた人もあったが、牢屋に入る頃には誰も心を動かされぬようになった。おなごの方は信仰のつよかった者が多かった。夫と引き離された人は生家に預けられていても、かまえが強かった。男は身を捨ててセイジバに出ていたのだから(この爺さん(野濱紋之助)の母おそめ(とめ?)バンバー(野濱とめ(力蔵の妻)という人はえらい剛情だったということである)こうして責められている最中に富江と福江と戦争を始めたので、役人がいそがしくなって私等は思いがけなく助かったのだ。

 

「止めます」といった人は、早速戦争に連れて行かれたが、宗教上の心の苦しみをして帰ってきた。11月連れて行かれ、明けて4月頃富江騒動のおかげで、役人が忙しくなったので、出されてから牢屋の中には6ヶ月いたわけだ。頭取9人はその後牢屋の窄に3年おった。女も子どもも出された。コジマ部落の方の人々でこの時一度よして(棄教して)またなった(復帰した)人は5人いた。許された時には一同神に感謝した。家を捨てて1年あまりかかった。
 
 

帰って畑打とうとしたら、風は屋根を取っている。芋は種もなく、牛も道具も人にとられていた(仏徒の家にはその時の石臼などが今もある)。あちこちと筋知己血筋を尋ねて心配して、貰ってカンコロを喜んで食べた。塩気は海の水をのんだ。仏教徒の筋合がそれぞれ親切にしてくれたので生きた。2年はイナマキや藁にねた。私らの先祖は海超えた向うの大村だ。

 

五島様がこの島には人が少ないからといって、大村様から千人の貰いをなさった時に、千人の中に入ってきた大村ナオリだ。先祖から神様を信じていたので。この下の野首の人達は、仏教徒だが早くから住んでおった人達だ。私等は主に農業でやってきたが今日は漁業もしおる。)(※)文中( )内は編者注

 
                     
                     
                     
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