長崎教区・五島地区年表

福江教会史(カトリック教報、昭和14年まで)

西暦

和 暦

事   項

1929

昭和4

113

 

 

 

213

 

 

42

 

 

 

4

 

 

 

55

14

 

 

 

519

 

 

68

 

 

 

629

 

10

 

1226

 

長崎カトリック青年会の連合をはかるため、西中町天主堂で早坂司教の講演会があった。具体的方法として、研究、収容、慈善、運動、音楽の5部会を充実させ、「理想と使命」を達成のため結成することが発表された。(教報)

 

早坂司教は「灰の祝日」にあたり、教区内司祭および信徒に条件を満たすことによって「特別大赦」を与えた。

 

堂崎天主堂には下五島伝道者養成所を設立して、主として信徒間の伝道に従事する篤志の男女をかわるがわる募集して2カ年半の宗教教育をほどこすことにしているが第4回卒業式が挙行され、男子30名が卒業した。(教報)

 

中等教育を受けた女子教方を養成するため、大浦天主堂内旧伝道学校に女子教方養成所が開設された。これは、女部屋を志願した者を主として高等女学校へ通わせながら宗教教育を施すもので、五島、伊王島、神の島から9名が入学した。(教報)

 

下五島では早坂司教様をお迎えして、堅振式が行われ、55日、堂崎天主堂で145名、7日、浜脇天主堂で97名、9日、水の浦小教区の楠原教会で109名、12日三井楽岳教会で173名、14日、井持浦教会で85名の受検者に対して洗礼を授けられた。(教報)

 

長崎カトリック連合処女会発会式があった。月2回、教理と聖歌の練習をすること、教理指導は山愛師、聖歌は松下師が担当指導することが発表された。(教報)

 

奈留小教区(主任司祭中村師)では、奈留天主堂が完成し、早坂司教さまの手で祝別され、聖フランシスコザベリヨに献げられた。新天主堂は4間半10間の小奇麗な天主堂である。(教報)

 

教皇ピオ11聖下の「金祝」の慶事として教皇特集号を臨時増刊した。

 

長崎公神学校は小神学校だけとする。

 

聖ヴィンセンシオ会第1回総会

 

1930

 

昭和5

11

 

 

 

 

 

2

 

 

 

41

 

51

 

58

 

718

 

 

 

96

 

 

 

97

 

 

1015

 

127

 

1214

 

 

長崎教区教勢

信徒総数 54510

  うち 葛島(有福・江上・水の浦)1008人、浜脇(細石流・永里)1015

     堂崎(大迫・浦頭・半泊・福江)1925人、水の浦(楠原)1517

     三井楽(貝津・姫島・嵯峨の島)2413人、井持浦(立谷)1379

        (教報)

三井楽小教区には女修道院がなかった。必要性を感じた主任司祭西田師は、15名の志願者を得て設立し、「小さき花に会」と名づけ2月初旬、早坂司教様をお迎えして開会式を挙行した。(教報)

 

長崎公教神学校、大浦町に移転

 

「無原罪の聖母の騎士」第1号出版

 

聖ヴィンセンシオ会第2回総会

 

7月18日、雨量716mmの暴雨風に続き、812日再度の台風で、西中町天主堂尖塔が破壊。伊王島天主堂再び大破壊。大浦天主堂、神学校、大村、五島、平戸等の教会も被害を受けた。(教報)

 

三井楽の岳教会は、各部落ごとに青年会を組織していたが、西田主任神父さまのご指導により今回統括してカトリック三井楽青年団とし、青年団旗を作り、早坂司教さまをお迎えして祝別を得た。(教報)

 

三井楽岳教会の巡廻教会の姫島教会は、全島14戸だが聖堂が腐朽頽廃して使用出来なくなったため、聖堂を新築し、早坂司教をお招きして祝別を受けた。(教報)

 

コンベンシルアル・聖フランシスコ会修道院設立認可

 

聖ヴィンセンシオ会第3回総会

 

浦上総流配60年記念祭

1931

昭和6

18

 

415

 

 

429

 

 

 

429

 

53

 

6

 

618

 

 

71

 

 

1015

 

10

 

 

12

 

128

 

 

1212

 

 

 

12

 

教皇ピオ11世は「カスティ・コンタピィ―貞操なる結婚」と題する回勅を出す。

 

1867年福者の号を送られた人たちの氏名・国籍・殉教の年月日・殉教地の紹介書である、205名殉教者略伝刊行。

 

久賀島浜脇天主堂(主任清水師)が完成、429日落成式挙行。献堂式は5月3日、早坂司教様の手で祝別された。近隣の各教会の信者3千人も参集して喜びをともにした。(教報)

 

浜脇小教区、五輪教会献堂

 

浜脇教会献堂

 

長崎カトリック学生布教連盟発会

 

長崎青年・学生連合大会開催

 

 

日本カトリック教報は、日本カトリック新聞地方版として刊行こととなった。カトリック新聞とカトリック新報は合併して、日本カトリック新聞として発足する。

 

教皇ピオ11世「新しき危機に近づけり」回章を発表

 

明治初年度版切支丹刊行書 第一輯

浦川和三郎師・八巻顛男共編 長崎切支丹文献刊行会

 

聖フランシスコ会、浦上小神学校設立

 

佐世保天主堂(主任脇田師)が完成し、献堂式があり、早坂司教の手で祝別された。

(教報)

長崎市内4教会連合青年会は長崎袋町公会堂において、早坂司教、九大教授大澤章氏、田口師を講師にお招きして大講演会を行った。長崎教区で始めての試みであったが会場は満員で大成功であった。(教報)

 

(3代)主任司祭マテオ田川伊勢松師(193112月〜19394月)着任

1932

昭和7

110

 

 

 

 

 

 

 

331

41

 

 

 

417

25

 

 

 

 

426

 

 

 

 

 

 

 

 

51

 

 

 

 

65

 

 

 

 

6

 

 

 

109

 

1126

 

 

久賀島信者一同は浜脇天主堂において、満蒙派遣軍に対する戦捷祈願及び追悼会をカトリック祭典の下に挙行した。(教報)

 

三井楽のカトリック青年会は10余年前に創立されたが、西田神父さまの着任以来の激励によって年2回の総会(正月と8月)は勿論毎月1回幹部会を開き、御堂内の取り締まりを託され、会を至聖なるイエズス御心に献げ、御心の祝日を青年デーとすることとした。(教報)

 

日本司教並びに教区長会議が東京で開かれ、1.毎年6月の第1日曜日をカトリック出版物普及日と定める、2.「天長節」に際し、あらかじめ世間一般に公告してもっとも盛大に、天主堂において平価並びに皇室のためミサ聖祭または共同祈願をなすことなどが決められた。(教報)

 

下五島の堅振は4月早坂司教様によって授けられた。

4月17日久賀島浜脇天主堂において清水神父所管の83名、19日堂崎天主堂において田川神父様所管の156名、21日水の浦天主堂においては浜田神父所管の146名、24日三井楽村岳天主堂において西田神父所管の223名、25日井持浦天主堂において島田神父所管の129名、以上5教会総数737名。(教報)

 

早坂司教、福江座において「公開演説会」を行う

井持浦教会での堅振式を終えられた早坂司教様は、福江教会立ち寄られ、午後7時より福江座において公開演説会を開かれた。福江教会創立以来初めてのカトリック講演会である。司教様は、「日本の国体の精華と武士道によって体現される日本国民道徳の崇高さとを賞賛され、これに反し現代は国民道徳の影うすく武士道の今日骨董化しているのを遺憾として、これに対抗しうるのは、精神主義を高潮し霊によって生きるカトリックによらなければならない」と話された。信徒だけでなく、官吏、教育者、有志等約千名の聴衆した。(教報)

 

パリー外国宣教会総長ド・ゲプリアン大司教は、インド、ビルマ、インドシナ、支那等自会の伝道地を視察した上、長崎上陸へ上陸された。大浦天主堂、浦上天主堂、フランシスか会、十字会、マリア学院、中町天主堂、海星学園清心女学校などを訪問し、夕食後、神学校歓迎会に臨まれ、11時過ぎ福岡へ向かわれた。(教報)

 

2回カトリック講演会が西中町天主堂主宰のもと、長崎公会堂で行われた。講演は「カトリックこそ神の出し宗教、真の明るき永活を教えるもの」脇田師(佐世保教会主任)、「カトリックの一致共同の精神、愛、教養の絶対的権威について」、早坂司教の順でなされた。(教報)

 

堂崎教会では、主任司祭田川師の指導で奥浦村カトリック青年会が結成された。会は毎年2回総会を開き、幹部の選挙や修養講和を傾聴すると同時に毎日曜日は数名の青年が後退で児童の監督を引き受けるなどを行う。(教報)

 

早坂司教病気

 

大浦天主堂、国宝に指定(教報)

 
 

1933

昭和8

111

 

 

 

 

 

 

 

 

629

 

 

 

 

629

 

629

 

215

 

515

 

111

 

新築も同様に見えるほど改築された三井楽天主堂の献堂式が、111日早坂司教様司式のもと行われた。梅木・島田・中村・田川・清水の5師祭がミサ聖祭に侍し、出口・濱田・鶴田の3師が式典係り、松下師が声楽を指揮した。

三井楽の岳天主堂は新築落成したのが明治13年12月で約53年経過しており、木造のため老朽化が著しく、また信徒の増加によって収容しきれなり戸外から窓ごしにミサ拝聴する者もいた。主任西田神父様は改増築を行い、両側を1間づつ広げ、玄関正門を約3間増築し、バルコニー付きの表玄関を追加したので新築同様に完成し、1月7日落成式を行った。(教報)

 

司祭叙品式が大浦天主堂で行われた。イグナチオ今村悦夫(平戸南田平)、フェルヂナンド畑田善助(久賀)、ヤコボ溝口正雄(浦上)の3師は東京大神学校を卒業後、司祭叙品準備の黙想に専心従事されていたが、早坂司教によってめでたく司祭に叙品された。長崎教区では司祭叙品されるのは、5年ぶりのことである。

 

神学校移転新長崎公神学校においては

 

海星中学校、長崎県庁よりカトリック教育禁止令書(10か条)を渡される。

 

中町天主堂焼失

 

聖フランシスコ学院設立認可(11.23開校)

 

1934

昭和9

123

 

 

211

 

 

42

 

 

 

513

 

 

 

 

513

 

 

815

 

 

 

823

27

 

 

911

 

ローマ新使節マレラ大司教、東京シャボン大司教、福岡ブルトン司教を同道し、早坂司教を見舞いの後、教会施設、学校等を視察

 

早坂司教「旧切支丹改宗運動」を呼びかけ、21112月末まで、熱心に祈ることを訴えられる。(教報)

 

教皇ピオ11世は193316日特別聖年大勅書を発布されたが、今度教書「クオオド・スペリオレ・アンノ」によって聖年の大赦を1934年の御復活の8日目より、1935年の御復活まで8日間延長する、というものである。

 

福江、奥浦、久賀島3ケ町村カトリック青年第2回連合総会が久賀島村長はじめ、奥浦小学校長、久賀島3校長、在留軍人分会長、神官らの来臨を得て、浜脇丘頭において開催され、連合運動会を行った。終わりに3ケ町村リレーで大いに盛り上がった(教報)

 

三井楽カトリック青年会2百名と修女院の修女拾余名は、主任司祭西田師に引率され、玉之浦のルルドへ団体参詣を決行した。(教報)

 

堂崎教会の「母の会」及び「ロザリオの会」は、堂崎の浜辺で、聖母被昇天の祝日に連合運動会が開かれた。競技毎に子供たちの「お母さん頑張れ」の声援でにぎやかだった。(教報)

 

早坂司教様がご発病以来10ヶ月快方に向かわれているが、なお静養の必要があるので浦川総代理は8月21日から上五島、23日から27日まで下五島の各教会を巡回し、堅振を授けられた。(教報)

 

マレラ司教、長崎・福岡・岡山各地巡察

 

1935

昭和10

23

 

220

 

3

 

 

 

 

425

 

 

 

 

 

429

 

 

 

518

 

 

 

523

 

 

616

 

 

 

83

 

 

 

 

825

 

 

 

 

12

 

 

 

 

 

長崎神学校聖堂を早坂司教司式で祝別

 

長崎教区司祭、要塞地帯での伝道方針を協議

 

長崎早坂司教、福岡アルベール・ブルトン司教、鹿児島エジド・ロア教区長、宮崎チマッティ教区長は連盟で、教書をもって信者一同にたいし、「帝国は未曾有の非常時に際会しており、吾等は常と異なる覚悟と活動を求められている。主の豊なる聖寵と祝福を願い皇国のために誠意を込めて祈る」こととされた。

 

東京大司教は26日までの両日全日本司教および教区長定例協議会を開いた。協議会は「日本カトリック教徒の愛国の至情で飛行機を献納せんと欲す。司祭、修道者および信徒の賛助、努力」を共同教書で訴えた。更に大司教より文部大臣松田源治宛に書簡として送ることを決定。

 

 

カトリック系の社会事業家奥浦慈恵院の浜崎ツイ氏は多年社会事業に従事し園貢献するところ大として天長の佳節にあたり長崎県庁において長崎県知事により表彰された。(教報)

 

長崎教区松下佐吉師は奄美大島にて宣教を始めた。

昭和9年4月、良妻賢母を目的として創設された、堂崎カトリック婦人会は、慰安会を行い、12時から運動会にうつり大いに意気あがった。

 

奥浦村カトリック婦人会では、海藻採取その他同婦人会の労働奉仕によって得た金拾円を国防献金として寄付した。(教報)

 

奥浦村堂崎カトリック婦人会は慰安会を行った。ミサ後、意見交換会、午後は運動会が行われた。本日の呼び物、「部落対抗綱引き」は、引く人も見る人も手に汗握る熱戦だった。(教報)

 

水の浦の聖ヨゼフ院は、主任司祭浜田師の努力と指導の下に完成し、8月3日、浦川神父様の手で祝別された。聖ヨゼフ院は水の浦天主堂の東北に面する小高い丘の上に位置し、北は湖水のごとき海面に臨み南面すると新緑滴る城岳を仰ぐ。4間に5間半総2階の小ぢんまりした建物である。(教報)

 

堂崎天主堂で堅振式が行われ、130余の児童たちは早坂司教の御手によって勇敢なキリストの兵士となった。よく26日司教様は福吉丸で久賀島へ渡られ、70名、29日は水の浦教会で100名、9月1日三井楽天主堂で184名の受堅者に洗礼を授けられた。(教報)

 

長崎教区教勢  

長崎県総人口  1,206,200人、カトリック信徒数  54,778

 

水の浦小教区、打ち折教会献堂

 
 

1936

昭和11

211

 

 

315

 

 

 

319

 

 

530

 

10

 

119

 

 

1110

 

1211

 

浦上養育院、堂崎慈恵院、鯛の浦養育院は宮内省内務省慶福海及び長崎県等によりそれぞれ表彰され御下賜金奨励金助成金等を県庁において交付された。(教報)

 

カトリック兵器献納会寄付募集金額

東京大教区取扱  26,202.76円(1司教区および教会分)

長崎司教区分   24,068.44円(30教会分)

 

司祭叙品式が大浦天主堂で挙行され、下崎松一、平山庄吉、中田藤太郎、畑田秀穂、岩永静夫の5師が早坂司教の御手によって、めでたく司祭に叙品された。(教報)

 

ローマ教皇庁は駐日使節に対し「神社参拝問題、その他に関する通牒」を送付する。

 

改訂「公教要理」は改訂委員会より発行

 

中町教会主任山口愛次郎師は、布教聖省令により、鹿児島教区長に任命された。(教報)

 

奥浦慈恵院、診療所開設

 

山口愛次郎師の鹿児島教区長着座式が行われ、鹿児島教区は邦人教区となった。なお、長崎教区から古川、溝口両師が離籍して、山口教区長を助けることとなった。(教報)

 

1937

昭和12

22

 〜7

 

 

27

 

 

 

 

 

28

 

 

 

 

221

 

 

330

 

 

 

 

47

 〜9

 

415

 

 

59

 

 

 

523

 

 

68

 

 

 

 

83

 

 

 

815

 

 

 

819

 

 

 

823

 

 

 

9

 

 

 

 

915

 

 

1020

 

 

 

1031

 

 

 

117

 

 

 

 

11

 

 

 

1110

 

 

1123

 

127

 

 

 

1223

 

 

 

33回国際聖体大会がマニラで開かれ、田口芳五郎師を団長とする日本参加団が参列した。長崎教区は、松下師を教区大表に古川重吉、脇田登摩両師のほか男女16名が参列した。(旅する教会、教報)

 

日本26聖人の公式記念日にあたり、マニラで聖体大会の教皇特使ドハティ枢機卿による荘厳ミサと大聖体行列が行われた。

長崎教区では、大浦天主堂で早坂司教の荘厳ミサをはじめ、聖体礼拝、殉教者記念祭、聖時間、司教荘厳聖体降伏式を立山、西町教会で終日行い殉教者の栄光をたたえると共にマニラ聖体大会の成功を祈った。(旅する教会、教報)

 

早坂司教は、昭和8年脳溢血症に襲われ、漸次ご健康を回復してきたものの多端な教区の事務管掌に困難を感じローマ聖庁に教区長解任を請願中のところ布教省令をもって長崎司教職を解かれ、小アジア・フィロメリオ名儀司教に任じられた。(教報)

 

神学校長浦川和三郎師は布教省より暫時、教区管理を命じられ、大浦司教座聖堂において教区顧問及び司祭多数の参列のもとに着任式が行なわれた。(教報)

 

マニラ聖体大会長崎教区参加団帰朝歓迎会は桜馬場町長崎会館において開催された。教区代表松下佐吉師は「大会の一観点」と題してカトリック生活における聖体の意義を述べられ続いて脇田登摩師は大会を機に得た貴重な体験的感想を述べられた。

 

全国教区長会議はシャンボン東京大司教の招聘により東京関口教会で開かれた。婚姻、出版事業、神学校制度等3日間にわたって審議された。(教報)

 

報国聴音機「カトリック兵器献納会号」の命名式は、佐世保市矢岳練兵場で行われた。

 

福江、奥浦教会の信者150人は、主任田川師の引率され、祐徳丸、福吉丸の2隻で玉之浦「ルルドの聖母」巡礼所に団体巡礼し翌日帰郷した。同日、水の浦教会の信者数十名も浜田神父に引率され巡礼を行った。(教報)

 

「愛国第27カトリック号」小型患者輸送機の贈呈式は大村海軍航空隊飛行場で行われた。

 

186268日、日本26聖人殉教者が教皇ピオ9世によって、聖者の尊位に挙げられてより75年目にあたり、日本26聖人し聖75周年記念式典が、長崎市内カトリック4教会、聖ヴインセンシオ会長崎支部、日本殉教者会主催、カトリック教報社後援のもとに純心高女講堂にて19時から盛大に挙行された。(教報)

 

玉之浦ルルドを参詣する信者は年々増加の一途をたどっているが残念ながら宿泊所の設備がなく、旅館にも遠いので不便であったが、主任司祭中田藤太郎師のご尽力によって、ようやく落成、浦川臨時教区長の手で祝別式が行われた。(教報)

 

奥浦村カトリック教会では、カトリック諸団体共同主催の下に、堂崎天主堂で田川神父様司式により1500人の信徒が参集して、皇軍武運長久祈願祭を執行した。(教報)

 

浦上カトリック婦人会は慰問袋315袋を、佐世保聖心幼稚園児は献金、大浦日曜学校の生徒は国防献金、久賀浜脇処女会は坑木搬出賃金をそれぞれ寄託した。

また、奥浦村アカトリック教会でも武運長久の祈願を献げた。(教報)

 

長崎駐在教区顧問および主任司祭は浦上天主堂にて協議し、出征将兵遺家族扶助資金金350円を寄託。また全長崎教区信徒より1戸当たり10銭宛て国防献金することを申し合わせた。(教報)

 

327日ローマ、ラテラン大聖堂で叙品された邦人留学生ベルナルド関望(新潟教区)、アシジのフランシスコ木内籐四郎(仙台教区)、ステファノ斎藤石雄(函館教区)3師のうち、木内師とマリア会司祭シモン久松和大衛門(黒崎村赤首)両師は8月21日、関、斎藤両師は96日帰朝した。(教報)

 

駐日ローマ教皇使節館は、早坂司教の後継者として、山口愛次郎鹿児島教区長が長崎司教に任命した、鹿児島教区も管理となる。(教報)

 

非常時局において長崎教区こぞって銃後運動に邁進しているが、その一つである国防献金は、各教会信者の熱意により、73036銭に達し里脇浅次郎師が県社寺兵事課に持参寄託献納した。(教報)

 

長崎市内4教会では、1031日を国民精神総動員強調デーと定め、午前9時から浦上天主堂で皇軍武運長久祈願祭を執行、午後7時から西中町教会で精神総動員講演会を開催した。(教報)

 

邦人二人目の司教山口愛次郎師の叙階式は浦上教会にて祝別者駐日教皇使節パウロ・マレラ大司教、共祝者東京教区長ア・シャンボン大司教、福岡教区長ア・ブルトン司教によってとりおこなわれ、16時大浦司教座聖堂で長崎教区長としての着座式が行われた。(教報)

 

長崎教区教勢

長崎教区 56,343人 うち福江2,054人、奈留島1,269人、久賀島875人、水の浦1,485人、三井楽2,386人、玉之浦1578人。(教報)

 

山口司教の初巡視と歓迎会はまず教区司祭の養成所であり、司教の母校でもある長崎公教神学校に始まった。(教報)

 

福江、奈留、久賀、奥浦、岐宿、三井楽、玉之浦の下五島カトリック教会連合戦没将兵慰霊祭が西田師司式により、井持浦天主堂で厳かに執行された。(教報)

佐世保教会は、山口司教を迎え事変に対するカトリックの立場を正しく認識すらために佐世保公会堂で「支那事変とカトリック」について、大講演会及び武運長久祈願祭を開催した。(教報)

 

先に1戸あたり10銭を拠出して750円を国防献金として献納したが、山口新司教を迎え、クリスマス記念献金として1戸あたり5銭を拠出し、出征遺家族扶助資金として献納することになった。(教報)

 

 
 

1938

昭和13

321

 

 

 

327

43

 

 

 

55

 

 

 

 

511

 

 

 

511

 

 

512

 

 

 

517

 

 

 

529

 

 

64

 

 

619

 

 

 

619

 

 

625

 

 

 

78

 

 

 

717

 

 

 

724

 

 

86

 

 

 

817

 〜21

 

 

819

 

 

 

920

 〜21

 

 

105

 

 

 

1012

 

東京公教神学校では、盛大な叙品式を執行、司祭4名、助祭3名、副助祭16名がそれぞれ聖位に挙げられたが、その16名の副助祭には長崎教区の7名が含まれている。(教報)

 

下五島教会の本年度の堅振式は327日から43日に亘り、山口司教閣下の手によって厳かに執行633名に受堅された。27日久賀教会で80名、28日堂崎教会で130名、30日井持浦で120名、42日三井楽教会で193名、3日楠原教会で110名の児童に堅振の秘蹟を授けられた。(教報)

 

イタリア特命全権大使エットレ・コンティ氏を団長とする日伊親善経済使節団一行21名は長崎港に入港。山口司教を始め里脇、大窄、中島3師が県嘱託接待委員として通訳歓迎にあたられ、一行のために雲仙観光ホテルでミサをささげられた。(教報)

 

水の浦教会は、天主堂が完成し、427日落成式を挙行したが、山口司教の来臨を仰ぎ祝別式が挙行された。新聖堂は長さ十五間、幅6間の堂々たる建物である。(教報)

 

玉之浦ルルドの聖母天主堂では、山口司教様をお迎えして多数の神父様方参列のもとに盛大な提灯行列が行われた。(教報)

 

15年前、当時の主任平田師の頃からの懸案となっていた玉之浦のルルドの聖母天主堂の釣鐘は聖母崇敬の心篤いフランシスコ竈窄栄助氏夫妻の献金により、山口司教様の手で祝別された。(教報)

 

福江、堂崎、久賀島三教会信者百余名は、田川、七田師引率のもと大巡礼団を組織、皇軍武運長久、国威宣揚と殊に徐州大会戦を目前に控えて皇軍大勝利を祈願するため、大挙して玉之浦ルルドに参詣した。(教報)

 

午前10時から浦上天主堂の歌ミサが始まると同時にラジオ実況が開始され、松岡師の説教をはさんでクレドまで約40分間にわたり全国に中継放送された。(教報)

 

福江教会初聖体組少女11名は、奥浦慈恵院福江分院峰副院長に引率されて、玉之浦ルルドに感謝の参詣をした。(教報)

 

浦上教会では、迫害終息65年の感謝祭を執行、迫害生き残りの人々への謝恩会を催した。感謝祭は山口司教の手によってささげられ、浦川和三郎師の記念講演や浦上聖劇団による「旅」の聖劇が上演された。(教報)

 

「旅」から帰国して65周年を記念して、流配実歴談「旅の話」が浦川和三郎師によって発刊された。(教報)

 

防共協和の道に邁進する蒙彊7百万民衆の教育指導の任にあたるカトリック教員団が、蒙彊50万カトリック代表として張家口特務機関の斡旋で日本視察のため長崎を訪れ大歓迎を受けた。(教報)

 

長崎市内で教職に従事するカトリック教員らが自己完成とアクシオ・カトリックや銃後活動への奉仕の道に邁進するため結成した教員懇話会結成総会は、山口司教ご臨席のもとに大浦天主堂で開催された。(教報)

 

桐の浦、福見、昼の浦信者老若男女70余名は、山口師引率のもと発動汽船をしたてて玉之浦団体ルルド参詣を挙行した。宿泊所は久しぶりの盛況を呈して3日間聖母マリに対する信心が行なわれた。(教報)

 

移民の父中村長八神父様の功績がローマ聖庁に認められ、教皇様からの金メダル「聖会教皇のための賞」がブラジル、サンパウロで授与された。(教報)

 

天正12年、少年使節が教皇に謁見してから354年目に訪伊日本少年団一行13名は三島団長に引率されて、カステルガンドルフの聖父離宮でピオ11世聖下に謁見した。(教報)

 

玉之浦教会では神学生夏期講座を開講した。受講者は38名で盛会裏に終了した。受講者は福江島の神学生を対象としたが奈留島、鯛の浦からも各1名参加した。(教報)

 

田上保栄(玉之浦出身)、杉山春雄(黒島出身)の2師は、42日スイスのフリブルグのマリア会大神学校で叙品され6年ぶりに帰国した。日本マリア会は邦人司祭が2名加わり一挙に5名となった。(教報)

 

日独伊親善協会主催の防共親善宗教会議懇談会が東京神田一つ橋教育会館で開催された。議長より神道、仏教、キリスト教の各代表3名の委員が指定されて審議、5か条の防共議案が採用された。(教報)

 

銃後後援強化週間が11日まで全国一斉に施工された。山口司教は、この一週間、できるだけミサ聖祭に与かり戦没勇士の慰霊、傷痍軍人の平癒出征招聘の武運長久の祈願を行なうよう各主任司祭に示達した。(教報)

 

長崎教区司祭の黙想会の後に実施される聖体行列は、時局柄中止となり、司祭一同より500円を拠出し、皇軍恤兵資金として大阪朝日新聞通信局に寄託した。

 

1939

昭和14

17

 

 

 

25

 

 

 

210

 

32

 

 

321

 

 

 

 

47

 

 

418

 

 

5

 

510

 〜11

 

 

611

 

 

 

726

 

 

 

827

 

 

 

 

 

 

9

 

 

 

101

 

 

103

 〜9

 

 

1011

17

 

1118

 

 

 

11

 

玉之浦教会は、聖堂が老朽化していたが、新春を迎え見事に竣工、司教代理西田師により祝別された。総工費5201円57銭であるがさすがにルルドの聖堂だけあって匿名献金や、参詣者の寄付や信者の労力奉仕で所要の経費は賄われた。(教報)

 

長崎公教神学校に設立されたキリシタン文化研究所の創設式が大浦司教館で厳かに挙行された。浦川所長は日本文化史におけるキリシタン文化の位置と、その顕揚の必要、誤ったキリシタン史是正が急務であると説いた。(教報)

 

教皇ピオ11世ご帰天

 

262代ピオ12世(エウゼニオ・パチュルリ卿)選任。310日サンピエトロ大聖堂にて戴冠の儀が行われた。

 

司祭叙品式が多数の司祭、修道者、信徒の参列のもと、大浦天主堂で厳かに執行された。パウロ熊谷森市、パウロ岳野弥吉(出津教会)、パウロ畑中栄松(水の浦教会)、パウロ田川栄一(西中町教会)、ドミニコ田原一男(玉之浦教会)、ペトロ山田勇(浦上教会)の6師は、山口司教の手でめでたく叙品された。

 

大陸に聖戦奮闘中の皇軍将兵特に郷土部隊慰問のため、脇田登摩、七田和三郎両師が派遣された。(教報)

 

全日本カトリック司教並びに教区長協議会は東京関口大司教座教会で3日間に亘って開催された。(教報)

 

4代)主任司祭ヨゼフ中島万利師着任(19395月〜19416月)

 

福江、堂崎教会の信者約百名は、中島神父さまの引率で皇軍武運長久を祈願してルルド参詣を行った。船中では聖母月についての説教を聞き、聖母への賛美歌を斉唱、ロザリオを繰り、聖母崇敬の一色に塗りつぶされた。(教報)

 

堂崎・福江両教会皇軍武運長久戦勝祈願祭は盛大に執行された。福江で初めての聖体行列は約2千の信者が目抜き通りを行列し、用意された船に乗り込み、戦勝祈願の機織りも鮮やかに堂崎教会に上陸して式典は行われた。(教報)

 

五島福見教会で山口司教により歴史的洗礼式を執行された奈良尾村字高井旅百余名の元帳たちはその後、ひたむきな信仰に邁進していたが、一行150名が山口福太郎師引率の下に玉之浦ルルドに感謝の団体参詣をした。(教報)

 

昭和6年浦上神学校を設立した聖フランシスコ会は、東京田園調布の同会修道院長ガブリエル師司式のもと、第1回〜3回の卒業生12名の着衣式を同時に行なった。

苦節10年、喜びの初穂としてささげられた着衣者は次の12名である。片岡一男(浦上)、森川利彰(浦上)、濱村清吉(久賀島)、久松七五三吉(小榊)、石山平八郎(堂崎)、木村貞夫(褥崎)、寵坂秀夫(玉之浦)、濱崎悟(南田平)、村川嘉一(下黒埼)、扇山武(玉之浦)、田中松五郎(西大村)、樽角清(岐宿)。

 

久賀島、浜脇教会司祭館は、主任岩永師のご努力と信者等の奉仕活動により8月竣工、9月上旬祝別式が執行される。建坪56坪、和室5、全部で38畳敷きである。

(教報)

 

朝鮮布教100周年にあたり、金、朴両師を迎えた在京半島出身者約300名は関口教会に集合、布教開始以来千名に及ぶ殉教者の記念大会を開催した。(教報)

 

勅語の聖旨を奉たいして銃後後援思想の普及徹底を計り、銃後後援の完璧を期するため10月3日から9日まで銃後講演強化週間が設けられることになり、文部時間から司教へ協力の要望があった。(教報)

 

長崎教区司祭黙想会は1011日から17日まで大浦大司教館で開かれた。説教師は、広島教区の荻原晃師。(教報)

 

内閣情報部、長崎県共同主催の各省連合時局問題研究会が市公会堂で開かれた。宗教団体からは仏教連合会及び神職会から各2人、カトリック側からは里脇師と松岡師が出席された。(教報)

 

長崎教区カトリック教勢

信者総数59103人

下五島(奈留島1415人、久賀島858人、福江1986人、水の浦1439人、三井楽2233人、玉之浦1444人)

 

  
   
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