峰 徳美主任司祭

 
 昭和44年6月1日

五島久賀島の浜脇小教区(主任峰徳美)では牢屋の窄殉教100年祭を7月30日行なう事になり準備を進めている。

牢屋の窄は久賀島大間の松ヶ浦にある明治元年、三間に二間、六坪の民家を二つに仕切って男牢、女牢とし、200人余り
   の信者が押し込められ、人間の密集地獄を現出したところである。食物は小さなイモを朝,夕一切れずつ。大小便はたれ流し.餓えと不潔と座ることもならぬ密集地獄の中で39人が殉教した。在牢八ヶ月の間、この人々が示した神への信仰と愛とは、誠に感嘆すべきものであった。ここに殉教記念碑.信仰の碑が建てられていたが、100年記念に納骨堂をつくり殉教者のうち、墓がわかっている十人の分骨が安置される100年祭には里脇大司教司式の記念ミサ、十余隻の船団による海上行進ほか新たに立てた「久賀島カトリック信徒囚獄の跡」と刻んだ記念碑除幕式などが行なわれ、又殉教100年史も出版される予定である。

記念聖堂久賀島には浜脇教会のほか、五輪,永里、赤以田細石流という四つの巡回教会があり合計200戸以上の信者がいた。昭和31年の信者1252名が。人口流出のため信者数が激減したので永里、赤以田、細石流の三教会を合併し、不要になった九電の発電所を
165万円で買収して内部を改装し牢屋の窄。記念聖堂とすることになった。これは辺地の過疎化が教会総合という形で表現化したもので長崎教区が抱えている問題の一つが浮かび出たもの、牢屋の窄合同教会の信者は20戸五輪,10戸、浜脇、30戸、合計60戸で、その60戸も出稼者が多いので信者数は非常に少なくなっている。

巡礼団、殉教
100年祭には県内ばかりでなく、名古屋北九州、別府などからも久賀島出身者が参列する予定なので九州商船チャーターして巡礼団を編成することになり。丸尾武雄師。紐差教会主任。を団長にいただくことになっている.久賀出身者はもちろん、一般信者も巡礼団に加わるように希望されている。

 
 

教報 昭和44810

殉教百年祭と記念教会祝別―久賀に盛り上る信仰

五島久賀島の浜脇小教区〔主任峰徳美師〕では牢屋の窄、殉教100年祭と記念教会の祝別式を730日、里脇大司教様を迎えて荘厳盛大に行はれた。久賀出身者を中心とする巡礼団も、九州商船鳴潮丸をチヤ‐ターして参加、久賀では十余隻の満船飾の漁船が海の行列をかねて出迎え巡礼団を感激させた。入口流出で過疎の町になった久賀もこの日は黒山の人々が集まって、殉教者の信仰と愛をたたえ、さすがに信仰の地であることを思わせた。島出身の司祭、男女修導者も多数里帰りして信仰のム‐ドに包まれていた。{面坂谷師の}参列記をごらん下さい。

 
 

牢屋の窄百周年殉教記念祭

 

第一回、公式盛人殉教記念祭、牢屋の窄、殉教100周年を記念して、1969年(昭和44年)7月31日、里脇大司教主式で盛大に行なわれた。司祭、修道者、浜脇小教区の信徒と共に、長崎からは九州商船の波路丸をチャーターして,久賀湾、牢屋の窄の下まで直行、多くの子孫たちが参加。先祖の遺徳を偲び、神への感謝を捧げた。当時の主任司祭、峰徳美師。説教、丸尾武雄師。当時はまだ。牢屋の窄殉教記念聖堂も各殉教者名碑もなく、ただ中央の信仰の碑のみが建てられていた。浜脇小教区としては牢屋の窄殉教100周年を記念して「信仰の碑」記念誌を出版。先祖の歩みを、くわしく田中千代吉の努力と誠意によって諭された。

 
 

教報 昭和44年8月10日

 髪の一筋に至るまで

   牢屋の窄殉教100周年ミサ
   丸尾武雄師の説教

今は故人となられた島田喜蔵師は、明治2年の末ごろ長崎から久賀島に身をかくしている。明治2年と言えば、久賀島の信徒が、迫害のため閉じ込められていた松ヶ原の牢から出された年である。生前、師は初聖体の準備していた私たちに次の話をしてくれた。あなたたちの先祖は、迫害の時どんなに強く苦難に耐えて来たか、お父さん、お母さんから教えられているんだろう。明治3年と言えば、もうずっと昔のことのようであるが、一月の終りごろ寒い夜だった。私が屋曽根から外輸に行く途中、赤仁田の信者の家に立寄ったらちようど夕食の時だった。あれこれと話していると,丸坊主のばあさんが、書生さんにもと言ったダンゴ汁の皿を出された。お腹もすいていたし喜んでいただいてみた。

 

しかし二口目からは遠慮してしまった。今思えばすまなことをしたと悔やんでいる。それは山芋のような、とろろをすりつぶしてダンゴにし水たきしたものだった。その当時はとろろ、汗さえ充分ではなかったのだ。家は木の枝を組み合わせ,芽をはさみこみわずかに雨風を凌ぐだけであった。タタミどころか床板もなく竹の上にワラを敷いていた。男も、女も、老人も、若い人も髪はなく丸坊主だった。その理由をたずねてみたら迫害の結果だとわかった。

 

ばあさんは次のように話してくれたと言う。私たちに髪がないのは拷問にかけられ、きつい病気にかかった結果です。牢屋の中でかみは皆脱,ヒョウタン頭になりました。ご覧の通り、全くの無一物です。生命だけはつないでいますが、牢屋を出てからの苦労は一通りではありません」と。

 

こう話されて島田師は涙ぐんでしまった。そして最後に髪一筋に至るまで、イエズス様に捧げつくしていたのだよ、と言って結ばれた。愛の証として父なる神は、人類のため十字架上に犠牲となられた。キリストと世の終わりまで旅する神の民の中に現存される聖体のキリストとを似て人間に対する最上の愛の証しとされた。しかし“斯くまで世を愛し給う”との父なる神の言葉は、キリストの33年間の生涯のすべてを通して世を愛し給うと言う狭い意味だけではない。世の終わりまで、否永遠に神の民と共に愛の活動の中に現存する。キリストイエズスをあたえるほどに、世を愛し給うのである。

 

神の民はキリストを除外しては現存し得ない。主はキリスト信者を迫害していたサウロ対して、“サウロよ、サウロよ、なぜ私を迫害するのか”と言って、“なぜ私の信者を迫害するのか”とは言っていない。サウロが、主よ、“あなたはだれですか”とたずねると、“私は、あなたの迫害しているイエズスである”と答えている。キリスト信者を迫害するのと、キリストを迫害するとは同一のことである。キリストの現存する神の民だからである。それで迫害を耐え忍んだ先祖はキリストと共に、父なる神に対して偉大なる愛の証をしたのである。

 

彼らと共に現存するキリストに全き信頼を似て仕え、キリストの犠牲に彼等のもてるすべてを生命までも一致させて奉献し尽くしたのである。御自分の愛を与える事をキリストを通して人々に呼びかけられた。先祖は、その神の愛をキリストと共に“ハイ”と答えて受け入れたのである。この“ハイ”が偉大の愛の犠牲として、父なる神にかえっていったのである。

 

我が主の希望とは

ペトロと他の弟子たちが一晩中働いて何も魚はなかった。心身共につかれきって空腹になっているペトロに主は“船を沖に漕ぎ出し網を入れよ”と言われた。ペトロの心境が察せられる。だがペトロは考え直し、お言葉に従ってやってみます、と答えて網を降している。その結果は大漁であった。今、我々にも同じキリストが話しかけられている。“もう一度やってごらん”と。人間の弱さも、失敗も御存じの主が“もう一度”と言われているのである。宇宙は日一日と完成される終末に向かって進んでいる。世界と人間のため神は人間の協力を要請されている。人間と言う共同体の完成の中にあって個人の完成はあり得るのである。先祖は神の要請に全き協力をおしまなかった彼等こそペトロの如くみ言葉に従って実行したのであり、我々子孫にもそうせよとさとされているのである。


 
 

昭和38年10月1日

わがままはー子供が云うもの

峰徳美

先日、秋のセールス街を歩いていたところ、お母さんの手を引っぱって大声で泣いている子供がいました。おもちゃ屋の前だったので、たぶんおもちゃがほしかったのでしょう。実はまだ新しい大きな人形を抱いていたとろから、一つだけでは満足せず、あれもこれもほしかったのかもしれません。このような光景は、よく見かけるものです。こんな場合、見ている方が、はずかしくなって見ぬふりをして通るものです。そこで私はある昔話を思い出しました。

 

ある王様に玉のような王子が生まれました。王様は王子が大きくなるのを待ちきれず、ある日、国中の有名なお医者さんを集めて、王子が一度に大きくなる薬を与えるよう命じました。かれらは、そんなご無理なことは出来ません、と答えましたが、王様は、それくらいのことが出来ないのか、と怒りました。

 

その時、年とったお医者が進み出て、王様がその薬を差し上げましょう。でもその薬は簡単に手にはいりません。長い年月をかけて探さねばなりません。私は必ずその薬を探して参りますから、たとえどんなことがあっても、王様は私が帰るまで王子様をごらんにならぬようお願い申します。こう云い残して年老いたお医者さんは王様の前から姿をけしました。

 

何ヶ月か過ぎました。数年がすぎました。老医は帰りません。しびれをきらした王様は、“ひと目でよいから王子を連れて参れ”と家来に命じましたが折角、今日までお待ちになりましたのに、と進められるままに、早くも十数年の月日が絶ちました。そんなある日、いつぞやの老医がいかにも疲れた様子で、王様の前に現れて申しました。やっと薬を探し当てました。帰って、さっそく王子様にさし上げたところ、急に大きくなりましたと云って王様の前に通しました。ところがどうでしょう。急に大きくなった王子を見た王様はこの上なく喜ばれ老医の望み通りのほうびを与えた、と云うお話です。

 

皆さんはこの王様のおろかさをお笑いになるでしょう。そして老医が教えた教訓もお分かりでしよう。十数年も立てば子供が大きくなるのは当たり前です。ものごとは、ほどほどにしなければなりません。そこには順序と云うものがあり、自然の秩序と云うものがあります。物事をわきまえることの出来ない子供のわがままは無邪気でかわいいものがあるとしても、大人のわがままには、どうも感心出来ません。

製作されるもの発明されるものすべてが史上最大と云われている今日、これら史上最大の文化人たちがあの王様のように“一度に息子を大きくしてくれ”と本気で云っている。云ゆるわがままと云う史上最大の文化人ときては困ったものです。笑うにも笑えない文を化かした人間なのです。願えば与えられるから祈ってみましたが、少しも生活が楽になりませんので、カトリックの神様がこれ位のことが出来ないのかと本気になって信仰をすて、日蓮さんからたくさんのお金をもらおうとして、自分の子供にも信仰をすてさせようと頑張っている親さん達がいます。まだ若い妻と意見が合わないからと云う理由で別れてしまい、その後どうしても一人で生活が出来ないので再び一諸になるのを拒んで、外の人と結婚させてくれと頼みにやってくる人たち―離婚して他の人と結婚出来ない事がわかっているから頭をさげてお願いに上がった,と云うのです。

公教要理は、はっきりわきまえていながら、ただ、肉欲の生活にだけ心をうばわれて自然の秩序即ち神様が定められた秩序を無視しすててしまって、一度に生活を楽にしてもらおう、一度に幸福な家庭を与えてもらおうとします。あの王様さえ、しびれをきらしながらも十数年の年月を我慢して大きくなった王子を見て満足したでしょう。やはり自然の秩序にはまけました。私たちも本当に自然の秩序。この神様のみむねにさからわなければ、そしてそれを甘んじて受け入れるならば、折角認めることの出来た真の神様をすてずとも、自分よがりに妻をすて、神様を非難したくても立派に楽に生活できるはずであります。子供のわがままは、せいぜいお母さんの気にさわるでしょうが、最高の文明人と称する大人様のわがままと来ては甚だ迷惑なものです。

〔峰 徳美師〕中町教会助

 
 

教報 昭和39年4月1日

復活への道

中町教会 峰  徳美師

 

“キリストはこれらの苦しみをうけて,而して己が光栄に入るべき者ならざりしか”。

世の中には苦しみがあります。そして殆どの人がこの苦しみに合います。この苦しみに会う者はそこから逃れようとします。にも拘わらず、人はこの苦しみから易す逃れることが出来ないのです。結局、苦しみは人生に付きまとうものだと悟ります。

 

そこで人はそれぞれ生きやすいように楽な気持ちで毎日を送ろうと務めます。毎日くよくよしてもはじまらない。だから「気にしない」、「気にしない」、でやっていこう。又こう云う人も少なくないようです。これが運命と云うものさ。人生には山あり、谷あり、空は曇る日もあれば晴れる日もある。きびしい冬が去れば、楽しい春が訪れる。だから決して苦しみばかりは続くまい。自分の苦しい生活を自然界の中に求めてやがて春を迎えることもあろう、と期待する心なのでしょう。

 

ある人は云いました。世の中に苦しみがあるのは他でもない。それは人の心がよこしまであり、欲に充ち満ちているからである、と。いずれにせよ、人は望むと望まないにもかかわらず、多くの苦難に遭って、それに耐えていかなければならないと云うことです。

 

そもそも私達は大小の差こそあれ各々十字架を毎日かついでいるのです。そしてただ、かついでいるばかりでなくキリスト様のみあとにつき従っているのです。なぜなら、キリスト様こそ私達に本当の苦しむ理由を教えてくれたからであります。苦しみを考えぬようにするのが幸せではありません。ただ運命だとあきらめてかかるのが真の幸福への道ではありません。人間の心の弱さを見極めるだけで苦しみの意味を悟ることは出来ないのです。

 

さて、今日、私達は御復活を迎えました。あれほどまでに打ちひしがれ、見るかげもなく悪党たちからなぶられ、あげくのはては、十字架の上でおん脇を貫かれて、息の根を完全に止められた。キリスト様は確かにおよみがえりになり、罪にも死にも打ち勝たれたのであります。苦しみを耐えて死し、そして復活されたと云うこと、これこそ私達に人生の苦難とその価値を教えるものであります。天国への道は十字架の道にて即ち苦しみの道なれば、と四旬節の間となえて来ました.御子キリスト様は御父のみむねを完全に果たすためかかる苦難をうけ、十字架の上に死に、そのため御復活の栄をみ給うた。

 

それと同じく私達は神様のみむね、即ち神様を愛して仕えてゆくがために、この世の苦難と試練を甘んじて,最后の時までこの小さな十字架を決して手放してはならないのです。そうするならば、まちがいなくキリスト様と同じく、キリスト様と一緒に光栄ある復活と天国への栄にいたるのであります。「苦しみをうけて、光栄に入る」。この御ことばは主キリスト様にばかりではなく、彼のみ後につき従っている私達にも云われた実に有難い心づよいおことばなのであります。

 

 

ところで、これら苦難が復活へ通じ、この世の苦悩がきたるべき世への光栄への前ぶれであるとか、又は天国はこの地上生活からすでに始まっているとか、いくたびとなく私達は聞かされておりますが、しかし、いざ神様から少しの苦しみでも与えられると、「主よこの苦杯をわれより遠ざけたまえ」と願うだけであります。そして、されど、「私の意のままにはあらで、神様の御意志のごとくなりますように」と云うことを知らないのです。もし知っていたとすれば、「なぜ私はこんなに苦しまねばならないのですか」,と云う位でありましょう。イエズス,キリスト様が十字架上で苦しみの絶頂にあった時、悪党達は、「おまえは神様だろう十字架より下りてはどうだ」とあざけりとののしりの言葉を吐いた。

 

キリスト様は彼等のこのあざけりを聞くまでもなく確かに十字架から下りようと思えば出来たのであります。しかし彼らは自分がこの世にお出でになられたなは十字架から下りる事ではなく十字架に上る事だったのです。十字架上で息をひきとり、全人類を救い、それによって天国への道を開くためだったのです。私達も毎日の生活に於いて、苦しい、十字架をかついでおります。そんな時世間の悪魔のささやき、あざけりが聞こえてきます誘惑してきます。「なぜそんなに苦しむのか」,「カトリックと云う十字架を捨てなさい」。このような時です。私達がこの苦しみを耐えて最後の復活への信仰を強めるのは。
 
 

わたくしたちは光の子らとしてキリストの養子にされ、神の家族の者とされた。それゆえ、あたりまえのこととしてキリストの使徒職をつぐものとなったのである。キリスト様はわたくしたちを助け、勇気を与えてくださる聖霊を各個人にお与え下さいました。そして今日この聖霊の要求にこたえるために私たちは、キリストの使徒職の本質を知ろうと努力している。そして使徒職の実行とその方法を勉強している。わたしたちが週に幾度となくそのために集合をなし、勉強し、お祈りして聖霊の導きをあおいでいることはわたくしたち自身よく承知である。

 

さて、使徒職の実践。これにはあくまで信仰がなければならない。そして信仰というものは単なる学問でもなければ知識でもなく、かえって日々体得してゆくものでもある。

この点が少々忘れられがちではないだろうか。わたしたちが毎日ミサに歩をはこぶことがじっとひざまずいてお祈りすることが、あるいは、進んで教会活動に出むくこと自体が、信仰の極意を悟ることになるのであり体で得た本物の信仰であろう。

 

日本には日本独特の座禅あるが、この〔行〕はたいしたものらしい。自己修業によって無我の境地のいり、自分を悟り、人生の性を見出すという。かれらは余りおしゃべりもしなければ演説をしているようでもない。ただ目をつぶり正座して沈黙をきびしく守る。その厳しさの中に、自然なままの信仰が彼らには体得されていくのである。

 

あまりにも表面が騒がしく、いらぬものが多くなった現代である。世の中に真にあるものはただ神のみ心だけである。これに的をしぼって〔行〕は励みながら、ますますその信仰をつよめ固めてゆこうではないか。そうすることによって私たちの日々の信仰生活にも心がはいり、おのずからキリスト様の使徒職の極意を悟り彼の真のあとつぎとしての資格をうるであろう。

峰  徳美師―中町教会助任

 
 

誌上神学講座

性と結婚の原理

峰 徳美師

ある学校の通学路を通るとき次の光景にいつも出くわした。小学生はワイワイ騒ぎながら、男の子も女の子も入り混じっていた。中学生は男子ばかりでグループをつくり、女子生徒は、自分たちだけのグループでおしゃべりをしていた。そして高校生ともなると、各々男女一組になって静かに歩いていた。中学生から高校生にかけて性のめざめが友情からまだ純な愛情へうつっていく過程なのである。

ところが小学生が大声でみだらな話をしていた。性教育を口実に家のなかを裸体で歩きまわるお父さんやお母さんのことらしい。まじめな高校生がこう話してくれた。「私の学校ではクラスメイトの妊娠中絶のためカンパをしているよ。」あるお嬢さんが言った。「結婚はしたくない。旦那さんもいらない。ただ、自分の赤ちゃんだけ欲しい」。若者たちの性交渉、だんな様やおくさまがたの浮気。さらには結婚や離婚などは一種のゲームであり、スポーッのようにプレイだと考える人も少なくないという。

 

“人はなにもの?”性が、結婚が、どんな意味をもつのかを知るためには、「人とは何ものか」を探る必要があろう。むかしの哲人たちは、まず、「おのれを知れ」、「人を知れ」、と叫んでいたようだ。現代では、できる限りおのれから遠くにあるものを知れとほえる。自分の外の世界の情報を知恵の限りをつくしてコンピューターで追う。神の叡知を吹きこまれ、神の愛をうけて造られた永遠の傑作といわれる人間の内を知ろうとする者は少ない。

 

そこで、人間がいかなる存在かを少し観よう。〔現代世界憲章12.15〕「神の像である人間は地上の存在の中心であり、頂点である。その本性よりして社会的存在で、その共同生活は人格的交わりの形をとる。神は最初から人間を男と女につくった。人間は社会的存在。

 

人は生まれると同時に家族社会の一員となり、人としての使命をおびる。生きていくうちに自分を意識し将来に心をむける。ひとの接触のなかで自分一人では生きていけない事を悟り、人の助けと協力が要ることを体験する。さらに、人の魂は神のおたすけを仰ぎ神のたよるところまで高められる。こうして神と人のあいだに愛がうまれ、家庭をつくり、大切な信仰教育、文化をうけついでいく。子孫を残すだけの動物と大いにことなる所以である。

 

動物が「今」という瞬間を精一杯生きるのに対して、人は先達が残してくれた過去の歴史を大切にし、教訓としながら未来に大きくはばたく。性衝動にかられて、「今」だけの快楽におぼれるようであれば、神の像である人間とは言えない。地上の存在の頂点でもあり得ない。

 

“人は性をそなえた存在”

“神は最初から人間を男と女につくった”。過去においては性の論理は宗教的な思想のもとに支配されていた。タブー視されていたのも事実である。日本でも古くから、“ヘソから下には人格なし”といわれ、性はいとうべきもの動物的なものと見下されてきた。ところが、動物と人の性とのあいだには天と地のちがいがある。動物の性は、子孫繁殖のため本能的そして肉体的な、いわゆる生物学的次元にとどまるが、人間の性は(a)人格のまじわり() 人格の尊厳を通して創造主なる神の愛へと、高い次元にまで引きあげられている。従って、人の性は現実に神秘そのものであり、「神の示し」と「キリストの救い」という二点から神学的に考えていかなければならない。ヨハネ。パウロ二世教皇も、次のように力説している。人間の性と人格は創造と救世の神秘によらなければ、正しくは理解され得ない、と、いま、この二点にしぼってみよう。

1)、神の啓示なる聖書より

神はご自分にかたどって人を男と女につくられた。彼等を祝福して言われた。“うめよ、ふえよ”。神ご自身が人の性を備えて下さり、人を性と共に祝福して下さった。同時に夫婦のまじわりも祝してくださったのである。

2)、キリストの救いによって

キリストは、たしかに人類をお救いになった。人類の罪を赦し清めて下さった。ということは、人の性も同時に救い、性を清めて神のもとまで引き上げられたのである。また、コリント前6,19−20、では「あなた方の身体は神からいただいた聖霊の神殿である」と、性をもつ人の身に聖霊がお住みくださる。ということは実に聖霊が人の性を聖化してくださるということではないだろうか。そこで、人の性を次のように結論できよう。人間の性は1、動物のような種族を保存するためだけのものではない。2、人格の一致のためだけでもない。3、神との愛の一致に向かうためにこそ、人の性は造られたのであると。

このように性をみて来れば、自ら、わかって来ることだが、カトリック教会は伝統的に結婚生活以外に性行為を認めない。性は真の愛に結ばれてこそ神のご計画を果たす故である。

 


  
   
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